第97話 バレンタインと見えない壁
二月十四日、バレンタインデー。その特別な響きを持つ一日は、朝から、学校中をそわそわとした甘い空気で包み込んでいた。
廊下のあちこちで、女子たちが、可愛らしくラッピングされた小袋を交換し合っている。
男子たちは、平静を装いながらも、どこか、落ち着かない様子で自分の机の引き出しを、何度も確認していた。
俺、桜井駆も、その浮き足立った空気の例外ではなかった。
いや、むしろ、俺こそが、この学校で一番そわそわしていた男かもしれない。
(……陽菜、……くれる、かな)
心の中で、何度そう呟いただろう。
俺たちは恋人同士だ。
だから、きっとくれるはずだ。
でも、もし、くれなかったら?
そんなくだらない不安が、俺の心を支配する。
授業中も、陽菜の小さな後ろ姿ばかりが気になって仕方がなかった。
放課後。
俺が、教室で、帰る準備をしていると、楓と沙織がやってきた。
「はい、桜井くん。これ、いつもお世話になってるから」
「義理だけどね! 勘違いしないでよ!」
二人はそう言って、小さな可愛らしい袋を、俺の机の上に置いた。
「……おう。サンキュ」
俺がそう言って礼を言うと、二人は満足そうに頷いて去っていった。
そのやり取りを見ていた健太が、ニヤニヤしながら俺の肩を叩く。
「やるじゃねぇか駆。お前も、隅に置けねぇな」
「……義理だって言ってただろ」
「まあまあ。……でも、わざわざ持ってきてくれるってのは、なぁ」
「……うるせぇ」
健太のからかいを受け流しながら。
俺の視線は、自然と教室の入り口へと向いていた。
陽菜は、どこ行ったのか。
俺の心臓が、焦りと期待でドキドキと鳴っていた。
その時だった。教室の後ろのドアがガラリと開いた。神崎だった。
神崎は、俺を一瞥すると、ふん、と鼻で笑い、陽菜の席へと近づいていく。
そして、その机の上に、何か小さな箱を置いた。 ブランド物の高級そうなチョコレート。
(……てめぇ)
俺の胸の奥で、黒い炎が燃え上がる。
まだ諦めていなかったのか、こいつは。
俺が神崎を睨みつけていると、教室の前のドアから陽菜が入ってきた。
「おぉ日高、おつかれ。これ、俺からだ。……まあ義理だけどな」
神崎が、キザなセリフと共にチョコを指さす。
陽菜は、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに困ったように曖昧に笑った。
「あ、ありがとう、神崎くん。……でも、ごめんね。私、もう……」
陽菜が、何かを言いかけた、その時。 俺は気づけば立ち上がっていた。
そして、陽菜の、腕を、掴んでいた。
「……行くぞ、陽菜」
「え、ちょ、カケル!?」
俺は何も言わずに陽菜の手を引いて、教室を飛び出した。
背後で、神崎の驚愕に満ちた声が聞こえた気がした。
◇
「……ご、ごめん、陽菜。……急に」
学校を出て、帰り道を歩きながら、俺は、ようやく、そう言った。
「……ううん。……大丈夫だよ」
陽菜は、少しだけ息を切らしながら、でも嬉しそうにそう言った。 そして、恥ずかしそうに俯きながら、一つの小さな紙袋を、俺の前に差し出してきた。
「……あのさ、カケル。……このまま帰るの、やだな……。……お部屋で、これ渡したいから」
その、あまりにも可愛らしいお誘いに、俺はどんな表情をしたらいいのかわからなくなった。感情が波打ち、俺は陽菜に、ただ黙って頷くことしかできなかった。
俺の部屋。二人きりになるのは、クリスマスの夜以来だった。
「……あのね、カケル。……これ……受け取ってくれるかな」
陽菜が少し緊張した声で、紙袋を差し出してくれる。
俺は、少し震えた手で、その紙袋を受け取った。
中には、手作りの、ハート型のチョコレートが、入っていた。
「……これ、今、食べていいか?」
「うん。もちろんだよ。……カケルのために、作ったんだから」
陽菜は、そう言って笑顔を見せてくれた。 俺は、そのチョコレートを、一口食べた。 甘くて、少しだけほろ苦い。これは、世界で一番美味いチョコレートだ。
「……うまい」
「……ほんと?」
「……おう。……世界一、うまい」
俺の、不器用な言葉に。 陽菜の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。そして最高の笑顔で笑った。
俺は、その笑顔に吸い寄せられるように、顔を近づけていった。
◇
カケルの顔が近づいてくる。
私は、そっと目を閉じた。
唇に触れる柔らかな感触。
甘いチョコレートの味。
そして彼の味が混じり合う。
幸せで胸がいっぱいだった。
もっと。 もっと、カケルを感じたい。
そう思った、その時だった。
キスが、少しずつ深くなっていく。
カケルの大きな手が、私の腰を優しく引き寄せた。
私も、カケルの広い背中に腕を回す。
カケルのもう片方の手が、私の背中を、ゆっくりと撫で始めた。
そして、カケルは、私を優しくベッドに横たえた。
カケルが、私を優しく見つめている。
(……やだ)
頭の中で声がした。
違う。 違うのに。
カケルは優しい。
私を傷つけるようなこと、絶対にしない。
わかってる。
わかってるのに。
カケルが、私を、ベッドの上に優しく押し倒したその瞬間。
私の体に跨る、獣のような熱い息遣いが。
私のワンピースを引き裂いた、あの音が。
あの暗闇での絶望的な記憶が、一瞬で蘇り、私の頭の中を埋め尽くした。
勝手に身体がこわばる。
呼吸が浅くなる。
心臓がバクバクと、嫌な音を立てて速くなっていく。
(……違う、カケル、ごめん、違うの……!)
心の中で叫ぶ。
でも、声が出ない。
身体が、動かない。
ただ、涙だけが、頬を伝っていく。
◇
陽菜の身体がこわばっている。
ベッドの上で、小刻みに震えている。
俺は、ハッとして、彼女から身体を離した。
「……陽菜?」
目の前の彼女の顔を見て、俺は、息を呑んだ。
その顔は真っ青で。大きな瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。
その瞳に浮かんでいるのは、喜びじゃない。 怯えだった。
「……ごめん」
俺は、絞り出すようにそう言った。
俺のせいだ。
俺が、また、陽菜を傷つけた。
体育倉庫での、あの事件。
陽菜の、心の傷は、まだ、癒えていなかったんだ。
それなのに、俺は、自分の欲望のままに、陽菜を求めようとした。
俺は、あの西園寺と、同じじゃないか。
「……わりぃ。……俺、……最低だ」
俺が自分を責めていると。
陽菜が震える手で、俺の頬に、そっと触れた。
「……違うよ、カケル」
その声は、涙で震えていた。
「……違うの。……カケルは、悪くない。……私が、……私がダメなだけなの。……ごめんね。……本当は、私もカケルと、もっと触れ合いたいのに。……身体が、勝手に怖がっちゃうの……」
その痛々しい告白に。俺の胸は、張り裂けそうだった。
俺は、なんて馬鹿だったんだろう。
俺が、すべきことは一つしかない。
俺は彼女の小さな身体を、もう一度、今度は、壊れ物を扱うように、優しく優しく抱きしめた。
「……ごめん、陽菜。……俺が、焦りすぎてた。……お前が、一番、辛いのにな」
「……カケル……」
「……いいんだ。……焦らなくて、いい。……俺たちは、まだ、始まったばかりなんだから。……ゆっくり、行こうぜ。……お前の、ペースで」
俺のその言葉に、陽菜は、俺の胸に顔をうずめて、子供のように声を上げて泣いた。
俺は、ただ、その小さな背中を、優しく撫でてやることしかできなかった。
俺は誓った。
絶対に、陽菜を傷つけないと。
陽菜の心の傷も、俺が、全部受け止めてやると。
見えない分厚い壁。
でも、きっと乗り越えられる。
俺は、そう信じていた。
そうでないと、どうしようもない不安に押しつぶされそうだった。