第90話 二人きりの聖夜
イルミネーションの光の海から、俺たちは、夢見心地のまま、帰り道を歩いていた。
繋いだ陽菜の手が温かい。さっきまでの凍えるような寒さが嘘のようだ。
俺の心の中は、陽菜の「大好き」という言葉だけで、春みたいに温かかった。
「……」
「……」
二人の間に会話はない。
でも、その沈黙は、今までで一番心地よかった。
何を話せばいいんだろう。恋人同士って何を話すんだろう。俺のヘタレな頭では何も思いつかなかった。
ただ隣にいる陽菜の、その存在を感じているだけで幸せだった。
やがて、見慣れた家の前の道に着く。
俺たちの家の明かりは、どちらも消えていた。
その暗闇を見て、俺は思い出した。
今日の昼間、航から届いたメッセージを。
『兄貴へ。今夜、親父たちは日高家の皆さんと、俺がプレゼントしたディナー券で、お食事会です。帰りは遅くなると思われます。……まあ、せいぜい頑張れや』
あの時は、何を言っているんだ、こいつは、としか思わなかった。でも今ならわかる。 あいつが、俺たちのために用意してくれた最高の舞台だということを。
俺は、心の中で弟に最大限の感謝をした。
「……陽菜」
「……うん」
「……うち寄ってかねぇか? ……親、いねぇし。……その、……準備、してるんだ」
その精一杯の誘いに、陽菜は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして次の瞬間、顔を耳まで真っ赤にして、でも最高に嬉しそうな笑顔で、こくりと小さく頷いた。
◇
俺の家のリビング。
クリスマスツリーの柔らかな光が、静かな部屋を照らしている。
俺は、キッチンでごくりと唾を呑んだ。
陽菜と二人きり。 俺の家で。 その事実に、頭がクラクラする。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
大丈夫だ、俺。 俺は、もう陽菜の彼氏なんだから。
その言葉が、俺に不思議な勇気をくれた。
「……わりぃ、ちょっと待っててくれ」
俺は、リビングでそわそわと待っている陽菜に声をかけると、冷蔵庫から、いくつかの箱を取り出した。
それは、俺が、この日のために、こっそりと予約し、準備しておいたテイクアウトのディナーだった。
莉子ちゃん経由で聞き出した、陽菜の好きなイタリアンのお店の特製オードブルとパスタ。 そして、小さなクリスマスケーキ。
「……カケル、これ……」
テーブルに並べられた料理を見て、陽菜は、驚いたように目を見開いている。
「……お前、お腹、減ってるだろ……一緒に食べたいなって思って」
俺は、照れ隠しにそう言った。
本当は違う。 ただ、陽菜を喜ばせたかっただけだ。
陽菜の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「……すごい。……すごいよ、カケル……。……私のために、こんな……」
「……別に。……たいしたこと、してねぇよ」
「ううん。……嬉しい。ほんとに嬉しいよ」
陽菜は、そう言って、心からの幸せそうな笑顔で笑った。
二人だけの、ささやかなクリスマスパーティー。
美味しい料理と甘いケーキ。
そして何より、隣で笑う陽菜の笑顔。
そのすべてが、俺にとって最高のプレゼントだった。
◇
食事を終え、俺たちはソファに並んで座っていた。
二人で、黙ってクリスマスツリーの光を眺める。
甘くて温かい空気が、俺たちを包み込んでいた。
「……あのさ、陽菜」
「ん?」
「……これ、プレゼント。もうひとつ、あるんだ……」
俺はそう言って、ポケットの中から、もう一つのプレゼントを取り出した。
イルミネーションの下で渡せなかった、もう一つの想い。
新しい水色のリストバンド。
「……これ……」
「……おう。……陽菜が、ずっと大事にしてくれてた、あのお守り。……嬉しかった。……でも、あれは、ただの幼馴染の俺があげたものだろ?」
「……うん」
「……だから、これからは、……これが、陽菜の新しいお守りだ。……彼氏として……陽菜を守るっていう、印」
俺の、精一杯の言葉に。
陽菜は、また瞳を潤ませた。
そして、最高の笑顔で頷く。
「……うん。……ずっとずっと大事にするね……」
陽菜はそう言って、新しいリストバンドを、その白い手首に着けてくれた。
すごく似合っていた。
◇
カケルがくれた新しいリストバンド。
私の新しいお守り。
カケルが、私の、彼氏としてくれる初めてのプレゼント。
私は、そのリストバンドを、そっと撫でた。
彼の想いが伝わってくるようで、胸が温かくなる。
「……カケル」
「……ん?」
「……ありがとう。……本当に、ありがとう」
私がそう言うと、彼は照れくさそうに、でも真っ直ぐに、私を見つめてきた。
その瞳に吸い込まれそうだった。
もう言葉はいらなかった。 私たちの心は、もう一つになっていたから。
◇
俺は、陽菜の潤んだ瞳を見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を近づけていく。
陽菜は、そっと目を閉じた。
その答えに、俺の最後の勇気が生まれた。
俺たちの、唇が、そっと重なった。
柔らかくて、温かくて、そして、どうしようもなく甘い、初めての感触。
それは、観覧車での、あの続きなんかじゃなかった。
もっとずっとリアルで、温かくて、陽菜の味がした。
時間が止まった。
世界には、俺と陽菜、二人だけしかいない。
そう、思った。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
俺たちは、ゆっくりと唇を離した。
二人とも、顔を真っ赤にして息を弾ませている。
陽菜の、大きな瞳が潤んでキラキラと輝いていた。
その瞳に、俺の間の抜けた顔が映っている。
俺たちは、顔を見合わせて吹き出してしまった。
「「ふふっ……あはははは!」」
幸せだった。
ただ、ひたすらに幸せだった。
俺は、もう一度、彼女の小さな身体を優しく抱きしめた。
俺たちの、恋人としての初めての夜は。
世界で一番、甘くて、温かい、キスと共に静かに更けていった。