06 消印なき弔辞
弔辞が、どこにも残っていない。
葬祭場からの通報は簡潔だった。投函記録はある。司会台本にも、弔辞朗読の段取りが印字されている。だが列席者の誰も、言葉を覚えていない。
配達ログに消印がない。投函→搬送→配達の途中のどこかで、**“最期の弱さ”**だけが静かに抜け落ちた。
「香典袋の筆跡を辿れ」
上席の神谷が淡々と言う。「弔辞と香典は、同じ手の震えが通る。紙は嘘をつかん」
私は黒革の手帖を開き、案件の骨格を描いた。
【現象】弔辞:投函・台本あり/列席者に記憶なし
【郵】配達ログ:区間途中で消印なし
【場】葬祭場:台本に弔辞位置(空欄感)
【仮】故人または遺族による**“弱さ”の削除**→弔辞が受肉できず蒸発
【縦】第三の消印(∅)の介入可能性
「行ってみましょう」
青井亜麻音が制服の襟を直す。
「焼香の匂い、海藻糊と同じ系統です。紙が多い式場は、風がよく回る」
◆
市の南にある葬祭場。白い花と線香の匂い。廊下は靴音が吸われるように柔らかい。
式場スタッフが案内した控室の机の上に、弔辞の原稿箱が置かれていた。薄い木箱の内側に、紙片を固定するための糊跡がある。だが今は空だ。
「原稿は、確かにお預かりしました」主任が言う。「投函は四日前。差出人は親友代表。当日は祭壇に向かって左、二番目の演目で――」
彼は台本を開く。弔辞の見出し行の下に、白い帯のような空間。文字間隔は均一だが、1pxほど紙地が明るい。
「ここだけ、紙の目が立っている」
私は爪先で軽く触れる。貼って剥がした跡だ。薄く湿らせて、凹みをよく通した後、紙を起こしている。
亜麻音は祭壇側へ回り、香典受付の机を見た。
封の開いた香典袋が並ぶ。彼女は一枚取り、裏の住所欄を嗅いで目を細める。
「同じ手ですね。弔辞を書いた人と。筆圧の降り方が、行頭で二段に落ちる癖。“弱い語”に墨だまり」
私は香典袋を三十枚ほど受け取り、筆跡分布をざっと分類した。
【筆跡】行頭で二段落ち/縦画の末尾が釣り針状/仮名の「よ」に丸み
【件数】該当7枚
【住所】三丁目の同一ブロック集中/左利きの筆順矛盾あり
【仮】親友代表=七人の中の一人/左利き
主任に、棺前供花の並び順を尋ねる。
供花の立札は楷書、だが四番目の札だけ微妙に右上がりだ。左手で立て札を差したときの角度。
「親友代表は、この方ですね」主任が名を読む。
私は名簿に線を引き、地図アプリにブロックを落とす。
◆
三丁目、欅並木の角。
親友代表――相原の家は、角を一つ曲がった二階建て。玄関の表札は木の板で、二本のネジ穴の間隔が微妙に合っていない。自作か、付け替えの跡。
インターホンに応答はない。だが郵便受けに手をかけると、未配達通知が一枚。四日前。
差出人は葬祭場。弔辞原稿返却――のはずの封筒。差出人返戻の朱が押され、だが宛名は空白。
封の舌を撫でる――海藻糊。瓶口の圧はない。**∅**の印影は、今回は出ていない。
【相原宅】表札:穴ズレ/未配達通知=返却封筒(宛名空)
【糊】海藻/圧痕なし(∅なし)
【仮】幽書屋不介入、本人処理の可能性大
「戻って、香典袋の名前順に配達経路を引き直そう」
私は局に戻り、配達ログを地図上で秒単位に並べ、香典袋の投函時刻と照合する。弔辞を投函した時間と、香典を投函した時間は、同じ日の同じ一時間帯。
同じ手の震えが両方に通っている。
「故人は、何を消したんでしょう」
亜麻音が、紙コップのコーヒーを両手で抱える。
「自分の“最期の弱さ”。弔辞がそれを称える言葉だった可能性が高い。“助けて、と言った日”や、“泣いた夜”。それを見せたくないと、本人が申請した」
「親友が、それを読もうとした」
「だから、言葉だけが世界から抜け落ちた。弔辞の形は残る。段取りは残る。声の温度だけ、消える」
手帖に仮復元の方針を書く。
復元はしない。“弱さ”は、守られるべき尊厳だ。
けれど、送る人には送ったという手触りが必要だ。
――配達の問題だ。
【方針】記憶の復元× → 配達体験の補修
【手段】香典袋の筆致→逆引きで弔辞の“節”を構成
【実装】“空の弔辞”を触覚化:紙の厚み/間/息で道を作る
◆
葬祭場に戻り、私は司会台本の該当箇所に透明の短冊を挟んだ。
短冊には一切の文字を入れない。
代わりに、三箇所にごく浅い凹みを作る。息継ぎの位置だ。
相原には、原稿ではなく、この透明短冊を指でなぞってもらうよう頼んだ。
「言葉は書かないでください。あなたの“言おうとした間”だけを、皆に配達します」
相原は左手で短冊を受け取った。指の腹が、かすかに震える。
「……それで、届きますか」
「届かせるのが、こちらの仕事です」
私はもう一つ、受付テーブルの下に小さな箱を置いた。
香典袋を入れる箱だ。底に薄いスポンジを敷き、封を入れる音がわずかに響くようにする。
音も配達だ。言葉の代わりに、置く音と紙の擦れが、**“来てくれた事実”**を祭壇に運ぶ。
さらに、焼香台の脇に満ちた円の小さな刻印を一つ。∅の反転。
空欄は道になる。ならば満ちた印で、**“送る道”**を示す。
【実装】
・司会台本:透明短冊(息の凹み×3)
・受付箱:音の敷き
・焼香台:満ちた円(小)
→ 目的:言葉ではなく配達の復元
◆
開式。
読経が静かに流れ、弔辞の順番が来る。
相原が立ち、透明短冊を左手で持ち、右手の指先で一つ目の凹みをなぞった。
間が生まれる。
誰かの息が合う。
二つ目の凹み。喉の奥が緩む音が、会場のどこかで連鎖する。
三つ目。置く音――受付箱に新しい封が落ちる。
相原は口を開いた。
言葉は出なかった。だが、口の形が、**「ありがとう」**に似ていた。
式後、祭壇の裏で相原が私に頭を下げた。
「読めませんでした。でも、言えた気がします」
「配達は完了しました」
私は受付箱から、底のスポンジを一度持ち上げ、音の残滓を感じ取る。
来た音、置いた音、息の音。弔辞は音域に沈殿した。
【処理結果】“空の弔辞”→息/音の配達で再現
【副次】参列者の行動:焼香台の前でわずかに長い一拍
→ 結論:弱さは守る。送るのは間と音で可能
◆
帰庁途中、亜麻音が信号待ちで空を見上げる。
「故人は、何を消したんでしょうね」
「“助けて”と言った自分でしょう」
「それは、隠したい弱さですか」
「守りたい弱さです」
言いながら、胸のどこかが疼く。
私にも、“助けて”と言った誰かがいたのだろうか。誰に向けて。いつ。
手帖の余白に、また自分の字が勝手に丸くなる。
――私は、誰の弱さを、守らなかった?
◆
局に戻ると、神谷が香典返しの発送台帳を机に置いた。
端の角に、薄い圧。∅。しかし今回は、蒼がない。ガラス瓶ではなく、紙コップの縁のような粗い凹み。
「模倣が出ている」神谷が言う。「幽書屋の印影が**“記号”として独り歩きし始めた。圧さえ残れば消える**と思う連中がいる」
「空欄を、近道だと勘違いする」
「道じゃない。落とし穴だ」
私は通達草案を起案する。
葬祭関連の配達物に関して、一時的に「満ちた円」の薄墨スタンプを局内で付す。印影が**“空欄ではない”ことの宣言**。
消印ではない。案内だ。
**“ここは通る”**を明示する。
【通達案】葬祭配達への満ち円付与(試行)
【目的】“∅”模倣の抑止/案内の可視化
【備考】印影は記録に残すが、個人情報とは結びつけない
神谷がうなずく。
「角を丸めるだけで、押せない圧痕がある、か」
「はい。押す場所をこちらで決める」
◆
夜。
喫茶店の窓に、赤いポストが映っている。
私はカップの縁を指でたどり、息を一度、長く吐いた。
そこで、気づく。
私の字の丸みは、あの人の字に似ている。
細い線、満ちた円の癖。
相棒――郵務三課に来る前に並んで机を使っていた誰か。
名前が出ない。空欄。
**∅**が胸の中で凹む。
亜麻音が、扉の鈴を鳴らして入ってきた。
「置き配のアプリ、地図に“見えないピン”が立ってます。秒単位のログが不自然に揺れる。風の向きも合いません」
「見えないピン」
「はい。扉の外じゃない。内側に座標があります。置き配の座標が、鍵穴に入ってるみたい」
私は手帖を閉じ、席を立った。
配達は、外から内へ。
鍵を回すのは、こちらだ。
【次案件】置き配アプリ:不可視ピン/秒ログの揺れ
→ 目的:扉の中の座標を割る(風向/秒ログ/癖)
――――
次回予告:07「置き配の座標」
置き配アプリの地図にだけ現れる“見えないピン”。秒ログのゆらぎと風向が、隠された扉の位置を示す。