第91話 初めての「おはよう」
俺たちの、恋人としての初めての夜は、世界で一番、甘くて、温かい、キスと共に静かに更けていった……なんて、綺麗な思い出のまま終わるはずがなかった。
俺たちが、ソファの上で、二度目、三度目のキスを夢中で交わしていた、そのときだった。
――ガチャリ、と。 玄関のドアが開く音がした。そして、リビングのドアが勢いよく開け放たれる。
「ただいまー! いやー、美味しかったわねぇ!」
「本当ね! 航くんには、感謝しないと!」
そこに立っていたのは、最高にご機嫌な、俺たちの両親だった。
四人はリビングのソファで、唇を重ねんばかりの距離で、固まっている俺たちを見て、一瞬だけ、きょとんとした顔をした。
そして次の瞬間。すべてを察したのだろう。四人は顔を見合わせて、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「「「「お邪魔だった?」」」」
その完璧にハモった、からかうような声に、俺と陽菜は、地球の裏側まで逃げ出したくなった。
◇
クリスマスの朝。
俺、桜井駆は、自分の部屋のベッドの上で、天井を睨みつけながら、昨夜の出来事を思い出していた。
陽菜と恋人になった。そして陽菜との初めてのキス。その、甘くて、柔らかな感触。思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
そして、その直後に訪れた、地獄のような気まずい時間。親たちからの生暖かい視線とニヤニヤが止まらない尋問タイム。
天国と地獄。 その両方を、一晩で味わってしまった。
(……でも)
俺は、ベッドから起き上がった。
窓の外は快晴だ。昨日までの俺とは違う。
俺は、もう陽菜の「彼氏」なのだ。
その事実が、俺の胸を温かいもので満たしていく。
俺は顔を洗い、髪をセットし、昨日よりも少しだけ自信に満ちた足取りで、階下へと降りた。
リビングでは、母親が朝食の準備をしていた。
俺の顔を見るなり、ニヤニヤと笑ってくる。
「おはよう、カケル。……昨日は、よく眠れた?」
「……うるせぇ」
俺は、照れ隠しにそう言って、席に着いた。
もう何を言っても無駄だ。
カレンダーが目に入る。十二月二十五日。
今日、陽菜は、何してるんだろう。
昨日、あんなことがあったから、気まずくて会ってくれないかもしれない。
でも会いたい。
声が聞きたい。
顔が見たい。
俺は、意を決してスマホを手に取った。
◇
クリスマスの朝。
私は、自分の部屋のベッドの上で、枕に顔を埋めたまま動けずにいた。
昨日の夜の出来事が、何度も、何度も、頭の中で再生される。
カケルからの告白。
月のネックレス。
そして、初めてのキス。
その一つひとつが、あまりにも甘くて幸せで。私は、もう、どうにかなってしまいそうだった。
でも、その後の、お父さんたちの乱入。恥ずかしすぎて、死んでしまうかと思った。
(……今日、どんな顔して、カケルに会えばいいの……)
私は、ベッドの上でごろごろと転がり回る。その時だった。
――ピコン、と、スマホが鳴った。
カケルからのメッセージ。
『おはよう』
たった四文字。
でも、そのシンプルな言葉に、彼の不器用な優しさが、全部、詰まっている気がして。私の胸は、温かいものでいっぱいになった。
私も返信する。
『おはよう、カケル』
すぐに既読がついた。
でも、そこから返信がない。
数秒が、数分のように感じられる。
長い、長い沈黙。
ドキドキしながら、画面を見つめていると、新しいメッセージが届いた。
『あのさ、陽菜。もしよかったらなんだけど』
『今日、もう一日、一緒に過ごしてくれないか』
カケルが誘ってくれた……。
嬉しさが溢れてくる。
以前、舞に言われた言葉が蘇る。
『あんたは桜井くんのために、二日間、予定を完全に空けておくこと!』
舞は、やっぱり、天才だ。
『うん! もちろん!』
私は、震える指で、そう返信した。
すぐに、彼からスタンプが一つだけ送られてきた。
嬉しそうに、ガッツポーズをしている犬のスタンプ。
思わず、笑顔になってしまう。
「ふふっ」
◇
よかった。 OKしてくれた。
俺は、スマホを胸に抱き、そしてベッドの上で、意味もなく転がり回る。
嬉しくてたまらない。
俺たちの、恋人としての初めての一日が始まる。
俺は、慌ててベッドから起き上がると、クローゼットを開けた。
何を着ていこう。 どこへ行こう。 考えるだけで楽しくて仕方ない。
俺たちの恋人としての、初めての朝は、世界で一番、甘くて、温かい「おはよう」と共に始まった。