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獣の誇り、人の心

 血の匂いが、北の大地を覆っていた。


 ファングランド北部——凍てつく荒野に広がる戦場で、ガルムは歯を食いしばっていた。目の前では、つい先刻まで肩を並べていた獣人の戦士が、虚ろな目で味方に牙を剥いている。


「また一人やられた。退がれ、前線を下げろ!」


 ガルムの怒号が吹雪を裂いた。だが号令を受けた兵士たちの動きは鈍い。恐怖が足を縛り、混乱が判断を鈍らせている。


「ガルム殿、第三小隊が壊滅した」


 伝令の獣人が駆け寄り、息も絶え絶えに報告する。その顔は若い。まだ二十にも届いていないだろう。震える手を見て、ガルムは一瞬だけ目を閉じた。


「わかった。生存者を後方に回せ。俺が前に出る」



  ◇



 戦いが始まったのは、三日前のことだった。


 ファングランド北部の集落が次々と襲撃を受けているという急報が、アルカディア・ノヴァに届いた。深淵教団の四蛇が一人、「幻影のセルペンス」。その名は、レイドから共有された情報の中でも特に危険と記されていた。


 精神操作の魔術——獣人の本能を暴走させ、同士討ちを誘発する。これまでに少なくとも五つの集落が壊滅していた。


 ガルムはベルグ将軍率いるファングランド軍と合流し、合同軍の前線指揮を任された。三国連合軍の一角として、獣人連合の戦力をまとめ上げる。かつて傭兵団の一兵卒に過ぎなかった自分が、数千の兵を率いる立場にいる。


 その重みを、ガルムは噛み締めていた。


「ガルム殿」


 天幕に入ってきたのは、ベルグ将軍だった。白毛の狼族。歴戦の老将だが、その表情には隠しきれない疲弊が滲んでいた。


「セルペンスの正体がわかった」


「正体?」


「名はカイル。二十年前、この地で迫害された混血の獣人だ」


 ガルムの手が止まった。


「混血——虎と狼の?」


「いや、獣人と人間の。母が人間だった。当時のファングランドは今以上に排他的でな。純血でない者は、存在そのものが忌避された」


 ベルグの声には、悔恨がにじんでいた。将軍自身がその時代を知っている。あるいは、見て見ぬふりをした側の人間かもしれない。


「カイルは十歳で集落を追われた。母は暴徒に殺され、父は息子を庇って片腕を失った。その後の行方は知れなかったが——まさか、教団に拾われていたとはな」


 ガルムは黙って聞いていた。胸の奥で、古い傷が疼く。


 ——俺もそうだった。


 獣人差別で傭兵団を追われた日のことを、ガルムは忘れていない。仲間だと思っていた人間たちが、手のひらを返した瞬間。妻と幼い子供を連れて、行く当てもなく荒野を彷徨った夜。


 あの時、もし誰にも出会えなかったら。もしレイドという男が辺境にいなかったら。


 自分もまた、復讐に身を堕としていたかもしれない。


「将軍」


「なんだ」


「そいつの怒りは、俺にはわかる。だが——止めなければならない」


 ベルグは静かに頷いた。



  ◇



 四日目の朝、セルペンスが姿を現した。


 戦場の中央に、一人の細身の人影が立っていた。フードの下から覗く顔は、獣人と人間の特徴が入り混じっている。右目は獣人特有の金色、左目は人間の茶色。その不均衡な瞳が、狂気を帯びた光を放っていた。


「来たか、辺境の虎」


 セルペンスの声は穏やかだった。それがかえって不気味だった。


「お前のことは聞いている。差別を受けた獣人が、人間の街で居場所を見つけたという美談。反吐が出る」


「美談じゃない。俺はただ、生きる場所を選んだだけだ」


「選べた、の間違いだろう?」


 セルペンスの目が細まった。


「お前には選択肢があった。受け入れてくれる人間がいた。だが俺にはなかった。獣人にも人間にも拒まれ、どこにも居場所がなかった。この怒りが——お前にわかるか?」


 セルペンスが片手を掲げた瞬間、周囲の空気が変質した。紫色の霧が戦場を覆い始める。精神操作の魔術だ。


 合同軍の兵士たちが次々と膝をつく。目が虚ろになり、口から獣じみた唸り声が漏れる。本能が暴走し、理性の箍が外れていく。


「やめろ!」


 ガルムが叫んだ。だがセルペンスは嘲笑するだけだった。


「獣人の本能を利用しているだけだ。お前たちの中にある獣の部分——暴力衝動、縄張り意識、支配欲。普段は理性で抑えているそれを、少し解放してやるだけ。お前たちは所詮、獣なのだから」


「違う」


 ガルムは紫の霧の中を一歩踏み出した。精神への干渉が、頭蓋の内側を掻きむしるように押し寄せる。視界が歪み、思考が濁る。


 だが、ガルムは歯を食いしばって耐えた。


「お前は俺たちを獣だと言った。だが獣には、守るべきものがある。群れを、家族を、仲間を守る本能がある。それは暴力じゃない」


 ガルムは振り返り、膝をついた兵士たちに向かって吠えた。


「聞け! 守るべき者の顔を思い浮かべろ! お前たちが帰る場所を、待っている者を! それが俺たちの本能だ! 獣の誇りだ!」


 その声は、戦場を貫いた。


 一人、また一人と、兵士たちの目に光が戻り始める。ある者は妻の名を呟き、ある者は子供の笑顔を思い出し、ある者は故郷の風景を胸に刻んだ。精神操作の霧が、内側から押し返されていく。


「馬鹿な——」


 セルペンスの表情が初めて揺らいだ。


「感情で魔術を打ち消すだと? そんなことが——」


「できるんだよ」


 ガルムが地を蹴った。全身の筋肉が膨張し、虎族特有の金色の闘気が体表を覆う。獣化——戦闘本能の全面解放。だがその目は、獣のそれではなかった。澄んだ意志の光が宿っている。


 セルペンスが慌てて精神魔術を集中させた。紫色の波動がガルムに殺到する。


 頭の中に声が響く。


 ——お前は獣だ。


 ——お前は道具だ。


 ——誰もお前を必要としていない。


「うるさい」


 ガルムの拳がセルペンスの魔術障壁を砕いた。衝撃波が雪原を吹き飛ばす。


「俺は獣だ。だが、ただの獣じゃない」


 二撃目。セルペンスが後方に吹き飛ぶ。


「俺には帰る場所がある。待っている家族がいる。守るべき街がある」


 三撃目。セルペンスの精神魔術の霧が、ガルムの闘気に押されて霧散していく。


「恨みに飲まれた時点で、お前はもう獣ですらない。獣は恨みで戦わない。守るために戦うんだ」


 セルペンスの目が見開かれた。その瞳に、一瞬だけ幼い少年の影がよぎった。


「黙れ——黙れ!」


 セルペンスが絶叫した。その体から、これまでとは桁違いの魔力が噴出する。紫色の光が黒に変わり、禍々しい波動が戦場全体を飲み込んだ。


 千年前にアルカディア連合軍を内部崩壊させたという、古代の精神魔術。その系譜に連なる最凶の一手。


「見せてやる。お前の本当の恐怖を」


 ガルムの視界が暗転した。



  ◇



 そこは、アルカディア・ノヴァだった。


 だが、見慣れた街並みは炎に包まれていた。建物が崩れ、通りには倒れた人々が横たわっている。煙の向こうに見えたのは——


「父ちゃん」


 小さな声。ガルムの息子が、瓦礫の下から手を伸ばしていた。その隣には、動かなくなった妻の姿。


「嘘だ」


 ガルムの声が震えた。これは幻だとわかっている。わかっているのに、足が動かない。胸が締め付けられ、呼吸が止まりそうになる。


 最も深い恐怖。家族を失うという悪夢。


「これがお前の本質だ」


 セルペンスの声が響く。


「守ると言いながら、お前には守る力などない。結局、お前も俺と同じだ。大切なものを全て失う——」


 その時だった。


 ガルムの腰に下げた通信具から、雑音混じりの声が聞こえた。


『ガルムさーん! 聞こえますかぁ? ミーシャなのです!』


 ミーシャの甲高い声。そしてその背後から——


『父ちゃん! がんばれー!』


 息子の声だった。元気で、無邪気で、確かに生きている声。


『あなた、無事でいてくださいね』


 妻の声。穏やかで、温かくて、いつもと何も変わらない声。


 幻影が、砕けた。


 目の前の悪夢が、ガラスのように罅割れていく。瓦礫の下の息子も、倒れた妻も、全てが霧となって消えていく。


 ガルムの目に、光が戻った。


「——ああ」


 拳を握り直す。全身に、今までにない力が満ちていた。


「聞こえたぞ。待ってろ、すぐ帰る」


 セルペンスの顔が蒼白に変わった。最強の精神魔術が、通信越しの家族の声ひとつで打ち砕かれた。その事実が、セルペンスの信じてきた全てを否定していた。


 ガルムが構えを取り直した。金色の闘気が、雪原を昼のように照らす。


「来い、カイル。お前の怒りも、悲しみも、全部受け止めてやる。——だがな、お前を止めることだけは譲らない」


 セルペンスの瞳から、一筋の涙がこぼれた。


 次の瞬間、二つの影が激突した。雪原に轟音が響き渡り、戦場の全ての視線がその一点に集まった。


 壮絶な一騎打ちが、始まった。

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