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01 通し消印の家



 赤いポストは、今日もよく喋る。

 投函口の奥で、封書は目に見えない審査機に吸い込まれ、承認されれば記憶を削り取る毒に変わる。管理官補佐の仕事は、その毒が“効き過ぎたとき”だけ始まる。


 ――通し消印「3A-12」。前後の「11」が欠番だ。


 申立書の端に鉛筆でメモを取る。黒革の手帖の紙は、消しゴムの跡で少し毛羽立っている。

 相談者の女性は、写真アルバムを胸に抱えたまま、椅子の縁に浅く腰掛けていた。二十代後半。眼鏡の奥の瞳は、眠気にも似た疲れを湛えている。


「家族旅行のアルバムです」

「……なのに、旅の記憶が、ない?」

「はい。父の顔だけ、どうしても浮かばないんです。写真はあるのに、そこにいた父が“いる感じ”がまるでなくて。昨日、母も同じことを言い出して。私たち、同じ夢を見てるのかもしれないって」


 女性――雪乃さんは、アルバムをそっと開く。

 ビニールの保護フィルムが光を弾き、ページの糸綴じが一本だけ緩んでいた。何度も開閉した“手癖”の摩耗ではない。五穴中、三だけが異様にゆるい。


「お父さまの氏名と生年月日を伺っても?」

「篠原さん、失礼ですが……それ、必要ですか」

「ええ。忘却申請の審査票は、個人情報を直接残さない設計ですが、郵便側の痕跡は別です。通し消印の連番、担当審査官の押印器のクセ、臨時窓口の開設記録。誰が、何を、いつ消したかは“世界から消える”けど――“手続き”は消えない」


 彼女は小さくうなずき、答えた。

 私は手帖に記す。丁寧な字で、しかし早く。忘却に関する異議申立は十四日以内。時間が、こちらの味方であることは少ない。


【受】申請封書:B5茶封筒/黒インク/差出人空欄

【痕】アルバム糸ゆるみ(5穴→3摩耗)

【時】消印コード「3A-12」→欠番「3A-11」

【仮】祝日臨時窓口? 押印器は旧型「A」。

【結】“忘れたいのは相手か、待ってしまう自分か。”


「雪乃さん。旅行はいつでした?」

「三年前の、春。父の体調が落ち着いて、みんなで無理して行った北海道です。……無理して、って言葉、今はもうピンと来ないんですけど」


 無理して。その言い方は、忘却の直前に口にされることが多い。

 私はアルバムに顔を寄せ、写真の端に押された小さな日付スタンプを見る。料金改定前の印字。それ自体は特別ではないが、スタンプの色が褪せ切らないのが妙だ。

 誰かが、何かを消した。けれど、世界の紙には、染みが残る。


「お父さまのお勤め先、病院の通院歴、そして――」

「そして?」

「祝日の過ごし方です」


 雪乃さんは、首をかしげた。

 私は端末から局内の臨時窓口開設記録にアクセスする。祝日は通常、局の押印機は止まる。だが終末期医療や家庭内トラブルの緊急処理を想定した臨時の審査窓口が、年に数度だけ開く。**“効き過ぎたとき”**のために。


 一覧表が開く。三年前の春分の日、臨時「A窓」開設。担当審査官は神谷。押印器は旧型A-式。

 通し消印の連番を見る。3A-10、3A-11、3A-12……11が欠番。

 押印器の調子が悪かったのか。あるいは、申請そのものが棄却され、再投函されたのか。


「神谷管理官、少しお時間を」

 上席のデスクへ向かうと、神谷は眉を上げ、端末を閉じた。五十代。髪は短く刈り上げ、顔はよく笑うが目は笑わない人だ。

「連番欠番の件か?」

「ええ。三年前の3A-11。臨時「A窓」の記録です」

「……覚えているぞ。あの日は、思ったより人が並んだ。終末期の方の申請が多かった。“記憶の重さ”は、季節に左右される」

「問題は、欠番です。押印器の調子?」

「いや。本人が封を切った」

 神谷は、言いにくそうに喉を鳴らした。

「窓口で、申請者の方が。**“やっぱり、やめます”**と。封を切って、申請書を破った。規定上、破棄扱いだ。だから連番に穴が開いた。……だが、同じ日の夕方、同姓同名の申請が別便で届いた。3A-12だ。代理投函だったと思う」


 私は息を飲む。

 破棄と代理。この二つの言葉が並ぶとき、家庭には決意と躊躇の綱引きがある。

「申請の目的は?」

「“家族旅行の記憶の一部”。本人申請。対象は**“旅行中に見せた自分の弱さに関する記憶”**――そう、書いてあった」


 私は手帖の余白に線を引く。そこに、うっすらと第三の消印が浮く気がした。

 幽書屋。規約外の“集合忘却”を闇で請け負う者たち。だが、今回は違う。臭いが違う。自分で自分の弱さを消したい――そういう匂いだ。


 雪乃さんは、窓口の椅子に戻ってきた私を見上げる。期待ではない。判決を待つ人の目だ。

「結論から言います。違法な集合忘却ではありません。手続き上は適正。ただし、**“効き過ぎ”ています。仮復元の可否を検討します」

「戻るんですか、記憶が」

「全部は戻らない。制度上、仮です。“何かがあった重さ”と、そこに“名前があった事実”**を、住所の形で返すだけです」


 私はアルバムを預かり、現地確認に向かった。

 雪乃家は静かな住宅街にあった。門柱の表札を留めるネジ穴のピッチが、不自然に変わっている。旧姓と新姓で幅が違うのだ。表札交換の際に穴を新たに開け、古い穴はパテ埋めしてある。だが古い穴の周りの壁材の白さが、わずかに違う。

 インターホンを押すと、母親が出た。柔らかい物腰。目の下には浅い色の隈。

「ご協力ありがとうございます。忘却管理局の篠原と申します」


 居間に通され、テーブルに置かれた薬袋をちらりと見る。日付が三年前で止まっている。抗がん剤の文字。

 私はアルバムを開き、フィルムの端を紫外線ペンライトで照らす。肉眼では見えない印刷会社の透かしが浮かぶ。北海道ローカルの写真屋のロゴ。

 別冊の袋には、現像時の無料サービスプリントが一枚入っていた。そこには、ピンボケの写真。父親と思しき男性が、ベンチに腰かけ、娘を見ている。視線はまっすぐだ。

 私はそれを“仮の宛名”として、手帖に転記する。


【現地】表札ネジ穴:旧→新の移設/パテ跡微白

【医療】抗がん剤袋(3年前で終わり)

【写】サービスプリント(父→娘を見つめる)

【宛】“弱さ”=痛みを見せた自分/見ていた他者の記憶が巻き添え消去


「お母さま。旅行の道中で、人に助けられたことは?」

「……ありました。駅のホームで、夫が、少し……。吐き気がひどくて。娘に心配をかけたくないからと先に行かせたのに、結局戻って来て。周りの方が席を譲ってくださったり、駅員さんがベンチまで運んでくださって」

「そのとき、写真は撮りました?」

「ええ。帰ってから、夫が『ほら、俺も父親だぞ』って笑って。ぼやけたそれを、一枚だけ袋に残したんです」


 私は頷き、ペンを置く。

「仮復元を行います。戻るのは“痛み”ではありません。**“そこに座っていた人の輪郭”**です」


 規程に従い、私は仮復元申請書を起案する。対象は**“アルバム閲覧時の身体感覚の補正”。写真の配置や綴じ糸の緩み**、ページ送りのリズムを、**“かつての閲覧習慣”に近づける。

 法的には“記憶の復元”ではない。“閲覧体験の補修”**だ。制度は言葉の綾で動く。


 承認は早かった。神谷の判子が落ちる。

 私はアルバムの順序を軽く入れ替え、サービスプリントをラストの見開きの、右下に差し込み、保護フィルムの端を一度だけ撫でる。

 ページを閉じ、雪乃さんと母親の前に置く。

「開いてみてください。体が思い出す順で、ページをめくって」


 沈黙。紙の擦れる音。

 綴じ糸が、さっきよりも自然に鳴く。

 ページを繰る手が途中で止まり、二人の呼吸が揃う。

 母親が息を呑む。雪乃さんが、笑うのでも泣くのでもない表情で、何かに頷いた。


「……そこに、いた?」

 雪乃さんの問いに、私は答えない。こちらが答えるべきことではない。

 ただ、**“仮復元は成功”**と内部記録に付ける。


 帰庁の途中、喫茶店に寄る。

 コーヒーの表面に、窓の外の赤ポストが映っている。

 私は手帖を開き、余白に鉛筆を走らせた。第三の消印の印影は、今日も、薄い滲みとしてしか現れない。

 ふと、ページの隅に自分の字が交ざっていることに気づく。

 この“癖のある丸み”は、いつから私の文字になったのだろう。

 ――私は、誰を忘れた?

 鉛筆の先が、ほんのわずかに震えた。


 伝票の裏に、古い赤ゴム印の跡が押されている。「宛て所に尋ねあたり」。

 探せば、必ず何かに当たる。そういう期待だけが、私を机へ戻らせる。


 局へ戻ると、青井亜麻音が待っていた。臨時配達員。髪は肩で切りそろえ、制服の袖口を指でいじっている。

「篠原さん。未入力の転送、また増えました」

「未入力?」

「はい。“転居理由:未入力”のまま自動転送されてる封書が、ここ一週間で七通。差出地はばらばらで、でも消印のインクの匂いが同じです」

 彼女は封筒を近づけ、深く息を吸った。

「古いインクです。今はもう出回ってない、旧国営の廃番。風の匂いで分かります」


 私は笑ってしまう。彼女の住所勘は、時々詩のようだ。

 だが、詩でも真実を運ぶ。

 幽書屋は“未入力”を増殖させる。空欄は、闇の入口だ。今日の案件は私的な尊厳の護持だった。けれど、制度の穴から覗く冷たい風は、確かに吹いている。


【痕跡まとめ】

・通し消印3A-11 欠番(破棄→再投函)

・祝日臨時窓口A/押印器旧「A」

・サービスプリント(父→娘)

→ 結論:削除は“弱さの尊厳”のため。巻き添えで視線の記憶が薄れた。仮復元=閲覧体験の補修により輪郭を返却。


 記録を閉じる。

 明日にはまた、誰かが何かを忘れたいと願う。

 忘却は罪ではない。それを誰かに押しつけることが、罪かもしれない。

 それを見分けるために、私は手帖の余白に、細い字を積む。


 赤いポストは、夕暮れの風に黙って立っている。

 投函口は暗く、しかし完全な暗闇ではない。封書が落ちる音が、遠い雨に似て響いた。


――――

次回予告:02「転居届なき転送」

未入力のまま転送され続ける封書。空欄は誰のために開く?



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