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02 転居届なき転送

 “転居理由:未入力”。

 郵便システムのダッシュボードに、薄いグレーの文字がいくつも並んでいた。理由欄はプルダウンで必須入力のはずだ。入力されないと、封書は差出人へ返送される。――本来なら。


「七通から十通に増えました」

 臨時配達員の青井亜麻音が、端のめくれた封筒を両手で持ち、鼻のすぐ下までそっと近づける。

「同じ匂いです。旧国営の廃番インク。すこし鉄の味がする」

「匂いに味?」

「ええ、風は味がします。あと、この封の糊は海藻ベース。古い局の癖です」


 ダッシュボードの地図上で、ピンが街の西側に集中していた。住宅と、専門学校と、小さな商店街。

 未入力転送の受け側は、同じ喫茶店になっている。理由も宛名も空白なのに、封書は迷わず、その店にだけ運ばれる。


フクロウ珈琲」

 店名の文字を選択すると、過去一年の配送履歴が出た。定期に近い頻度で“未入力”が積み上がっている。起点は二か月前。

 私は黒革の手帖を開く。


【未入力転送】2か月で10通/宛先:梟珈琲

【差出地】西ヶ丘・南通・市営団地バラバラ

【共通】旧インク/海藻糊/消印コード「G3-∅」

【仮】“宛名”ではなく“場所”に紐づいた転送

【縦】第三の消印? ∅(無印)方式


「行ってみましょう」

 亜麻音がうなずき、制服の胸ポケットから紙製の地図を取り出した。彼女の指先は迷わない。路地の角を一度撫で、風の筋を読む。



 梟珈琲は、商店街のはずれの二階にあった。木の看板は小さく、階段の手すりに古い赤ゴム印コレクションが縛ってある。猫の頭、矢印、「至 郵便局」――捨てるには惜しい印影たち。

 扉を開けると、深煎りの匂いがゆっくりと落ちてきた。カウンターの内側で、銀髪混じりの店主が紙フィルターを丸めている。


「忘却管理局の篠原です。少し、お話を」

「……やっぱり来たか」


 店主はため息をつき、カウンターにスタンプカードを一束置いた。厚手の紙に、同じロゴ、同じ列。けれど――


「空欄の客がいる」

 カードには、最初の四つだけスタンプが押され、それ以降が真っ白の束が何十枚も続く。名前欄も手書きの癖もない。

「誰も覚えてません。だけど席にへこみがある。コーヒー豆を仕入れる量が、少しだけ合わない。湯の減り方が、数字にならない。そこにいたはずの人が、僕の生活をかすめていく」


 私は席を見た。角の、小さな二人掛け。椅子の座面の布は、他よりわずかに光沢が落ちている。

 亜麻音はカウンター裏の棚に目をやる。

「砂糖のポーションが、そこだけ少ない」

 店主が笑った。

「よく分かったね。砂糖は三回に一度しか使わないはずなんだ。なのに、ここだけ二回に一度の計算になる」


 私はスタンプカードの端を指で触れる。紙のエッジに、かすかなザラつき。

 誰かが押したはずのスタンプの圧痕が、光の角度でだけ浮かぶ。インクはない。けれど押されたという事実だけが紙の繊維に残っている。


【現地】椅子座面の摩耗/砂糖消費の偏り

【紙】スタンプ圧痕インクなし

【音】スプーンの触れ合い音の抜け

【宛】“常連”という関係性の消去?


「最近、誰かが転送届を出しました?」

 店主は首を振る。

「いや、郵便受けには“未入力”の転送封書ばかり。差出人は空欄。宛名も空欄。封はされてるのに、何も書いてない。なのに、うちに届く」

「開けました?」

「開けた。中も空白。でも、コーヒーの匂いがする。うちの焙煎機の匂いじゃない、少しだけ昔の香りだ」


 私は、封筒の紙面を斜めに傾けた。光が走り、封の押さえ跡が細く見えた。

 封は、左利きの癖で閉じられている。

 そして差出口の切れ端に、見慣れない消印――いや、消印ではない。∅。空集合の記号。黒ではなく、微かな蒼で紙が薄く凹んでいる。


【痕】“∅”印影(蒼/凹)=第三の消印?

【癖】左利き封/海藻糊

【香】旧焙煎の香り→近隣?

【仮】“人”ではなく“居場所”に対する集合忘却


「幽書屋だ」

 亜麻音がつぶやく。

「人を消すんじゃなく、場所に宿る関係を消す。『常連』という名の網目。だから“宛名”も“理由”も要らない。空欄が、仕事をする」


 店主は両手をテーブルに置き、低く言った。

「戻りますか」

「制度上は、全部は戻りません」私が言う。「ただ、“常連”という関係があった事実を掲示として返すことはできます。『関係表示復元』――聞いたことは?」

「ない」

「新しめの通達です。個人情報に触れない形で、“ここに常に座っていた存在”を場所の履歴として表示する。記録ではなく表示。記憶ではなく案内」


 私は局に連絡し、関係表示復元の申請を開始する。対象は梟珈琲・角席。根拠はスタンプ圧痕、消費偏差、座面摩耗。そして未入力転送の異常履歴。

 証拠は十分だった。問題は、“∅”の印影の扱いだ。

 私は神谷に電話を入れる。

「第三の消印の蒼、今まで見たことがあります?」

「蒼?」

「ええ。蒼の凹みだけ。インクじゃない、圧です」

 受話器の向こうで、短い沈黙。

「……廃番インクの空瓶で押す奴がいる。インクを付けず、ガラス瓶の口で圧痕だけ残す。印影の存在をゼロにする。幽書屋の一派が、昔、やっていた」


 私は手帖の余白に、薄い円を描く。

 蒼の凹みは、紙に時間の穴を開ける。そこに住所はない。けれど、向きだけがある。



 関係表示復元は、利用者アンケートと音環境の測定から始まる。

 店内の常連席周辺で、カップを置く音の周波数、椅子の引き音、出入口の鈴の重さを測り、“空席がある状態での音の抜け”を数値化する。

 私は店主、数名の客に依頼して、いつものように席を使ってもらう。

 途中、若い女性がふらりと入ってきて、角の席の前で立ち止まった。目は席を見るが、焦点は半歩ずれている。

「どうぞ」店主が声をかける。

 彼女は小さく頭を下げ、別の席に座った。


【音】角席周辺、2kHz帯に薄い谷

【行動】初来店でも角席を避ける傾向

【香】旧焙煎の香り=商店街裏の小焙煎所(休業中)

【宛】角席=“予約されていた時間”の抜け


 亜麻音は外に出て、風を嗅ぐ。

「この匂い、裏通りの焙煎所ですね。シャッターに赤い輪ゴムが残ってた。郵便紐の古いやつ。そこが集配ブリッジになってる」

「ブリッジ?」

「未入力封書をいったんそこに寄せ、圧痕だけつけて店に送る。住所がない郵便の経路」


 私は焙煎所に回り、シャッターの隙間からのぞいた。粉の袋、計量スプーン、作業台。

 作業台の角に、海藻糊の瓶。隣に、空の消印瓶。ガラスの口には、薄く蒼が残る。

 私は写真を撮り、位置情報とともに手帖へ転記した。

 幽書屋はここを作業台にしている。人の名ではなく、席の名を消すために。



 夕方、承認が降りた。

 関係表示復元の表示板は、金属でできた小さな札だ。名前は書けない。書いていいのは、関係名詞のみ。

 私は角席の壁に、透明なプレートを取り付けた。

 そこには、黒い細字で、こう刻まれている。


この席には、かつて

常連が座っていました。

あなたの今日が座っても構いません。


 店主は静かに読んだ。

 亜麻音は札の前で一度深呼吸し、うなずいた。

「これで、空欄のままにはならない」

「記憶の復元ではありません」私は言った。「場所の案内です。けれど、人は案内に弱い。“あったこと”の道しるべを見つけると、歩き直せる」


 店主は札の下に、小さな白い花を置いた。

「ありがとう」

 彼は花の隣に砂糖ポーションを一つだけ落とし、笑った。

「ここは、三回に一度じゃなくて、今日は一度目だ」


【処理結果】関係表示復元(角席)設置

【副次】スタンプ圧痕、以後“薄墨”で跡付与へ移行(局指導)

→ 結論:集合忘却の痕は場所に残る。表示によって“座る理由”を返却。



 局に戻ると、神谷がプリントを机に投げた。

 未入力転送はさらに三件増えている。全部、∅の圧痕つき。

「内部の誰かが手伝っている」神谷が言う。「旧瓶は局内倉庫からしか出ない。番号管理してるが、数が合わん」

「倉庫記録、見ます」

 私は倉庫台帳の版管理ハッシュを照合する。

 ページの隅に、小さな余白。ハッシュの一文字が、肉眼では分からない程度に擦れている。

 私は鉛筆で、紙の裏から軽くこすり出しをした。浮かび上がる楕円形の跡。――誰かが瓶の口で、台帳の角に圧をかけている。


【局内痕】台帳角に“∅”圧痕

【仮】協力者は右手で記入、左手で瓶を持つ

【候補】左利き職員(倉庫・印影管理)


 私は自分の字を見た。

 今日も、手帖の余白に、私の癖の丸みが滲む。

 それが、誰の字に似ているのかを、まだ思い出せない。



 閉庁前、梟珈琲からメッセージが入った。

 角席に、若い女性が座ったという。

 白い花の前で、砂糖を一つ使い、メニューの端に小さく**“ありがとう”**と書いて帰った。名前はない。

 それで十分だ、と店主は短く記した。


 忘却は、罪ではない。

 罪は、空欄を道にすることだ。

 ∅は、道しるべとしては強すぎる。だから私は、そこに表示を置く。


 赤いポストの前で、風が回る。

 亜麻音がとなりで匂いを嗅ぎ、言った。

「祝電の香りがします」

「祝電?」

「紙の香。台紙の糊。古い型番。どこかで『おめでとう』が、届かない」


 私は手帖を閉じた。

 次のページの余白が、薄く蒼んで見えた。


――――

次回予告:03「祝電のない結婚式」

“おめでとう”の空通知。祝電台紙の型番と料金改定の狭間に、消えた関係がある。


応援:★面白かったらブクマ&感想が次話の配達を速くします。

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