08 返送された初恋
タイムカプセルが、校庭の片隅から掘り出された。
錆びた南京錠は教師の手で切られ、クラスメイトの歓声が上がる。だが、ひとつの封筒だけが真っ黒だった。
黒塗りの手紙。差出人は不明。宛名も不明。
返送したくても、返す先がない――と、学校から忘却管理局へ連絡が来た。
「土と鉄の匂い。冬の消印の乾き」
青井亜麻音は、封筒を遠巻きに嗅いで目を細める。
「季節限定風景印が使われてます。雪だるまの小さなエンボス、二月。それから、切手は**『夜桜』の透かし**。当時の限定柄ですね」
私は黒革の手帖を開く。
【現象】中学タイムカプセル:一通のみ全面黒塗り/差出・宛名とも空
【紙】切手:季節限定「夜桜」透かし/風景印:二月・雪だるま
【場】開封行事=卒業十年記念/学校保管庫は完全封印
【仮】封筒の記憶は残る/本文の記憶のみ削除
【縦】第三の消印(∅)痕の有無
教務主任に案内され、理科準備室の長机で作業を始める。
封筒は厚手のクリーム色。黒塗りは筆ペンではない。光の反射が均一だ。トナーを転写して塗っている。“あと塗り”だ。
切手の隅を光に透かすと、夜桜の微細な透かし。その下に、校内購買の在庫管理刻印が薄く浮かぶ。「購-桜⑧」。
購買で買って、その場で貼った。
亜麻音が封の縁を指で撫でる。
「海藻糊ですが、二度貼りです。最初に貼って剥がし、また貼った。繊維の目が二方向に寝てる」
「書き直した?」
「書き直して、塗った。『返送』させないために」
私は消印の輪郭をルーペで追う。
∅はない。だが、小さな欠けがある。風景印の鼻――雪だるまの鼻の人参が、ほんの少し欠けている。
欠けは機械の癖。当時の市内局で一台だけ目撃記録のある押印器。
局内資料で照合。――北第三局・A窓。放課後の臨時窓口。
【痕】風景印:鼻の欠け=北第三局A窓の押印器
【糊】二度貼りの繊維目
【切手】校内購買の在庫印「購-桜⑧」
【仮】放課後に購買→A窓の導線/本人差出が濃厚
差出人は誰か。
本文は黒塗りで読めない。だが、封筒は嘘をつかない。
宛名は空白でも、封の舌の押さえに指の癖が残る。
私は蛍光顕微の簡易スコープで、糊面の脂質パターンを観る。左人差し指に小さなくぼみ。鉛筆だこだ。
左利き。
教務主任に、卒アルと委員会記録を見せてもらう。
当時、文集委員の左利き。三名。
そのうちの一人が、今日の相談者――タイムカプセル開封委員の代表、島田だ。
◆
島田は、体育館脇のベンチに座っていた。
開封式の片づけで汗をにじませ、黒塗りの封筒を膝に置く。
彼女は指先で、その黒をそっと撫でた。
「覚えが、あるようで、ないんです」
「左利きですね」
島田は苦笑して、左手を上げた。
「中学の頃から、鉛筆だこがここに」
私は手帖に線を引く。
【人物】島田:左利き/当時 文集委員/開封委代表
【所持】黒塗り封筒(返送不可)
【仮】自分から自分へ送った“初恋”/自分で塗った黒
「内容は、なぜ黒塗りに?」
島田は視線を落とす。
「……忘れたかったんです、たぶん。初恋の自分を。あの頃の視線や声が、今の仕事や生活の足を引っ張ると思って」
本人申請の忘却では、学校行事や教育記録に触れない限り制度が下りやすい。
だが、これは本文だけが塗られている。制度ではなく、自分の手で。
「返送したいんです。返す先は分からないけど。届くべきだった場所に」
彼女は封筒を抱き締めた。
**“返す”とは、過去へではない。今の自分へ、“届け直す”**ことだ。
私は頷く。
「仮復元はしません。本文はあなたが塗った。尊重します」
「はい」
「代わりに、差出人と配達経路を特定します。“どの島田”が“どのあなた”へ送ろうとしたか。それだけで、宛先は名乗れます」
◆
校庭の隅に新しく据えられた記念碑の陰で、私は当時の配布経路を逆引きする。
購買のレシート控え、図書委員室の貸出カード、放課後の巡回日誌。
二月の雪の日、文集委員会は予備ページを一枚余らせている。差分は島田が持ち帰り。
その夜、北第三局A窓で**「夜桜」切手を購入。風景印の鼻欠けが一致。
……宛名は、当時のクラス番号の並び**。島田の番号と隣の番号の間に一つ分の余白。
宛名を書かずに、番号の“間”へ投函した。
【経路】購買→文集室→A窓(鼻欠け)
【宛先】クラス番号の間(隣席の間隔へ)
【仮】宛名=名前ではなく“間”/対象=“初恋の位置”
宛先は人ではない。
席と席の**“間”。視線が交わり、声がすれ違う細い空気**。
それに返送するには、場所を立てるしかない。
「案内にします」
私は校長室で申請を起案した。
返送先表示――匿名関係宛。
対象:旧2年3組、黒板前から四列目の中央通路。
表示文案:
> ここには、かつて
> **あなたの“間”**がありました。
> 今日のあなたに宛てて、受け取ってください。
校長は目を丸くし、それからゆっくり頷いた。
記念展示の一角に、透明プレートを設置し、床に薄い凹みを三つ――息の位置。
黒塗り封筒は開けない。封のまま、プレートの横の透明函に収納する。
返送は、宛名の再定義で行う。
◆
放課後。
空になった教室に、冬の光が斜めに差す。
四列目の中央通路に、透明プレートが満ちた円の小さな刻印とともに置かれた。
島田は静かに立ち、黒塗りの封筒を透明函に収める。
私は合図し、息の凹みの一つ目を足先で踏む。床材がわずかに沈む。
二つ目。チョークの粉の香り。
三つ目。椅子がきしむ音。
島田は左手を胸に当て、そしてごく短い声で言った。
「ありがとう」
誰に、ではなく。今日に。
【処理結果】返送先表示(匿名関係宛)設置
【副次】黒塗り封筒=封のまま展示/息凹み×3で触覚返送
→ 結論:初恋は名前より位置。返送は**“間”へ。名前を呼ばずに配達**できる。
廊下に出ると、掲示板の隅に丸が一つ、雑に塗られていた。
塗りの黒。
誰かの迷信。
私は白いチョークで、その黒の縁に薄く円を重ねる。
満ちた円。
塗り潰しではない。呼吸の、輪郭。
亜麻音が窓辺で風を嗅ぎ、微笑む。
「宛名が、増えましたね」
「**“今日のあなた”**は、常に新しい宛先だから」
◆
局へ戻る途中、北第三局の前を通る。
夕暮れの窓ガラスに赤いポストが映る。
私はふと立ち止まり、自分の手帖の余白を開いた。
満ちた円を描こうとして、鉛筆が一瞬ためらう。
――同じ躊躇を、誰かと共有した記憶が喉元で反転する。
相棒。
二人で同じ円を重ねた夜があった。
名前が、まだ出ない。
神谷から内線。
「無投函日に、投函処理された郵便がある。規約違反だ。押印器のクセで局内犯が割れるかもしれん」
暦の“集配休止日”に押された見えない印。
誰が、どこで。いつ。
私は手帖を閉じ、走り出す。
【次案件】無投函日の投函
・押印器のクセ/局内動線
・協力者=脅迫の可能性
→ 目的:連番の穴の向こうにいる幽書屋の座標を引く
――――
次回予告:09「無投函日の投函」
暦の集配休止日に処理された封書。連番の穴、押印器のクセ、局内動線が、内部協力者と幽書屋の座標を示す。