第99話 どうしようもなく愛おしい痛み
カケルが難しそうな顔をしながら、私の隣を歩く。
二人の家が並んだ道路。カケルの大きな背中。
「……俺、……陽菜のこと、大事にしたいって気持ちは本当だから」
その一言残して、家の中に走り去ってしまった。
その光景を、私はただ呆然と見つめることしかできなかった。
カケルの、あの辛そうな顔が目に焼き付いて離れない。
私の心の傷は、まだ癒えていなかった。
そして、その傷が、カケルを拒絶し、カケルをも苦しめてしまった。
そのどうしようもない事実が、私の胸をさらに締め付けた。
◇
次の日の放課後。
部活が終わった後、私は、舞と一緒に帰り道を歩いていた。
いつもなら陸上部のカケルを待って一緒に帰るのに、今日はカケルと一緒に帰ることができなかった。
どうしたらいいんだろう。一人で、悩んで悩んでどうしようもなくなって。
俯いたまま、とぼとぼと歩く私の隣で、舞が、不意に立ち止まった。
「……陽菜」
「……え?」
「昨日、桜井くんと、何かあったでしょ」
その的確な一言に、私は、びくりと肩を震わせた。舞には、何も隠せない。
「顔に書いてあるわよ。『世界が終わった』みたいな顔、してるじゃない」
「……そんな、ひどい顔、してるかな」
「してる。……で? 何があったのよ。クリスマスの日、恋人同士になってキスしたんでしょ?」
舞のストレートな質問に、私は、こくりと小さく頷いた。
そして、堪えていた涙が溢れ出した。
「……舞……」
「ちょ、陽菜!? なんで、泣いてんのよ!」
舞は慌てて、私の背中をさすってくれる。
私たちは、近くの公園のベンチに腰を下ろした。
そして、私は、バレンタインデーの出来事を、ぽつりぽつりと話し始めた。
彼がキスをしてくれた後、私を、ゆっくりベッドに押し倒したこと。
私の身体が、勝手に怖がってしまい、涙が止まらなくなってしまったこと。
彼が、そんな私を優しく抱きしめてくれたこと。『ゆっくり、行こうぜ』と、言ってくれたこと。
そして、その日から、彼が何か思い悩んでいるように感じること。
私の拙い話を、舞は黙って最後まで聞いてくれた。 そして、すべてを話し終えた私に、深いため息をついた。
「……なるほどね。……そりゃ、悩むわ」
「……私、どうしたらいいのかな。……カケルに、嫌われちゃったかな」
「はぁ!? なんで、そうなるのよ!」
舞は呆れたように、私の頭を、ぽんと軽く叩いた。
「逆でしょ、逆! それは、桜井くんが、陽菜のこと、死ぬほど大事に想ってるって証拠じゃない!」
「……え?」
「だって、考えてもみなさいよ。普通の男子高校生よ? 彼女と二人きりの部屋で、いい雰囲気になって。……その先に進みたいって思うのは、当たり前でしょ」
舞の、そのあまりにも直接的な言葉に、私の顔がカッと熱くなる。
「……でも、彼はそれを強要しなかった。やめてくれたんでしょ? ……陽菜の心の傷を、ちゃんと理解して、陽菜のペースを尊重しようとしてくれてる。……そんな、誠実な男、どこ探したって、なかなかいないわよ」
「……うん……」
「……だから、陽菜は、何にも心配することないの。……ただ、一つだけ問題があるとすれば……」
舞は、そこで一度、言葉を切った。
そして、真剣な目で私を見つめてくる。
「……陽菜自身の気持ちよ」
「……私の、気持ち?」
「そう。……陽菜は、どうしたいの? 桜井くんと、その先に進みたいって思う?」
その問いに。私は、即答できなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
体育倉庫でのあの恐怖。
でもカケルとの、あの温かいキス。
その二つの、相反する感情が、私の中でせめぎ合っていた。
「……わかんない……。……怖い、けど……。……でも、カケルと、もっと触れ合いたいって思う気持ちも、本当なの……」
私が、涙声でそう言うと。
舞は「そっか」と、優しく頷いた。
そして少しだけ、声を潜めて言った。
「……あのね、陽菜。……これは、あんまり大きな声じゃ言えないんだけどさ」
「……うん」
「……私と翔平が、……もう、その……最後までしてるの知ってるよね?」
その衝撃的な告白に。 私の思考は、完全にフリーズした。
「……え、え、ええええええっ!?」
私の素っ頓狂な声が、夕暮れの公園に響き渡った。
「ちょ、声大きいって!」
舞は、顔を真っ赤にして、私の口を慌てて手で塞いだ。
「文化祭のときに、翔平君が、衣装使ってしたいって言ってたから、もしかして、そういう経験あるのかなとは思ってたけど……」
「ああ、そんな馬鹿なこと言ってたよね……」
「え、えっと、い、いつしたの……?」
「……夏休み、かな……」
「そ、そんな前だったんだ……! 知らなかった……!」
「当たり前でしょ! こんなこと、ベラベラ、人に話すことじゃないんだから!」
舞は、そう言いながらも、その顔は、少しだけ照れているようだった。
「……ど、どうだった、の……?」
私が、おそるおる、そう尋ねると。 舞は少しだけ遠い目をした。
「……んー、……最初は、正直怖かったよ。……痛かったし。……これで、よかったのかなって不安にもなった」
「……うん」
「でもね」
舞は、花が咲いたように笑った。
「……最高に、幸せだった。……好きな人と、心だけじゃなくて、身体も一つになるってこういうことなんだなって。……翔平の全部が、私の中に入ってきて。私も翔平の全部を受け止めてる、みたいな。……うまく言えないけど。……世界で一番安心できる場所だった」
その、あまりにも温かくて優しい言葉に。
私は、ただ息を呑むことしかできなかった。
怖いだけじゃないんだ。
痛いだけじゃないんだ。
その先には、そんな温かい世界が広がっているんだ。
その舞の言葉は、私の固く閉ざされていた心を、少しだけこじ開けてくれた気がした。
その夜。 私は、自分の部屋のベッドの中で、なかなか寝付けずにいた。
舞の言葉が頭から離れない。
『世界で一番安心できる場所』
カケルと私が。そんな関係になれたら。
彼のすべてを、私が受け止めて。
私のすべてを、彼が満たしてくれる。
想像しただけで、身体の芯がじんと熱くなる。
私は、そっと自分の身体に触れてみた。
この身体を、また、彼が求めてくれる日が来るのだろうか。
その時、私は、ちゃんと笑顔で、彼を受け入れることができるだろうか。
怖い。
でもそれ以上に。
彼と、もっと深く繋がりたい。
そう思っている自分も確かにいた。
私は、枕に顔を埋めた。
顔が熱い。 胸がドキドキして痛い。
でも、それは嫌な痛みじゃなかった。
甘くて苦しくて、そして、どうしようもなく愛おしい痛みだった。




