04 官報の余白
官報PDFの一行の空白は、局の監視アラートで跳ねた。
差替え履歴のハッシュ値は同一。なのに閲覧時、附則の末尾にだけ余白が出る端末がある。
法は全員に等しく読めるはずだ。ならば等しく読めなくするには――記憶側に手を入れるしかない。
「附則第六条の下。施行日注記の行です」
情報担当がスクリーンに映す。モノクロのPDF、右下の2px分が、薄い“息継ぎ”みたいに空いている。
「端末A(式場の担当PC)では空白。端末B(うちの検証機)では空白なし。バイナリ比較は一致。表示だけが異なる」
私は黒革の手帖を開く。
法の文字は変えられない。変えた瞬間、それは法ではなくなる。
だが――**“その日を待つ気持ち”**は、法ではない。個人に宿る。そこを消せば、その人の画面にだけ、一行ぶんの余白が生まれる。
【現象】官報PDFの附則末尾に“息継ぎ”の空白
【技術】ハッシュ一致/表示差=閲覧側の問題
【仮】“施行日を待つ記憶”の削除→可視化として余白
【縦】第三の消印(∅)作動の可能性
「現地、行こう」
青井亜麻音がすでに鞄を肩にかけていた。
「紙とPDFの匂い、違うんです。今日はインクじゃなく油の匂いが強い」
◆
市役所の法制課。会議室に通されると、壁の時計の針音だけがゆっくり進む。
担当係長は三十代後半、指先に紙の小さな切り傷。机上には付箋と蛍光ペンが乱れ、カレンダーの一日に丸が二重三重についている。――来月一日。
「この条例改正の附則が問題のファイルです。要配慮者避難計画の策定義務化。施行日は来月一日。周知を進めていたところ、一部の住民から“何の話?”という問い合わせが急増しまして」
「“何の話?”」
「はい。これまで説明会に毎回来ていた方が、“そんなもの、聞いたことがない”と。報道の切り抜きや回覧板を見ても、視線が滑ると」
私は資料の束から官報プリントを一枚もらう。
紙端に鼻を近づけると、インクの匂いの奥に、乾いた油の気配。PDFを紙に焼く際の定着器の匂いが強い。
プリンタの設定で濃度を上げて刷ったのだろう。“見えない行”を見たいと、刷り手が無意識に抗ったのかもしれない。
【現地】係長机:付箋密集/来月一日に丸多重
【住民】常連の参加者に“忘れ”発生
【紙】濃度強めの印刷=見えない行の可視化欲求
【仮】“待っていた日”の集合忘却→住民側表示に余白
「説明会、拝見できますか」
係長は頷き、午後の臨時回に私たちを入れてくれた。
◆
集会所の和室。畳の目が、光で少しだけ白く起きている。
壁のホワイトボードに資料がマグネットで貼られ、プロジェクタが官報PDFを映す。
附則第六条がスクリーンに現れる瞬間――一拍の空白。
参加者の何人かが、同時に瞬きした。
視線が、すっと右下に滑り落ちる。
亜麻音が、鼻でそっと空気を撫でた。
「雨上がりの匂い」
「雨?」
「紙が一度、湿ってます。凹みを通すための湿り。……瓶口で押した痕を深くするときの匂い」
私は参加者の一人にお願いして、家のカレンダーを見せてもらうことにした。
女性は年配。杖をつき、足取りはゆっくりだが目は澄んでいる。
「来月一日に丸、つけていませんか」
「さあ……? 丸をつけるほどのことだっけね」
ご自宅に伺うと、台所の壁の三カ月カレンダーに、確かに丸があった。だが、消しゴムで擦った痕が白く残る。
丸は消され、紙の繊維だけがやせ細った白でそこにいる。
【家庭痕】カレンダー:丸を消した擦痕
【配架】回覧板のポケット:折れ癖が消える(繰り返し閲覧の痕が薄い)
【仮】家庭単位で“待つ”行為が削除/代理人が存在?
冷蔵庫の脇に、薬カレンダーが下がっている。服薬日と避難訓練日の赤い丸。
避難訓練の丸だけ、インクが薄い。二度書き足したような筆圧の乱れがある。
「お孫さんが代わりに丸を?」
「ええ、最近は娘が時々」
私は小声で亜麻音に言う。
「家族内の代理が**“待つ”行為を上書きしている」
「未入力転送に似てます。空欄の丸で、日付を素通り**させる」
◆
役所に戻ると、神谷から内線。
「版管理ハッシュの差替えログ、もう一度見ろ。公開ハッシュは同一だが、内部回覧の生成時刻が一分だけ早いファイルがある」
「一分?」
「職員向けテスト版が先に生成され、一般公開が後。順序は正常だ。だが、テスト版を開くと、余白が出ない」
私は二つのPDFを並べて開く。
バイト列は同じ。違うのはメタデータの**/CreationDate**。
一分。
その一分の間に、誰かが“待つ”心の向きを取り除いた。そう考える以外、説明がつかない。
【技術】テスト版→本番版:/CreationDate 差一分
【表示】テスト版=余白なし/本番版=余白あり(特定閲覧者)
【仮】職員側は“待って”いる→問題なし/住民側の一部は“待てない”に書換
私は配布経路を洗い直す。
官報→市HP→地域の掲示板→自治会LINE→回覧板。
自治会LINEの管理者は誰か。前会長――左利き。
倉庫台帳で見た瓶口圧痕と左利きが、ゆるくつながる。
もちろん左利きであること自体に罪はない。けれど道具の持ち方は痕跡になる。
「前会長にお話、聞きに行きます」
亜麻音がうなずく。
「風下です。川沿い。雨上がりの匂いがしました」
◆
町内の古い長屋。河原の風が障子を揺らす。
前会長は七十前後、背筋が真っ直ぐで、指先がよく動く人だ。
卓上にガラス瓶。花を挿すには小さすぎ、口縁がわずかに蒼い。
瓶の脇に、赤ゴム印。文字は擦れ、「回覧」。
スタンプ台にはインクがない。
「来月一日のことを覚えていますか」
「何かあったかね」
「避難計画の施行です。あなたは前会長として、準備会を率いてこられた」
「そうだったかもしれない。……待つのが、苦手でね。昔から」
彼は瓶を指で転がし、障子の向こうを見た。
「待つと、胸が痛くなる。昔、橋が落ちたときも、雨を待って、待って、待って――来なかった。待つのは、人を壊す」
瓶の口が、机の上の紙に触れる。圧が、円を残す。
∅。
空集合の凹みが、薄く光った。
【人物】前会長:左利き/瓶口所持/「待つのが苦手」
【痕】机上の紙に“∅”圧痕
【仮】幽書屋の依頼者にして協力者。動機=“待つ”苦痛の除去
「幽書屋の連絡先を、ご存じですね」
男は笑わなかった。ただ、瓶の口から指を離した。
「若いのが来たよ。“待つ”が痛い人のために、一行だけ、軽くする方法があると。法は変えない。心のほうを少しだけ、と」
「あなたは、町内の“待っている人”の名簿を持っている」
「持っていた。回覧板の印影で分かる。角の折れが深い家。丸が早い家。未読のまま溜める家。……痛い家から一行ずつ、抜いていった」
亜麻音が、風を吸い込み、吐く。
「優しさの顔をした切除」
私は頷いた。
「結果、準備が遅れる。**“待つ痛み”が消えた人は、“備える痛み”**にも鈍くなる。施行日は、誰かの今日を助ける日でもある」
男は黙って瓶を布で包み、差し出した。
「これを持って行け。もう押さない。押せない。押したくない」
指は震えていた。
私は瓶を受け取り、圧痕の径を手帖に写し取る。
工房で見た瓶と口径が一致。物証は整った。
【物証】瓶口径=工房の空瓶と一致
【動機】“待つ痛み”の除去
→ 評価:違法集合忘却(軽微)+社会的影響(重)
◆
処理は仮復元ではなく、“施行日の案内強化”で行うことにした。
記憶を戻すのではない。道を太くする。
具体的には――
① 市HPトップに施行日までの“のこり日”カウンタを設置(視覚ではなく触覚で振動)。
② 回覧板の角に、薄墨の満ちた円を一つ押す。∅の反転。
③ 薬カレンダーの避難訓練欄に、貼ると紙の目が立つ透明シールを配布(触感で日付を思い出す)。
係長はうなずきながら、薄墨の円をホワイトボードに描いた。
「満ちた円……待つことを満たす」
「空欄は、道になる。だから満たされた印で、空欄を“場所”に変える」
男のした行為を無化はできない。けれど迂回路は敷ける。
【対処】“案内強化”三点
・HP触覚カウンタ
・回覧板:満ちた円
・薬カレンダー:透明凹凸シール
→ 目的:“待つ行為”の道を再構築
実装の帰り道、雨がほんの少しだけ降った。
亜麻音は顔を上げ、目を細める。
「雨、来ましたね」
「来た」
「待てましたね」
「待てた」
私は手帖を開き、“∅”の横に満ちた円を描いた。
その線の丸みが、自分の字の癖に似ている。
――私は、誰と、何を“待って”いた?
ページの余白が、今日も薄く蒼んで見えた。
◆
夜、局に戻ると、神谷が倉庫管理の通達を机に置いた。
旧国営の空瓶の管理方法が一段厳しくなる。台帳角の摩耗対策に、角丸補強が施される。
「制度の穴は、角に生まれる」神谷が言った。
「角を丸くするだけで、押せない圧痕もある」
私は通達に判を押し、提出。
判子の赤は、満ちた円に見えた。
【痕跡まとめ】
・官報PDF:/CreationDate差一分/特定閲覧端末で“息継ぎ”
・家庭:カレンダーの擦痕/回覧板折れ癖の消失
・人物:前会長(左利き/瓶口所持/動機=“待つ痛み”の除去)
→ 結論:“施行日を待つ記憶”への介入により表示余白が発生。**記憶復元ではなく“案内強化”**で回路を再構築。満ちた円を実装。
赤いポストは、夜の雨に濡れていた。
投函口の暗がりは深いが、完全な暗闇ではない。
明日の“未入力”が、そこに来るのを待つ。
待つのは、苦しい。けれど、案内があれば、待てる。
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次回予告:05「表札のネジ穴」
空き家に花束を供える来客。旧姓の幅に合わないネジ穴が、家族の“逃げ道”の座標を示す。