07 置き配の座標
置き配アプリの地図に、見えないピンが立っていた。
住所は普通に表示されるのに、ピンは建物の外ではなく、内部を指す。配達完了の秒ログは毎回±3秒だけ揺れ、風の向きとは逆に玄関マットの繊維が寝る。
外に置いたはずの荷物が、中に配置されている。地図は正直だ。座標は嘘をつかない。
「秒ログの揺れ、不自然です」
青井亜麻音が画面を拡大する。
「平均43秒で到着して、置く動作まで9秒。けれど、最後のタップの間だけ、±3秒の弾みが毎回ある。鍵か隠し扉。身体の“迷い”の時間です」
「風は?」
「西から3m/s。なのに玄関マットの繊維は東向きに寝てる。中から外へ風が漏れてる」
私は黒革の手帖を開いた。
【現象】置き配:内部座標/秒ログ±3秒の弾み/マット繊維=内→外
【対象】共同アトリエ入居の築古ビル
【仮】内扉(隠し扉)を外扉として登録→“置き配”が内側で完了
【縦】第三の消印(∅)の関与可能性/共同体の痛点狙い
宛先は、商店街の角を曲がった古い印刷工場跡。今は共同アトリエとして若い作家が入っている。
「梟珈琲」から徒歩三分。関係の網目の中心に近い。
◆
午前の光が斜めに差す。
印刷工場の名残りのローラー痕が床に残り、壁には古い配線が蜘蛛の巣のように張り付いている。
オートロックの外にメタルの投函棚。アプリの置き配写真には、いつもこの棚の右端が写っている。
けれど、今日の棚の埃は――右端だけ薄い。
「置いた後に誰かが手を伸ばして、中へ引き込んでる」
亜麻音が、棚の擦り傷に触れる。傷の高さは膝。内扉の下部のゴム当てが擦る高さと一致する。
私は管理人を呼び、避難経路図と内部の間取りをもらった。
図面では、右手奥の壁の向こうに**旧時代の“検品室”**があるはずだ。今は倉庫扱いで、賃貸図面に描かれていない。
風がそこから漏れている。
【現地】置き配棚右端=埃薄/下部擦り傷=膝高
【図】旧検品室:現図面非記載
【仮】外扉→棚→内扉(検品室)→内部受取の擬態
「合鍵、誰が持ってます?」
管理人が答える。「代表者だけです。入居者の中で二名。ほかは共用キーのみ」
「代表者は?」
「三輪さんと**東雲**さん」
私は配達ログの秒揺れを代表者の在室時間と重ねる。
三輪在室の時間帯→±3秒が**+側に寄る**(鍵の回し)。
東雲在室の時間帯→±3秒が**-側**(吸気で扉が軽くなる)。
日毎に揺れの偏りが変わる。
――二人の手が交互に扉を扱っている。
【秒揺れ】三輪在室→+側/東雲在室→-側
【解釈】鍵回し時間/吸気による扉軽さ
→ 仮:内扉の鍵は代表者管理。外置き配→内引込の二段動作
私は東雲のプロフィールを照会する。
金属活字を扱う彫刻家。左利き。
三輪は版画家。右利き。
構図がまた揃った。
◆
代表者立会いのもと、旧検品室を開けてもらう。
扉は内側に向けて薄い回廊が伸び、換気扇が外向きに回っている。本来は内→外へ空気を出す装置なのに、逆に動いている。
風が外から吸い込まれ、置き配棚のマットを東向きに倒す理屈だ。
室内の壁には、刷り見本やDMの束。
その中に、一枚だけ――満ちた円に強く似た黒丸の塗りがある。
胸が小さく跳ねる。
けれど近づけば分かる。
それは私の線ではない。濃度が均一で、呼吸がない。塗りだ。
記号が、記号として単独で立っている。
「幽書屋の模倣?」
東雲が肩を竦める。
「最近、誰かが**“丸”を貼っていくんだよ。立ち入り禁止でも安全祈願でもない、“記号の迷信”。∅**を見て怖くなった子が、満ちた丸を真似て、どこもかしこもに貼る」
誰でも押せる印影ほど、世界を濁らせる。
案内は場所に効かせなければただの騒音だ。
【室内】換気扇逆回転→吸気/黒丸=塗り(模倣)
【仮】案内記号の劣化が拡散/**∅**の恐怖→丸の乱貼
私は壁の擦り傷に目を凝らす。腰の高さで円弧状に黒ずみ――大きなフレームが回された跡。
床の粉塵は微かに銅。
金属活字の切粉だ。
東雲は手を拭きながら言う。
「ここは、昔、二人で借りたんだ。三輪と俺で。“共同制作”って、言葉は響きがいいけど、実際は犬も食わない。あの夜、喧嘩して――何を言ったのかは、もう覚えてない。言葉だけが抜けたみたいに、空白」
彼は左手で鍵を回した。動きが迷いなく、±3秒の**-側の理由が体で分かる。
「“あの夜”のことを、誰かが軽くしてくれた**。幽書屋か、別の誰かか。軽くなった分だけ、扱いも軽くなる。置き配だって、中に入れても同じだ、って」
共同体の痛点。
喧嘩の記憶が軽くなると、約束も軽くなる。ルールは薄くなる。
外と内の区別が崩れる。
【人物】東雲:左利き/共同制作の破綻/“あの夜”が空白
【因果】痛点の軽量化→運用の軽視/外内境界の溶解
→ 目的:“あの夜”を復元せずに**“外と内”の**区を戻す
「仮復元はしません」
私は手帖に書く。「喧嘩の言葉は戻さない。代わりに、扉の扱いの**“重さ”を戻す**」
「重さ?」
「置き配規程の**“外扉”定義に“外気観測センサー”を連動させる。外気が当たらない扉では、置き配完了が押せない**。秒ログの**±3秒をゼロに固定する待ちを挟む」
亜麻音が頷く。
「風を要件にするんですね」
「ええ。案内は自然**が強い」
【実装案】
・置き配完了ボタン=外気センサー閾値を満たすまで押下不可
・二段写真(外扉→内扉)を禁止、判別AIで返戻
・検品室扉に**“外扉扱い禁止”の満ち円プレート**(局発行)
→ 目的:“外と内”の区切りを手続きに戻す
管理人は少し渋い顔をしたが、転送事故の責任が重いことは分かっている。
「三輪と東雲に確認してくれ。鍵の運用も見直す」
私は二人それぞれに合意書への署名をもらう。
署名欄で、東雲の左の手首がわずかに震えた。
私は見なかったことにする。
震えは、弱さの尊厳だ。
◆
午後、実地テスト。
配達員の端末で置き配完了ボタンを押すには、外気センサーが風速0.5m/s以上を検知し、音圧が環境騒音±10%以内であること、光量が外光スペクトルに一致すること――三条件が必要になった。
検品室の内扉前では、風が逆に当たる。押せない。
配達員は外扉で写真を撮り、ボタンを押す。
秒ログの**±3秒が消え、完了までの所要が一律になる。
迷いが、手続きの外**へ出ていった。
【テスト結果】外気連動=内扉で押下不可/秒揺れ解消
【副次】置き配棚右端=埃戻る/マット繊維=風向に従う
→ 結論:喧嘩の言葉は戻さず、約束の重さを戻すことで境界が復旧
室内の壁の黒丸(塗り)だけが気にかかった。
私は満ちた円の正規プレートを一枚、検品室の扉に内外それぞれ一枚ずつ取り付ける。
外側には案内として、内側には戒めとして。
塗りは剥がし、呼吸のある円だけを残す。
東雲が、それを見て小さく笑った。
「呼吸があるんですね。丸にも」
「押す人間に呼吸があるので」
彼は頷いたが、目は少し遠い。
あの夜は戻らない。
戻らなくて、いい。
境界だけ、戻せれば。
◆
夕方。
梟珈琲に寄ると、店主が砂糖ポーションを角席の前に一つ置いて、にやりと笑った。
「常連が、今日は二回目で使ったよ」
「案内は、通ってますね」
私はカウンターの端に未入力転送の新しい封筒を見つけた。
宛名と理由が空欄。
封の舌の糊は海藻、押さえは左利き。
だが今回は、瓶口の圧がない。
代わりに、封の裏に小さな手書きの円――震えのある、満ちた円。
模倣の塗りではない。誰かが自分で描いた印。
店主が言う。
「置き配、内側に入れなくなったでしょう。彼ら、ちょっと困ってたよ。鍵の音が、今日は二度鳴った」
「二人で回したんでしょう」
「二人で回せるなら、喧嘩は終わってるのかもね」
私は笑い、手帖に線を引いた。
【痕跡まとめ】
・置き配:内扉擬態→外気センサー連動で排除
・秒ログ±3秒→解消/埃・マット→正常化
・室内:塗り丸剥離→満ち円(正規)設置
・人:代表者二名の合意/“あの夜”は未復元
→ 結論:共同体の痛点は、境界の運用を軽くする。記憶ではなく手続きで重さを戻す。
コーヒーを飲み干し、手帖の余白に目を落とす。
今日も自分の字は丸い。
満ちた円の筆圧は、あの人の癖に似ている。
相棒。
郵務三課に来る前、並んだ机。
名前が、喉の奥で輪郭だけ浮かんで、音にならない。
亜麻音が窓の外を見て言う。
「タイムカプセルの匂いがします」
「また紙の?」
「土と鉄。それから、季節限定切手のインク。たぶん、中学の校庭」
彼女の住所勘は、詩のように具体だ。
局のダッシュボードがピンを跳ね上げる。
タイムカプセル開封のニュース。**出てきた手紙が“黒塗り”**で、差出人不明。
返送ができない。
――返送された初恋。
私は手帖を閉じ、席を立つ。
案内の円は、まだ足りない。
――――
次回予告:08「返送された初恋」
中学のタイムカプセル。出てきたのは“黒塗り”の手紙。切手の透かしと季節スタンプが、差出人と学年を指す。初恋は、誰に返すべきか。