表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

09 無投函日の投函

 暦の集配休止日に、投函処理が走っていた。

 局の監視ログの連番に、ぽっかりと穴が空く。昨日の「C7-208」の次が、なぜか「C7-210」。

 C7-209は、休止日のはずの午前10時11分に処理済。

 押印器の使用記録はゼロ。それでも処理は進む――どこかで、**“押されない印”**が押された。


「押印器のクセで割れるかもしれん」

 上席の神谷は短く言い、倉庫の鍵束を渡した。

「C7番系は第三集配室。押印器二台。一台は左下にわずかな欠けがある。もう一台は音が高い。点検表を取りに行け」


 私は黒革の手帖を開き、骨格を書く。


【現象】休止日にC7-209が処理/連番穴

【器】押印器:A=左下欠け/B=高音

【仮】物理押印なしの擬似処理(瓶口圧痕 or 台帳偽装)

【縦】内部協力者+幽書屋の座標


 青井亜麻音は、もうジャケットを羽織っていた。

「油と金属粉の匂いがします。休止日でも人が動いた匂い。床ゴムが熱で柔らかくなった匂いも」

「台車を走らせたな」

「はい。誰かが、“いつも通り”の動線をそのまま使って嘘を本物化した」



 第三集配室。

 押印台の下、点検表。Aの押印器は左下に欠け。Bは正常だが、スプリングが替えられたばかりで戻り音が高い。

 休止日のカメラは省電力で低フレーム。音声はないが、10:10〜10:13に出入りが二件。倉庫係の古手の職員が、出庫記録なしで台車を動かし、封書箱を一度だけ載せ替えている。


 私は作業台のゴムマットを指で押し、粉をこそげ取る。金属粉と、古いインクの樹脂臭。

 旧国営の廃番インク。例の蒼だ――だが、ここでは色は見えない。樹脂の艶だけが残る。


【室内痕】ゴムマット:金属粉+樹脂臭(旧蒼インク)

【動線】10:10〜10:13:台車移動/封書箱載せ替え

【人】倉庫係:古手/左利き(記録の綴じ癖)

【仮】圧痕だけで処理→連番が進む


「“押さない印”で内部処理を通す……瓶口か台帳角だ」

 神谷が眉間を揉む。

「誰かが古い瓶を持ち出した。番号管理が合わんと言ったはずだ」

「倉庫の台帳角も、∅の浅い凹みがついてます」

「脅されている可能性がある。あいつは真面目すぎる」



 倉庫係桐生のロッカーには、私物の弁当箱と、薄い封筒が一通。

 封筒の裏には子どもの字で「約束、守って」。

 封は海藻糊、二度貼り。

 脅迫というより、人質の“約束”だ。守るために押せない印を押した。

 ロッカーの上段、紙袋。空のガラス瓶。口縁に蒼の毛羽立ち。

 瓶の口径を写し、手帖に転記する。

 工房で見たものと同径。

 供給線はひとつだ。旧瓶と空欄は同じ川で繋がっている。


【桐生】ロッカー:空瓶(蒼毛羽)/封「約束、守って」

【評価】協力者=被脅迫。動機=家族の安全

→ 方針:保護+座標抽出(供給線側から)


「桐生さんを保護に回す。犯人より先に**“約束”を満たす**」

 私は家庭相談員と連携し、子の通学路に満ちた円の歩道ピクトを仮設する。通学見守りルートを可視化し、“約束”が局のものに変わるよう案内する。

 脅しの結び目を、公の結び目でほどく。


 同時に、瓶の供給線を引く。

 樹脂臭に混じる柑橘系のテルペン。古インクの可塑剤が特定の防錆油と反応して出る匂いだと、亜麻音が言う。

「川沿いの倉庫です。鉄と油と柑橘。トラックの冷間始動の排気が朝だけ強い。橋の近く」


 私は局の払い下げ記録を洗う。

 旧瓶は10年前に三か所へ。港湾倉庫群、河原の民営倉庫、市境の資材センター。

 港湾は塩の匂いが強すぎる。

 資材センターは柑橘がない。

 残るは河原の民営倉庫――地図に二つ。橋の袂と堤外地。

 さらに、旧瓶の箱に残っていたパレット印を拡大すると、数字の“3”に独特の曲がり。

 橋の袂の倉庫が使うパレット業者の焼印と一致した。


【供給線】旧瓶→河原民営倉庫(橋袂)

【匂】柑橘テルペン/冷間排気

【印】パレット焼印“3”の曲がり一致

→ 座標:橋の袂・倉庫C-3



 橋の袂・倉庫C-3。

 午前の河風は冷たく、鉄と柑橘が混じる。

 シャッターの隙間から、低い振動――古い揺動機のベルト音。

 鍵は内側から。外扉には満ちた円の正規プレートを仮設し、“外扉扱い禁止”を掲げる。置き配の抜け道はもう通らない。


 シャッター横の人通口には、赤ゴム印が転がっていた。

 文字は擦れ、「至 回覧」。スタンプ台は乾いている。

 塗りの黒丸が鉄扉にいくつも貼られている。

 模倣の拡散。

 私は剥がし、呼吸のある満ち円だけを二つ、外内に残す。


 扉の内側から、足音。

 現れたのは、倉庫管理会社の下請けの男。二十代後半。左利き。

 胸ポケットにガラス瓶。

 圧だけで世界を変えられると信じかけた指。

 私は逮捕ではなく、制度の線を見せる選択を取る。


「瓶は押印器ではありません。印は道です。あなたが押したのは、落とし穴です」

 男はこわばった顔で、瓶を握り直す。

「幽書屋に頼まれた。“押さない印”で内部を通す方法を実験してくれと。金じゃない、正しさだと思った。“待つ痛み”を減らせるなら」

「待つ痛みは消せない。案内で支えるんです」

 私は官報で敷いた**“満ちた円”の事例と、置き配で戻した境界を簡潔に話す。

 男の肩が、一度だけ息**で下がった。


「主はどこです」

 男は首だけで上を指した。

 中二階。事務棚の奥、開きっぱなしの小部屋。

 そこに、印影のアーカイブが並ぶ。瓶口径の型、押し当て治具、紙を湿らせるトレイ。

 壁に、地図。市内の**“空欄”が赤ピンで刺され、細い糸で結ばれている。

 梟珈琲、検品室、旧姓の門柱、集会所、学校――点が線に、線が円**に。


【倉庫内部】押し当て治具/湿紙トレイ/印影アーカイブ

【壁】市内“空欄”マップ→円の連結

→ 仮:幽書屋=制度の副産物の運用継承者/一人ではない


 机に、一冊の手帖。黒革。

 私のとよく似たサイズと手触り。

 開くと、細い線の満ちた円が同じ角度で並ぶ。

 脳が遅れて痛む。

 ――この字は、知っている。

 相棒。

 郵務三課に来る前、並んで机を使っていた誰か。

 その癖が、ここにある。


 小部屋の隅、ポスタースキャナの上に薄い封筒。

 表は宛名空白。裏に第三の消印――∅ではない。

 満ちた円。

 インクではなく、鉛筆で二重に。

 私の癖。

 指が震えた。


「律」

 背後で声。

 低い、喉の奥に少し砂の入った女の声。

 私は振り返らない。

 声だけで骨が言い当てる。

 相棒――かつての。

 消したのは、私か。彼女か。どちらだ。


 振り返らないで、私は言う。

「あなたは“制度の副産物”だ。穴を見つけ、空欄で橋をかけ、誰かを軽くする。軽くなった分、別の誰かが墜ちる」

「案内を置けばいい」

 彼女の声が笑う。

「あなたの円は美しい。私は円を並べる。私たちの字は似ている。二人で書いた夜を、まだ覚えてる」

「覚えていない」

「**覚えていない“こと”**を、覚えさせられたのよ」


 空気が細く張る。

 幽書屋は、一人ではない。

 継承された運用。制度の影が世代を跨いでいる。

 私は手帖を閉じ、正面を向く。

 そこには誰もいない。

 声だけが遅れて残る。

 中二階の窓がわずかに開き、河風が紙を一枚だけめくった。


【遭遇】“声のみ”接触/相棒の字=満ち円二重/姿なし

【評価】位置=橋袂倉庫で確度高/個人特定は次段

→ 方針:拠点の封じ(物的回路遮断)+円の正規化(偽印排除)



 私は倉庫差押ではなく、回路の封鎖に切り替える。

 旧瓶の回収、押し当て治具の無効化(角丸で圧の伝達を潰す)、湿紙トレイに苦味インクを染み込ませて擬似圧痕を不可視化。

 さらに、局内に**“満ちた円”の登録制度を敷く。

 誰がどこに何の目的で円を置いたか――案内の台帳**。

 円は押せば勝ちの力ではない。案内の手続きだ。

 塗りの黒丸は違法と明記し、剥離のボランティアを募集する。

 円を濁らせない。


【対処】

・旧瓶回収/治具角丸化/湿紙トレイ無効化

・満ち円登録(案内台帳)/塗り丸=違法掲示

→ 目的:“押さない印”の回路を遮断、案内を制度へ


 帰庁すると、神谷が連番の穴の埋めを確認してくれた。

 C7-209は無効化され、再処理は翌営業日へ繰り延べ。

 桐生の家族は保護下。

 橋袂倉庫は封鎖。

 幽書屋は声だけを残して、紙の隙間へ消えた。


 デスクに座り、私は自分の手帖を開く。

 満ちた円を一つ、二重に描く。

 鉛筆の震えは弱まらない。

あの夜の円は、二人で重ねた。

 誰の弱さを、どちらが守るために、どちらが消したのか。

 宛名が、まだ出ない。


 亜麻音がドアのところで立ち止まる。

「古いはがきが、局に戻ってきました。赤ゴム印で『宛て所に尋ねあたり』。……でも、差出し人不明。誰も差し出していないと」

 赤ゴム印は私物のポケットの中にもある。

 昔、二人で、練習した角度。

 私は立ち上がる。


【次案件】宛て所に尋ねあたり

・赤ゴム印劣化パターン/書体の年代

・差出局特定→差出人=過去の私?

→ 目的:**“私の宛名”**を引き当てる


 赤いポストは、橋の向こうで夕陽を飲み込む。

 宛て所は、確かにある。

 尋ねれば、必ず、あたる。


――――

次回予告:10「宛て所に尋ねあたり」

古いはがきに赤いゴム印「宛て所に尋ねあたり」。差出人不明のまま戻った郵便が、書体と劣化パターンで差出局を指し示し、篠原律自身の過去へ届く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ