05 表札のネジ穴
最初に気づいたのは、花束だった。
空き家の門柱。枯葉が溜まる足元に、白い小菊とスターチスが毎週一本ずつ増える。誰が置くかを、誰も覚えていない。
近所の人は言う。「ここ、どなたの家でしたっけ」
「表札のネジ穴、幅が合ってません」
臨時配達員の青井亜麻音が、門柱に頬を寄せる。
石の肌に埋めたパテの色が、周囲よりわずかに白い。旧姓の表札が横長で、新姓は縦長だった――そんな履歴が穴のピッチで分かる。
「旧穴の中心間距離、106mm。今の跡が78mm。三文字→二文字に近い匂いです」
「匂いで字数まで?」
「風と一緒に読むんです」
私は黒革の手帖を開く。
【現場】門柱:旧穴ピッチ106mm/新穴78mm/パテ微白
【花】白菊+スターチス(週1で増殖)
【近隣】“誰が住んでいたか覚えがない”
【仮】本人申請の忘却+居場所の保護/巻き添えで近隣の記憶薄化
【縦】第三の消印(∅)介在の可能性
ポストには、転送終了の赤札。
だが局のダッシュボードでは、この住所宛の未達返戻が異様に少ない。記憶が消えても宛先は動くのが普通だが、ここは動かない。
転送先は――未入力。
再び、空欄が仕事をしている。
「花屋を回ろう」
亜麻音が踵を返す。
「このスターチス、駅前の“すみれ園芸”の紙帯です。糊が海藻で、二回巻き」
◆
「すみれ園芸」はガラス越しに湿り気を抱いていた。
店主は五十代、手指に土の色が染みている。帳面の端に古い赤ゴム印。「配達済」。スタンプ台は空。
「花束の定期、こちらから?」
私が訊くと、店主は一瞬目を伏せ、それから頷いた。
「毎週土曜、一束。“無事”の合図に白と紫を、と。現金先払いで三か月。宛先は書かない。“門に置いてください”って。最初はここじゃない別の家だったんですが、二回目からはこの門柱に」
「最初の家?」
「丘の上の集合住宅。番号指定だったけど、管理人に止められて。……匿名の花は、最近敏感でね」
私は帳面を見せてもらう。紙の目が立ったページの隅に、薄い圧。∅――空集合。蒼のない凹み。
瓶口で押した痕だ。
「この圧痕、いつから?」
「二か月前から」
未入力転送やK-12狙いと同じ時期だ。
【花屋】定期:毎土/白+紫=“無事”暗号/先払い
【痕】帳面角に“∅”圧痕(蒼なし)
【経路】初回=集合住宅→以後=門柱
【仮】宛先の保護移動/“無事”の配達は門へ
「依頼人の特徴、何か」
「マスクの女性。声が低めで、左手でお金数えてた。左利きだね」
左利き――倉庫、工房、前会長。線がゆるく繋がる。
だが今回は、匂いが違う。守るための動きだ。
◆
空き家の電気メータは外されていたが、ガスの元栓の留め具が新しい。
私は上下水道の最終検針日を照会する。三か月前。
その日付と同じ日、女性保護シェルターへの行政連絡が記録にある。
本人申請の忘却は適法。居所秘匿の連動措置が発動している。
だが、近隣の**“誰が住んでいたか”まで薄いのは想定以上**だ。
門柱に残る旧穴の芯を細いピンで探る。106mm。旧姓三文字の銅製プレートが想像の中で貼り直る。
私は地図課の古い町名地番図を借りた。旧姓の家族が結婚前に暮らした家が、一本向こうの筋にある可能性が高い。
電話帳の写しと郵送ログを突合。娘の旧姓に宛てた大学入学案内が十年前にその筋を通っている。
【契約】検針:水道=三か月前/ガス栓新
【行政】同日:保護シェルター連絡(秘匿)
【地図】旧地番→旧姓家:一本向こうの筋
【郵】十年前、旧姓宛の案内が通過
【仮】DV避難→本人申請の忘却→**近隣の“語り”**が巻き添えで薄化
私は近隣回覧の折れ癖を見た。空き家の筋だけ折れが浅い。
話題が通らない筋だ。語りが落ちると、人は名前を忘れる。
「仮復元は無理です」
私は亜麻音に言う。「居所秘匿を守らなきゃいけない。戻せるのは**“ここに住んでいたことの温度”だけ」
「案内、ですね」
「所在案内板を出す。名前は書かない。**“暮らしがあった”**ことだけ」
◆
局に戻り、所在案内板の申請を起案する。
対象:××区△△町14-3(門柱)
表示文案:
> ここには、かつて
> 暮らしがありました。
> あなたの今日も、通って構いません。
種類:匿名居住履歴(居所秘匿併存)
根拠:穴ピッチ/検針日/回覧折れ癖/花束定期
上席の神谷がサインをくれる。
「幽書屋の痕もあるな」
「はい。ただ、今回は救済的です。空欄で居場所を守っている。罪は、空欄を道にすることだが、避難路にも道はいる」
「線引きは、おまえがする」
「線を案内に変えます」
承認が下り、私は透明プレートを門柱に二本の新穴で留める。旧穴とは干渉しない78mm側へ。
満ちた円の小さな印を、プレートの隅に薄墨で押す。∅の反転。
風がふっと変わり、亜麻音が鼻を上げた。
「洗濯洗剤の匂い」
「どこから」
「二軒先。ベランダ。柔軟剤はラベンダー。午後に洗う人の匂い」
私は二軒先の玄関前に立つ。呼び鈴を押すと、若い女性が出た。
彼女の目は一瞬、門柱の花を見て、それから私を見た。
「忘却管理局です。少し、お時間を」
私は所在案内板の説明を簡潔に伝える。「名前ではなく、暮らしの存在だけを返す掲示です」
彼女はうつむき、胸元を押さえた。指がうっすらと青あざをなぞる癖。
語らない選択。
私はそれを尊重する。
「花、置いてくださってますか」
彼女は驚いた顔で、ほんの少し頷いた。
「“無事”の合図に白と紫を」
「ええ。約束ですから」
【近隣】隣人=置き手/“無事”の合図で通信
【身体】青あざ痕=過去の暴力の影
【意思】語らない選択→尊重
→ 方針:案内維持+定期配送の安全化
「花の配達、安全化します」
私は花屋へ戻り、宛名ラベルの“満ちた円”化と、配達時刻の微分散(毎週十分ずつずらす)を導入。
瓶口圧痕は薄墨の満ち円に置換。空欄ではなく満たされた印で、**“合図の道”**を可視化する。
◆
夜。門柱の前に、白と紫が静かに咲いていた。
透明プレートが街灯を受け、字のない言葉を反射する。
私は黒革の手帖を開く。
【処理結果】所在案内板(匿名居住履歴)設置
【副次】花屋:満ち円ラベル/配達時刻ランダム化
【痕跡】旧穴106mm→旧姓三文字の推定/検針・地番・回覧折れ癖
→ 結論:忘却は避難路になり得る。空欄は罠にも橋にもなる。橋にするのが仕事。
帰り道、亜麻音がぽつりと言った。
「名前がないのに、確かですね」
「暮らしは、名前より重いから」
「律さんの**“誰か”も、暮らしがあった?」
私は答えない。
手帖の余白に、また自分の字が勝手に丸み**を帯びていく。
――私は、誰の暮らしを、ここに置き忘れている?
ポケットの中の古い赤ゴム印が指先に触れた。
「宛て所に尋ねあたり」。
押したくなる衝動を、私は満ちた円で塞ぐ。
◆
翌朝、局に出ると、葬祭場から通報。
弔辞の投函記録があるのに、消印がない。
読むはずの言葉が、誰の胸にも届いていないという。
神谷が資料を渡す。
「香典袋の筆跡で逆引け。消印なき弔辞は、たいてい弱さの問題だ」
弱さ。
私の胸のどこかで、鉛筆の芯が細く折れた。
【次案件】葬儀:弔辞未達/香典袋逆引きへ
【縦】“弱さ”の尊厳ライン再び
赤いポストは、朝の光で無言だ。
投函口の影は浅く、しかしそこに落ちる封書はある。
忘却は罪ではない。弱さを許さない目が、罪だ。
――――
次回予告:06「消印なき弔辞」
葬儀場で宙に消えた弔辞。香典袋の筆致と配達ログが指し示すのは、故人自身が消した“最期の弱さ”の行。