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帰還の拳

 雪原が砕けた。


 ガルムの右拳がセルペンスの腕を弾き、続く左の掌底が胸部を捉える。重い手応え。だが致命打ではない。セルペンスは後方に跳んで距離を取り、幻影の蛇を三体同時に放った。


「まだだ——まだ終わらない!」


 セルペンスの声には、もはや余裕がなかった。精神支配を破られた動揺が、術の精度を確実に蝕んでいる。


 ガルムは幻影の蛇を見もしなかった。金色の闘気を纏った腕で薙ぎ払うと、蛇は霧のように消える。


「効かねぇよ。もう二度とな」


 短く吐き捨てて、踏み込む。雪が爆発するように舞い上がった。


 セルペンスが両手を翳し、最大出力の精神魔術を放つ。紫の波動が雪原を歪ませ、周囲の兵士たちが思わず膝をつく。


 だがガルムは止まらない。


 脳裏に響いているのは、さっき通信越しに聞いた娘の声だ。『パパ、おかえりなさいって言いたいの』。妻の声だ。『あなた、帰ってきて』。たったそれだけの言葉が、どんな魔術よりも強い。


 精神攻撃の波動がガルムの身体にぶつかり——弾けた。


「なっ……!?」


 セルペンスが目を見開く。最強の精神魔術が、完全に無効化された。


 ガルムが間合いを詰める。三歩。セルペンスが防御の蛇を出す。二歩。右腕で叩き潰す。一歩。


「お前と俺の違いはたった一つだ」


 セルペンスの顔が目の前にある。かつてカイルと呼ばれた獣人の、恐怖に染まった瞳。


「俺には帰る場所がある」


 一瞬、セルペンスの動きが止まった。


 その隙を、ガルムは逃さない。


 右拳に全ての闘気を集中させる。傭兵時代に磨いた技。ファングランドの戦士として鍛えた力。辺境都市で守るべきものを得てから、さらに強くなった一撃。


 渾身の拳が、セルペンスの胸を貫いた。



  ◇



 セルペンスの身体から、紫の靄がゆっくりと剥がれ落ちていく。


 教団の術式が解けていくのだと、ガルムは直感で理解した。地面に崩れ落ちたセルペンスの姿が変わっていく。紫の鱗模様が消え、蛇のような瞳が元の獣人の金色に戻る。


「……やる、じゃねぇか」


 セルペンスの——いや、カイルの声が掠れていた。口元に、不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいる。


「カイル」


「その名で……呼ばれるのは、久しぶりだ」


 カイルが震える手で懐から何かを取り出した。蛇の紋章が刻まれた石板。暗い紫色の光を放つそれを、ガルムに向かって投げる。


「持って、いけ。二つ目の……石板だ」


 ガルムが受け止める。石板は氷のように冷たかった。


「なぜ俺に渡す」


「北の果て……あの方の居場所を……」


 カイルの身体が端から砂のように崩れ始める。教団の術が解けた今、その身体を維持する力はもう残されていない。


「止められるのはお前たちだけだ」


「あの方、だと? 四蛇の上に、まだ誰かがいるのか」


 カイルは答えず、ただ微笑んだ。かつて同じ傭兵団にいた頃と同じ、不器用で、まっすぐな笑顔。


「ガルム。お前が……羨ましかったよ」


 その言葉を最後に、カイルの身体は完全に崩れ去った。雪原に残されたのは、わずかな紫の光の残滓だけだった。


 ガルムは暫く動かなかった。拳を握り、歯を食いしばり、ただ静かに立っていた。


「……馬鹿野郎が」


 呟いた声は、雪に吸い込まれて消えた。



  ◇



 北部戦線の制圧は、セルペンスの消滅から二時間で完了した。


 精神支配を受けていた獣人兵たちは次々と正気を取り戻し、混乱の中で同胞を傷つけてしまった者たちが嗚咽を漏らしていた。


 ガルムは疲弊した兵士たちの前に立った。演説など得意ではない。気の利いた言葉も知らない。だが——言わなければならないことがある。


「聞け」


 低い声が、静まり返った雪原に響く。


「俺は昔、獣人だからという理由で傭兵団を追われた。家族を連れて逃げた。行く場所がなかった」


 兵士たちが顔を上げる。


「辺境に流れ着いて、人間の魔術師に拾われた。そいつは種族なんか気にしなかった。俺が強いかどうかも関係なかった。ただ『一緒にやろう』と言った」


 ガルムの言葉はぶっきらぼうで、飾り気がない。だからこそ、一つ一つが重かった。


「今回、俺たちは同胞と戦った。操られた仲間に刃を向けた。辛かっただろう。だがお前たちは間違っていない」


 何人かの兵士が、涙を拭った。


「種族の壁がどうとか、人間が信用できるかとか、そんなことはもうどうでもいい。一緒に戦って、一緒に飯を食って、一緒に帰る。それだけだ。それだけでいい」


 沈黙が降りた。


 そして——一人の若い獣人兵が、拳を胸に当てた。ファングランド式の敬礼。それが波のように広がっていく。十人、百人、千人。雪原を埋め尽くす獣人の兵士たちが、一斉にガルムに敬礼を送った。


「相変わらず不器用な男だな」


 背後から声をかけたのは、ベルグ将軍だった。歴戦の老将は片腕に包帯を巻きながらも、穏やかに笑っている。


「お前は変わったな、ガルム」


「そうか? 俺は何も変わってないつもりだが」


「昔のお前は、こんな演説はしなかった。いや、できなかった」


 ベルグはガルムの肩を叩いた。


「ファングランド全軍の指揮権を、正式にお前に預ける。異論はない。——いや、異論を挟める奴がいたら連れてこい」


「……重いな」


「重くて結構だ。お前の肩なら、十分に耐えられる」



  ◇



 陣幕の中、ガルムは通信の魔導具を起動した。ミーシャが構築した広域通信網のおかげで、ファングランドの最北端からでも辺境都市と直接つながる。


 数秒の接続音の後、聞き慣れた声が響いた。


「ガルム、状況は?」


 レイドの声だ。落ち着いているが、わずかな緊張が滲んでいる。


「北部戦線、制圧完了。四蛇が一体、セルペンスを撃破した。二つ目の石板を確保。これからミーシャに送る」


「……よくやった、ガルム」


 短い言葉だった。だがその中に込められた信頼を、ガルムは正確に受け取った。


「当然だ」


 そう答えた自分の声が、わずかに震えていることに気づいた。疲労のせいだと思いたかったが、たぶん違う。


 カイルの最後の笑顔が、まだ瞼の裏に残っている。


「団長。一つ報告がある」


「なんだ」


「四蛇の上に、まだ誰かがいる。カイルが……セルペンスが、最期にそう言った。『あの方』と」


 通信の向こうで、レイドが息を呑む気配があった。


「わかった。詳しくは戻ってから聞く。——早く帰ってこい」


「ああ」


 通信が切れた。ガルムは魔導具を置き、天幕の外に目を向けた。雪はいつの間にか止んでいる。北の空に、わずかに星が覗いていた。


 帰る場所がある。それがどれほど幸運なことか、今のガルムには痛いほどわかる。


 石板を懐にしまい、立ち上がった。まだ戦いは終わっていない。



  ◇



 辺境都市アルカディア・ノヴァ、中央管制塔。


 ミーシャが受け取った二つ目の石板を、一つ目の隣に並べた。二枚の石板に刻まれた蛇の紋章が共鳴するように光り始め、ミーシャが展開した大陸の立体地図の上に、二本の紫色の線が浮かび上がる。


「ご主人様、見てください」


 ミーシャの声がいつになく真剣だった。虹色の瞳が地図の光を映している。


「二枚の石板から、それぞれ一本ずつ線が出ているのです。この線が示す方向に、教団の何かがある」


 レイドが地図を覗き込む。二本の線は大陸を斜めに横切り、まだ交わっていない。


「残り二枚の石板が揃えば——」


「交点が確定するのです。四本の線が一点で交わる場所。それが教団本拠地の座標」


 ミーシャが小さな拳を握った。


「あと二つなのですよぅ。あと二つで、全ての元凶に辿り着ける」


 レイドは地図に浮かぶ二本の線を見つめた。まだ交わらない線。まだ見えない敵の居場所。だがその輪郭は、確実に狭まっている。


「急ごう。残りの戦線も、待ってはくれない」


 地図の上で、二本の紫の線が不気味に脈動していた。その交点の先に何が待つのか——まだ、誰にもわからない。

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