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我が子よ

作者: 西順

 日本を代表する児童文学作家の十和田透の代表作と聞かれて、皆はどれを挙げるだろうか?


 やはり十和田と言えば、スポーツ作品を数多く描いているので、野球の名作『届け、スタンドへ』や、サッカー少年が日本代表選手となるまでを描いた『アンビシャス!』。駅伝での友情や挫折、苦悩を、スタートからゴールテープを切るまでに見事に描ききった三部作、『Bond』などを挙げる人が多いだろう。私も勿論それらは大好きだが、私が挙げるとしたら、流れの闇医者が活躍する『ドクター・ケラー』シリーズを挙げる。理由は至極簡単で、それが私が十和田透の作品に初めて触れた作品だからだ。


 小学生の頃、親が離婚し、父に引き取られた私は、すぐに父と再婚した義母と反りが合わなかった。義母はすぐに手をあげる人で、私はいつもどこかに青あざを作っていた。今にして振り返れば、高給取りだった父と結婚したまでは良かったものの、そのおまけで付いてきた私が邪魔だったのだろう。


 だからか、家に居場所がなくなった私は、自然と日が暮れるまでどこかで時間を潰す事が毎日の日課となっていた。そこで私の居場所となってくれたのが、家の近くにあった図書館だった。


 初めのうちは何もせずにただ図書館の中でぼーっとしていた私だったが、いつだったか、図書館内のフェアで、十和田透が紹介されていたのを見掛けて、何気なく一冊手に取ったのだ。それが『ドクター・ケラー』シリーズの一冊だった。


『ドクター・ケラー』シリーズは、闇医者ながらも世界でも有数の腕を持つ外科医であるヘンリー・ケラーが、医療財団を運営するアンドリュー・サリヴァンからの要望で、ダウンタウンを根城にするギャングのボスの息子から、砂漠のレジスタンス、戦争地帯での両軍への医療行為、果ては宇宙ステーションにまで行っての宇宙での外科手術と、ケラーが大活躍する胸躍る医療アドベンチャーだ。


 私が初めて手に取ったのは、シリーズ第四巻の、南米のジャングルでの政府と土着民との土地の活用を巡った争いの最中、両者の和解の為に奔走した土着民の少年が、間違って政府の兵士に撃たれ、頭に残った銃弾を、碌な施設もない中で手術すると言うものだった。今でも少年が助かるのか、ケラーの手術シーンにハラハラしていたのを思い出す。


 十和田の作品は、全てハッピーエンドなので、ご都合主義と揶揄される事もあるが、私としてはそこが気に入っているところだ。


 スポーツで成功するのは一握りだ。そんな事は分かっている。努力が必ず報われる訳じゃない事も分かっている。手術で全ての人を救える訳がない事も分かっている。だけれども、小説の中でくらい、報われたいじゃないか。決勝まで進み、一進一退のゲームをして、勝って終わりたいじゃないか。もう助からないと絶望する病人が、凄い医者に助けられて、新たな人生を歩んでいったって良いじゃないか。


 人生の大半はまあまあで、成功する人間は一握りで、突然不幸に落ちる事だってある。それでも、十和田透の小説の中では、努力は報われ、突然の不幸は救われ、手術は成功して、皆が納得するハッピーエンドで終わるのだ。だから私はそうありたいと心の底から願った。


 願ったから報われるなんて事はない。そんな事は親が再婚した時から良く分かっている。だからこそ、私は努力した。


「未来ある者へ、希望を与えてくれないか、我が子よ」


『ドクター・ケラー』に出てくる医療財団総帥のアンドリュー・サリヴァンがケラーに向けて言うお決まりの言葉だ。私もそう思った。そして私はこの言葉に救われた。この言葉を目にした時、私はこれが十和田透から私へのメッセージだと受け取った。十和田個人が、自分の本を読んだ人に向けて、「頑張れ」と励ましてくれている気がした。


 だから頑張れた。私はケラーのような医者になると決意して、ひたすら勉強し続けた。中学に入っても、高校に入っても、医大に合格しても、それで満足する事なく、この言葉を胸に、私は世界最高の、ヘンリー・ケラーのような医者になるのだと努力を続けた。


 一冊の本が人生を決定付ける事がある。たった一言が人生の指針になる事を知っている。忘れられない言葉は呪いであり希望だ。私の人生はたった一冊に寄って救われ、たった一言によって決められ、その言葉を胸に努力を続け、気付けば三十年がとうに過ぎ、私は今、脳外科医として生きている。


 日本人だからか、元々なのか、私は幸い手先が器用な方だった。『ドクター・ケラー』で、ケラーが若い頃に利き手を怪我して、結果両利きになった話に憧れて、頑張って両利きになった事が幸いして、私の難しい手術でも上手く縫合出来るような外科医となれた。


 だからだろう。世界中から私に手術して欲しいと、私が働く病院に転院してくる患者は少なくない。しかも転院してくるのは末期の患者が多いので、私でも手術に成功する確率は決して高くはない。それでも一縷の望みを私に託して、私のいる病院へと転院してくる。しかし手遅れな者も少なくなく、手術に成功しても体力がなく亡くなる者や、転院して手術を待っている間に亡くなる者を多く看てきた。


 その度に心は磨り減り、自分の無力にやるせなくなる。それでも私が手術に向かうのは、一人でも多くの患者を救う為だ。私の中の理想が、ヘンリー・ケラーが、アンドリュー・サリヴァンが、お前なら出来ると、背中を押してくれるからだ。


 ◯◯◯◯.✕✕.△△


「また転院ですか?」


 看護師長から渡されたカルテに、心が潰れそうになる。ここのところ手術が続いて、禄に休みが取れていないからか。


 渡されたカルテを読み込むと、どうやらこの患者は、生まれた時から身体が不自由で、ずっと病院暮らしをしていたらしい。七十を超えて脳に腫瘍が出来てしまったので、様々な病院をたらい回しにされた挙句、私が勤める病院にやって来たようだ。たらい回しにされた影響で、腫瘍はかなり大きくなっており、早急に手術が必要だが、手術には順番がある。先に転院してきた患者を後回しにして、この老人を手術する事は出来ない。


(せめて心を強く持ってもらい、手術まで生きていて欲しい)


 今の私に出来る事などその程度だ。自分の無力を心の中で嘆きながら、私はその患者の病室へと向かった。


「こんにちは」


 個室に入ると、老人の親族であろう老人とあまり変わらない年齢の女性が、粛々と対応してくれた。患者はベッドの上で口元を人工呼吸器に繋がれ、全身に張り巡らされた幾つもの管も生命維持装置に繋がっている。ここまで末期だと、手術まで命が持つかは分からない。一瞬眉をひそめそうになったのを堪えて、笑顔を患者に向ける。患者は虚ろな眼をしており、息苦しそうにしながら、何とかこちらへその視線を向けてきた。


「今回担当医となりました者です。大丈夫。私が担当医になったからには、必ず治してみせますから。私はあのドクター・ケラーに負けない医師なんですよ。知っていますか? ドクター・ケラー? 私が尊敬する最も偉大な外科医です。もし知らないのであれば、手術までの間、『ドクター・ケラー』シリーズを読む事をお勧めします。あの本を読むと、生きる活力が湧いてきますから」


 私の声が届いたのか、患者は虚ろな眼に少しの光を見せて、息も絶え絶えであろうに、私に笑顔を見せてくれた。それどころか、もぞもぞと手を動かし、こちらへ片手を伸ばしてくる。これだけ生きる気力があるなら、手術までは持ってくれるだろうと、伸ばしてくれた手を優しく握る。


 私が患者の手を握ると患者は思いの外強く握り返してきた。それはまるで自分に残った僅かな生きる力を、私に渡すかのように私には思えて、私は不安になって患者の顔を覗き込む。


 すると患者は息をするのも辛いであろうに、必死でこちらへ笑顔を向けてきた。それがまるで親が子を慈しむかのような慈愛に満ちたもので、初めて会う私に何故そのような笑顔を見せるのか分からず、思わず患者の手を更に強く握り返す。すると、


「……我が子よ」


 最後の力を振り絞るように、患者はその言葉を私に伝えたかと思ったら、患者の手からすうっと力が抜けていく。


 私に付き添った看護師が慌ただしく動き始めていたが、生命維持装置は患者の心肺が停止した事を伝えている。患者の手はまだ温かいものの、そう遠くない未来には、冷たくなっている事だろう。私も何かしなければと思うものの、患者の手を握ったまま、動けずに固まっていた。そんな私に、患者の親族の女性が声を掛けてきた。


「嬉しかったんだと思います。兄は、十和田透として数多くの作品を残してきました。その読者が、十和田の意志を汲み取り、こんな立派なお医者様になってくれて……。兄の最後の担当医が、最期の言葉を耳にしてくれたのが、貴方で良かった」


 すすり泣く親族の女性。私の好きな十和田透が、この老人? そんな、だって十和田の作品の多くは、世界中を巡るものばかりだ。この患者のカルテには生まれてから一度も病院から出た事がないと書かれていた。そんな人に、あんな凄い作品が……。


 頭が追い付かない。それでも、この人が十和田透だと言うなら、十和田透が、「我が子」と私に言ってくれたのなら、私が成すべき事は決まっている。この父に、この父の言葉に恥じぬよう、私は私が出来る事を全うするのみだ。覚悟は……とうの昔に決まっている。この人の小説を初めて読んだあの時に。


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