09 無投函日の投函
暦の集配休止日に、投函処理が走っていた。
局の監視ログの連番に、ぽっかりと穴が空く。昨日の「C7-208」の次が、なぜか「C7-210」。
C7-209は、休止日のはずの午前10時11分に処理済。
押印器の使用記録はゼロ。それでも処理は進む――どこかで、**“押されない印”**が押された。
「押印器のクセで割れるかもしれん」
上席の神谷は短く言い、倉庫の鍵束を渡した。
「C7番系は第三集配室。押印器二台。一台は左下にわずかな欠けがある。もう一台は音が高い。点検表を取りに行け」
私は黒革の手帖を開き、骨格を書く。
【現象】休止日にC7-209が処理/連番穴
【器】押印器:A=左下欠け/B=高音
【仮】物理押印なしの擬似処理(瓶口圧痕 or 台帳偽装)
【縦】内部協力者+幽書屋の座標
青井亜麻音は、もうジャケットを羽織っていた。
「油と金属粉の匂いがします。休止日でも人が動いた匂い。床ゴムが熱で柔らかくなった匂いも」
「台車を走らせたな」
「はい。誰かが、“いつも通り”の動線をそのまま使って嘘を本物化した」
◆
第三集配室。
押印台の下、点検表。Aの押印器は左下に欠け。Bは正常だが、スプリングが替えられたばかりで戻り音が高い。
休止日のカメラは省電力で低フレーム。音声はないが、10:10〜10:13に出入りが二件。倉庫係の古手の職員が、出庫記録なしで台車を動かし、封書箱を一度だけ載せ替えている。
私は作業台のゴムマットを指で押し、粉をこそげ取る。金属粉と、古いインクの樹脂臭。
旧国営の廃番インク。例の蒼だ――だが、ここでは色は見えない。樹脂の艶だけが残る。
【室内痕】ゴムマット:金属粉+樹脂臭(旧蒼インク)
【動線】10:10〜10:13:台車移動/封書箱載せ替え
【人】倉庫係:古手/左利き(記録の綴じ癖)
【仮】圧痕だけで処理→連番が進む
「“押さない印”で内部処理を通す……瓶口か台帳角だ」
神谷が眉間を揉む。
「誰かが古い瓶を持ち出した。番号管理が合わんと言ったはずだ」
「倉庫の台帳角も、∅の浅い凹みがついてます」
「脅されている可能性がある。あいつは真面目すぎる」
◆
倉庫係桐生のロッカーには、私物の弁当箱と、薄い封筒が一通。
封筒の裏には子どもの字で「約束、守って」。
封は海藻糊、二度貼り。
脅迫というより、人質の“約束”だ。守るために押せない印を押した。
ロッカーの上段、紙袋。空のガラス瓶。口縁に蒼の毛羽立ち。
瓶の口径を写し、手帖に転記する。
工房で見たものと同径。
供給線はひとつだ。旧瓶と空欄は同じ川で繋がっている。
【桐生】ロッカー:空瓶(蒼毛羽)/封「約束、守って」
【評価】協力者=被脅迫。動機=家族の安全
→ 方針:保護+座標抽出(供給線側から)
「桐生さんを保護に回す。犯人より先に**“約束”を満たす**」
私は家庭相談員と連携し、子の通学路に満ちた円の歩道ピクトを仮設する。通学見守りルートを可視化し、“約束”が局のものに変わるよう案内する。
脅しの結び目を、公の結び目でほどく。
同時に、瓶の供給線を引く。
樹脂臭に混じる柑橘系のテルペン。古インクの可塑剤が特定の防錆油と反応して出る匂いだと、亜麻音が言う。
「川沿いの倉庫です。鉄と油と柑橘。トラックの冷間始動の排気が朝だけ強い。橋の近く」
私は局の払い下げ記録を洗う。
旧瓶は10年前に三か所へ。港湾倉庫群、河原の民営倉庫、市境の資材センター。
港湾は塩の匂いが強すぎる。
資材センターは柑橘がない。
残るは河原の民営倉庫――地図に二つ。橋の袂と堤外地。
さらに、旧瓶の箱に残っていたパレット印を拡大すると、数字の“3”に独特の曲がり。
橋の袂の倉庫が使うパレット業者の焼印と一致した。
【供給線】旧瓶→河原民営倉庫(橋袂)
【匂】柑橘テルペン/冷間排気
【印】パレット焼印“3”の曲がり一致
→ 座標:橋の袂・倉庫C-3
◆
橋の袂・倉庫C-3。
午前の河風は冷たく、鉄と柑橘が混じる。
シャッターの隙間から、低い振動――古い揺動機のベルト音。
鍵は内側から。外扉には満ちた円の正規プレートを仮設し、“外扉扱い禁止”を掲げる。置き配の抜け道はもう通らない。
シャッター横の人通口には、赤ゴム印が転がっていた。
文字は擦れ、「至 回覧」。スタンプ台は乾いている。
塗りの黒丸が鉄扉にいくつも貼られている。
模倣の拡散。
私は剥がし、呼吸のある満ち円だけを二つ、外内に残す。
扉の内側から、足音。
現れたのは、倉庫管理会社の下請けの男。二十代後半。左利き。
胸ポケットにガラス瓶。
圧だけで世界を変えられると信じかけた指。
私は逮捕ではなく、制度の線を見せる選択を取る。
「瓶は押印器ではありません。印は道です。あなたが押したのは、落とし穴です」
男はこわばった顔で、瓶を握り直す。
「幽書屋に頼まれた。“押さない印”で内部を通す方法を実験してくれと。金じゃない、正しさだと思った。“待つ痛み”を減らせるなら」
「待つ痛みは消せない。案内で支えるんです」
私は官報で敷いた**“満ちた円”の事例と、置き配で戻した境界を簡潔に話す。
男の肩が、一度だけ息**で下がった。
「主はどこです」
男は首だけで上を指した。
中二階。事務棚の奥、開きっぱなしの小部屋。
そこに、印影のアーカイブが並ぶ。瓶口径の型、押し当て治具、紙を湿らせるトレイ。
壁に、地図。市内の**“空欄”が赤ピンで刺され、細い糸で結ばれている。
梟珈琲、検品室、旧姓の門柱、集会所、学校――点が線に、線が円**に。
【倉庫内部】押し当て治具/湿紙トレイ/印影アーカイブ
【壁】市内“空欄”マップ→円の連結
→ 仮:幽書屋=制度の副産物の運用継承者/一人ではない
机に、一冊の手帖。黒革。
私のとよく似たサイズと手触り。
開くと、細い線の満ちた円が同じ角度で並ぶ。
脳が遅れて痛む。
――この字は、知っている。
相棒。
郵務三課に来る前、並んで机を使っていた誰か。
その癖が、ここにある。
小部屋の隅、ポスタースキャナの上に薄い封筒。
表は宛名空白。裏に第三の消印――∅ではない。
満ちた円。
インクではなく、鉛筆で二重に。
私の癖。
指が震えた。
「律」
背後で声。
低い、喉の奥に少し砂の入った女の声。
私は振り返らない。
声だけで骨が言い当てる。
相棒――かつての。
消したのは、私か。彼女か。どちらだ。
振り返らないで、私は言う。
「あなたは“制度の副産物”だ。穴を見つけ、空欄で橋をかけ、誰かを軽くする。軽くなった分、別の誰かが墜ちる」
「案内を置けばいい」
彼女の声が笑う。
「あなたの円は美しい。私は円を並べる。私たちの字は似ている。二人で書いた夜を、まだ覚えてる」
「覚えていない」
「**覚えていない“こと”**を、覚えさせられたのよ」
空気が細く張る。
幽書屋は、一人ではない。
継承された運用。制度の影が世代を跨いでいる。
私は手帖を閉じ、正面を向く。
そこには誰もいない。
声だけが遅れて残る。
中二階の窓がわずかに開き、河風が紙を一枚だけめくった。
【遭遇】“声のみ”接触/相棒の字=満ち円二重/姿なし
【評価】位置=橋袂倉庫で確度高/個人特定は次段
→ 方針:拠点の封じ(物的回路遮断)+円の正規化(偽印排除)
◆
私は倉庫差押ではなく、回路の封鎖に切り替える。
旧瓶の回収、押し当て治具の無効化(角丸で圧の伝達を潰す)、湿紙トレイに苦味インクを染み込ませて擬似圧痕を不可視化。
さらに、局内に**“満ちた円”の登録制度を敷く。
誰がどこに何の目的で円を置いたか――案内の台帳**。
円は押せば勝ちの力ではない。案内の手続きだ。
塗りの黒丸は違法と明記し、剥離のボランティアを募集する。
円を濁らせない。
【対処】
・旧瓶回収/治具角丸化/湿紙トレイ無効化
・満ち円登録(案内台帳)/塗り丸=違法掲示
→ 目的:“押さない印”の回路を遮断、案内を制度へ
帰庁すると、神谷が連番の穴の埋めを確認してくれた。
C7-209は無効化され、再処理は翌営業日へ繰り延べ。
桐生の家族は保護下。
橋袂倉庫は封鎖。
幽書屋は声だけを残して、紙の隙間へ消えた。
デスクに座り、私は自分の手帖を開く。
満ちた円を一つ、二重に描く。
鉛筆の震えは弱まらない。
あの夜の円は、二人で重ねた。
誰の弱さを、どちらが守るために、どちらが消したのか。
宛名が、まだ出ない。
亜麻音がドアのところで立ち止まる。
「古いはがきが、局に戻ってきました。赤ゴム印で『宛て所に尋ねあたり』。……でも、差出し人不明。誰も差し出していないと」
赤ゴム印は私物のポケットの中にもある。
昔、二人で、練習した角度。
私は立ち上がる。
【次案件】宛て所に尋ねあたり
・赤ゴム印劣化パターン/書体の年代
・差出局特定→差出人=過去の私?
→ 目的:**“私の宛名”**を引き当てる
赤いポストは、橋の向こうで夕陽を飲み込む。
宛て所は、確かにある。
尋ねれば、必ず、あたる。
――――
次回予告:10「宛て所に尋ねあたり」
古いはがきに赤いゴム印「宛て所に尋ねあたり」。差出人不明のまま戻った郵便が、書体と劣化パターンで差出局を指し示し、篠原律自身の過去へ届く。