10 宛て所に尋ねあたり
赤ゴム印の朱が、はがきの端で乾いていた。
「宛て所に尋ねあたり」。
返送理由の定型句。それが差出人不明のまま、局止めで戻ってきたという。
投函は十数年前。差出人欄は空白。宛名面の町名は今はもう使われていない旧地番。なのに、新郵便番号の七桁が書かれている――時代の接合がずれている。
「劣化パターンから局を割れる」
上席の神谷がはがきを光にかざす。
「この赤ゴム、角の丸めが甘い。二番活字の**“た”の払いが少しかすれている。札幌活字所の旧型がベース。うちの県内だと、北第三局と鷺沢出張所が該当だ」
「インクの油は魚系が混ざっています」
青井亜麻音が鼻を近づける。
「冬場の調合。灯油の冷えに合わせて粘度を高める**配合です。河沿いの局がよく使う」
私は黒革の手帖を開いた。
【現物】古はがき:差出人なし/旧地番+新七桁
【印】赤ゴム印「宛て所に尋ねあたり」
- 角丸甘い/二番活字“た”払い欠け
- インク=魚油混/冬調合
【候補局】北第三局/鷺沢出張所(河沿い)
【仮】差出=十数年前/返送経路のどこかで保留→いま出た
【縦】差出人=過去の私?
宛名面の筆圧は浅く、左上がり。
宛名の字間に、円が小さく二重に鉛筆でなぞられている。満ちた円。
私は喉の奥がひりつくのを、手帖で隠した。
◆
北第三局の裏口に回る。
冬の油の匂い。ストーブの排気。
職場の印影棚には、使い古しの赤ゴムが並ぶ。宛て所は三本。
いちばん古い一本の角がきっちり90度に近い。角丸が甘い。活字の**“た”の払いが、わずかに欠け**。
台座の木に、小刀を入れたような傷。
私は、その傷の角度を見た瞬間、指先が冷たくなる。
――私も、同じ角度で、木を削る。
「押し比べをお願いします」
担当者に頼み、現行インクと当時のレシピで試し押しをする。魚油がほんの少し混じることで、朱がわずかに褐せ、滲みが外周に薄く輪を作る。
返送はがきの輪と、一致。
【北第三局】赤ゴム:角丸甘い/“た”欠け一致
【インク】魚油配合/外周薄輪=現物一致
→ 宛所印は北第三局(確定)
差出記録は紙台帳の時代。倉庫から十年前の返戻台帳を出す。
二月の終わり。返戻理由「宛て所に尋ねあたり」。棚番号の横に鉛筆で小さな円――二重。
鉛筆の丸み。
私の癖。
誰が、ここで、私の円をなぞった?
「この日、誰が台帳を触っていましたか」
担当者は首をひねり、当時の非常勤の名を挙げる。
「汐見。短期で郵務補助。左利きで、局を移っていった」
汐見――
胸の裏側で、砂を一粒飲み込んだような重さ。
相棒の、音の輪郭。
◆
もう一つの候補、鷺沢出張所にも回る。
河沿いの小さな局。ストーブの火が揺れ、隅に潮干狩りの写真。魚油の調合も似ている。
だが、赤ゴムの**“た”はきれい**。角丸は深い。
ここではない。
戻る線は、北第三局で縛られる。
◆
返送経路を辿る。
十数年前、宛て所不明で戻り、台帳に記入、棚へ――そこで止まるはずの封を、誰かが留め置きにし、宙ぶらりんのまま今日に着いた。
戻り道の途中で、“押さない印”を扱う者が介入したのか。
はがきの宛名面を斜光で読む。
筆圧の浅いところに、別の圧が重ねられている。瓶口の円ではない。
鉛筆の二重円。
私の円。
私が、いつここに、来た?
神谷に電話を入れる。
「十数年前、北第三局に出向した記録は?」
「ある。郵務三課の制度改定の听取りで、二週間。君と、もう一人。汐見だ」
二人。並んだ机。同じ円。
記憶が一点で白く光り、手帖の余白がじわと滲む。
◆
北第三局の裏倉庫。
スチール棚の隅に、未処理返戻の茶封筒が二枚。
その間に、はがきが一通、挟まっていた。
表は白。裏に、私の字。
細い、満ちた円で始まる短い句。
あて先は、いまのあなた
たどり着けますように
私は膝が抜けそうになるのを、棚で支えた。
私が書いた。
“宛名”は、過去の私が未来の私へ。
返送ループのどこかで、汐見が止めた。
――いま、出した。
「宛て所はどこです」
亜麻音がそっと訊く。
私ははがきの右下を指さす。
赤ゴム印の朱が薄く擦れた淵。そこに、ほんの微細な鉛筆――座標。
緯度経度が四桁ずつ。書き癖で四の横棒が少し長い。
それは郵務三課の古い屋上だ。局舎改築前の、金網の、角。
【解析】裏面鉛筆メモ=座標(旧局舎屋上角)
【推】差出=過去の私/留め置き=汐見
→ 行き先:旧局舎跡地(現:合同庁舎)
◆
旧局舎跡地――いまは合同庁舎。
屋上は立入禁止。だが避難階段の落とす影は、十数年前とほとんど同じ角度で、金網の角を地面に描く。
私ははがきをポケットに入れ、影の延長線に立った。
コンクリの目地に、鉛筆の粒子がわずかに残る。
誰かがここで円をなぞった。
汐見だ。
二人で、夜に、円の重ね方を練習した。
満ちた円は呼吸でできている、と。押すのでなく、置くのだ、と。
あの夜。
私は胸の奥で音が抜けるのを感じる。
階下から革靴の音。
女性の声が風に乗る。
「宛名が、読めた?」
汐見。
姿は見えない。声だけが陰を渡る。
「あなたの円が、案内になった。空欄は道になる。私は道を通すだけ。軽くしたのは、あなたでもある」
「誰を軽くした」
「待つことが痛い人。喧嘩の言葉を持て余した人。“弱さ”を守りたかった人」
「その分、落ちた」
「あなたが拾った」
呼吸が一つ合う。
円は、二人で、重ねるときれいになる。
私たちは、それを愛していた。
制度でやるか、影でやるかが違っただけ。
「どこにいる」
「橋の向こう。円の中心」
風がビルの角で跳ね、声が消える。
◆
返送手続きは二本立てにした。
一本ははがき本体の正規返送――差出局を北第三局と記し、宛先を**“いまの私”とする自己返送**。台帳に明示して円を登録する。
もう一本は**“表示返送”――旧局舎屋上角に透明プレートを一週間**だけ設置し、短文を掲げる。
ここは、かつて
宛名のないはがきが届いた場所です。
あなたが立てば、宛名になります。
誰にでも宛名になれる余白を置き、個別の記憶には触れない。
私のためであり、他人のためにもなる。
神谷は、返送欄の差出人に私の名前が入るのを見て、顔をしかめ、しかし止めなかった。
「線を引くのは、おまえだ」
「引いた線を案内に変えます」
◆
夜。
梟珈琲の角席に、白い花が一輪置かれている。
私は返送済の控えと透明プレートの写真を亜麻音に見せる。
彼女は指先で満ちた円をなぞり、目を上げた。
「宛名、届きましたね」
「いまの私に」
「いまのあなたを、誰が待っていますか」
私は答えない。
待つ痛みは消せない。
案内で、支える。
その手の重さだけを、忘れない。
窓のガラスに、赤いポストが映る。
はがきの裏の円が、影の中で二重に重なる。
汐見の線と私の線。
同じ円。
違う場所。
【処理結果】
・赤ゴム印=北第三局(劣化・配合一致)
・返送台帳:鉛筆の二重円=当時の留め置き痕(汐見)
・座標=旧局舎屋上角→表示返送設置(期間限定)
・自己返送(差出=過去の私→宛先=いまの私)
→ 結論:宛て所は人ではなく**“いまの自分”。円は案内**。声は橋の向こう。
局に戻ると、机の上に薄い封筒が一通。
消印はない。
押されない印。
裏に、蒼の凹み――瓶ではない。金属の薄い縁。
中には、印影配合の分析表と、旧国営の廃番インクの****全ロット一覧。
最後のページに、手書きで一行。
“インクは偽造ではなく、旧国営の廃番”
――次は、消印の正体の話を**
幽書屋の消印。
制度の副産物の核心。
汐見が置いた次の案内だ。
私は手帖を閉じ、芯を削る。
橋の向こうに、行く。
――――
次回予告:11「幽書屋の消印」
各地で見つかった第三の印影。インクは偽造ではなく旧国営の廃番――印影の化学組成と流通史から、幽書屋の起源と“制度の影”が立ち上がる。