第9話 弟と妹の重要ミッション
日曜日、午前十時。桜井家のリビング。
俺、桜井航は、ソファに寝転がってスマホでゲームをしながら、ちらりとダイニングテーブルに座る兄の様子を盗み見た。
(……なんだありゃ。生ける屍か?)
兄、桜井駆は、魂が抜けたような顔で、中身がほとんど入っていない牛乳のパックをぼーっと眺めている。
昨日、あんなにウキウキしながら出かけて行ったというのに、帰ってきてからずっとあの調子だ。
部屋にこもり、夕飯も「いらない」の一点張り。
今朝も、俺が声をかけるまで、死んだように眠り続けていた。
これは、十中八九、陽菜姉ちゃん絡みだ。
俺の兄は、陸上のこと以外では、驚くほど単純な生き物なのだ。
兄の感情の浮き沈みの原因は、九割が陽菜姉ちゃん、残りの一割が部活、というのが俺の長年の分析結果である。
「兄貴」
「……」
「兄貴ってば」
「……なんだよ」
二度目の呼びかけで、兄はゾンビのようにゆっくりと顔を上げた。
その目の下には、うっすらと隈ができている。
「昨日、陽菜姉ちゃんと何かあったんだろ」
「……別に、何もねぇよ」
出た。兄の得意技、「別に何もねぇよ」。
これは、「ものすごく何かあったけど、お前には絶対言わねぇ」の意である。
わかりやすい。わかりやすすぎる。
「ふーん? 何もなくて、そんな世界の終わりみたいな顔してんのか。そりゃすごいな」
「……うるせぇ。ほっとけ」
兄はそれだけ言うと、再び牛乳パックとの睨めっこに戻ってしまった。
(ダメだこりゃ。完全に心を閉ざしてる)
兄は、昔からこうだ。
特に恋愛が絡むと、途端に貝のように口を閉ざし、一人でウジウジと悩み続ける。
シャイで奥手、と言えば聞こえはいいが、要するにヘタレなのだ。
これは、俺一人で対応できる案件ではない。
こういう時は、単独突破を試みず、強力な援軍を要請するに限る。
俺はスマホの画面を切り替え、メッセージアプリを開いた。
宛先は、もちろん、日高家の最終兵器、日高莉子だ。
『莉子、緊急事態だ。兄貴が死んでる』
メッセージを送ると、一分も経たないうちに返信が来た。
『こっちもだよ、航くん。お姉ちゃん、目が風船みたいに腫れてる』
やはりか。
俺は深いため息をつき、ソファから立ち上がった。
「兄貴、俺、ちょっと出かけてくる」
「……おう」
兄からの気のない返事を聞きながら、俺は玄関のドアを開けた。
作戦会議の時間だ。
◇
「で、どういうことなのよ! あのヘタレお兄ちゃんが、またうちの可愛いお姉ちゃんを泣かせたんでしょ! 絶対に許さないんだから!」
家の近くの小さな公園。
ブランコに座るなり、私、日高莉子は、目の前に立つ桜井航くんに詰め寄った。
今朝、お姉ちゃんの部屋に行ったら、信じられない光景が広がっていたのだ。
目は真っ赤で、枕はぐっしょり。どう見ても、一晩中泣き明かしたとしか思えない。
理由を聞いても、「なんでもないよ」の一点張り。
でも、昨日、カケルお兄ちゃんと出かけてから帰ってきた時の、あの抜け殻みたいな顔を、私は見逃していない。
原因は、絶対に、カケルお兄ちゃんだ。
「まあ、落ち着けって、莉子。俺の兄貴がヘタレなのは今に始まったことじゃないだろ」
「そういう問題じゃない! 乙女の心を傷つけた罪は重いんだよ! 万死に値する!」
「お前、どこでそんな言葉覚えてくんだよ……」
航くんは、呆れたように頭を掻いている。
彼は、カケルお兄ちゃんとは全然違う。
冷静で、頭が良くて、それに、ちゃんと女の子の気持ちがわかる人だ。
……まあ、ちょっとだけ、ひねくれてるところもあるけど。
「それで? 航くんの方で、何か情報はあるの?」
「ゼロだ。兄貴は完全に貝になってる。『別に何もねぇよ』しか言わねぇ」
「こっちも同じ。『なんでもない』って笑うんだけど、目が全然笑ってない。見てるこっちが泣きそうになるくらい」
私たちが顔を見合わせ、深いため息をつく。
「「はぁ……」」
兄と姉のせいで、弟と妹の貴重な休日が、こんな重苦しいものになるなんて。
「こうなったら、直接対決しかないわね」
「直接対決?」
「そう。私たちが、本人たちに直接問いただすのよ!」
「却下だな」
航くんは、私の提案を即座に切り捨てた。
「なんでよ!」
「無駄だからだ。あの二人が、俺たちに本当のこと言うと思うか? 特に、俺の兄貴は、ああなったらテコでも動かねぇよ。逆効果になるだけだ」
「う……。それは、そうかもだけど……」
確かに、カケルお兄ちゃんは頑固だ。
お姉ちゃんも、一度心を決めると、なかなか譲らないところがある。
「じゃあ、どうするのよ! このままじゃ、二人とも干からびちゃうよ!」
「だから、今からそれを考えるんだろ。……作戦会議だ」
航くんはそう言って、ニヤリと笑った。
その顔は、カケルお兄ちゃんには似ても似つかない、策略家の顔だった。
「まず、現状の整理だ。昨日、二人は買い物に出かけた。そして、何かがあって、喧嘩した。もしくは、兄貴が何か致命的な失言をやらかした。その結果、陽菜姉ちゃんは泣き、兄貴は自己嫌悪でゾンビ化している。……大筋はこんなとこだろ」
「うん。たぶんね」
「問題は、その『何か』がわからないことだ。だが、原因を追究しても意味がない。俺たちがやるべきは、二人が仲直りする『きっかけ』を作ってやることだ」
航くんは、まるで探偵みたいに、状況を冷静に分析していく。
「きっかけ、ねぇ……。そうだ! お姉ちゃんが、カケルお兄ちゃんの家に忘れ物をしたってことにして、お姉ちゃんを取りに行かせるのはどう?」
「ストーリーがありがちすぎるな。それに、昨日帰ってきてから、陽菜お姉ちゃん、自分の部屋から一歩も出てないんだろ? 忘れ物なんてするタイミングがない」
「じゃあ! 私が病気になったフリをして、二人を呼ぶ!」
「お前、昨日ピンピンしてたじゃねぇか。無理がある」
「むぅ……。じゃあ、どうすればいいのよ!」
私がブランコをぎこぎこ揺らしながら唸っていると、航くんは顎に手を当てて、少し考える素振りを見せた。
「……なあ、莉子。陽菜姉ちゃんって、今、何が一番欲しいと思う?」
「え? 何が一番欲しいかって……そりゃあ、カケルお兄ちゃんからの『ごめん』の一言に決まってるじゃない」
「だよな。じゃあ、兄貴は?」
「カケルお兄ちゃんは……お姉ちゃんに、許してほしい、んじゃないかな」
「正解。つまり、二人はお互いに『謝りたい』し、『許したい』はずなんだ。でも、その一歩が踏み出せない。俺たちがやるべきは、その背中を、思いっきり蹴飛ばしてやることだ」
航くんの目が、キラリと光った。
「いい作戦がある」
◇
作戦決行は、その日の午後三時。
俺は、リビングで相変わらずゾンビ化している兄貴に、何気ないフリをして声をかけた。
「兄貴、悪いんだけどさ。日高のおばさんに、この回覧板、回しといてくんね?」
「……なんで俺が」
「俺、今から友達とゲームする約束あんだよ。それに、兄貴の方が家、近いだろ」
俺はそう言って、回覧板を兄貴の前に置く。
近いといっても、1mくらいの差だけどな。
でも、これは、ただの回覧板じゃない。莉子との共同作戦の、重要なトリガーだ。
「……わかったよ」
兄貴は、面倒くさそうに、しかし断りはせずに立ち上がった。
よし、食いついた。
兄貴が玄関を出て、隣の日高家へと向かうのを見届けてから、俺はスマホで莉子にメッセージを送る。
『兄貴、そっちに向かった。あとは頼む』
『了解! こっちは準備万端だよ!』
さあ、ヘタレな兄貴と、意地っ張りな姉ちゃんよ。 お前らの弟と妹が用意した、最高の舞台で、せいぜい頑張るんだな。
俺はリビングの窓から、二つの家の間の、ほんのわずかな空間を、ニヤニヤしながら見守っていた。
◇
――ピーンポーン。
インターホンの音に、私の心臓が大きく跳ねた。
来た。 航くんからのメッセージ通り、カケルお兄ちゃんが、うちの前にいる。
「はーい」
私は、練習してきた「何も知らない妹」の演技で、玄関のドアを開けた。
「あ、カケルお兄ちゃん。こんにちは」
「……おう。これ、回覧板」
カケルお兄ちゃんは、気まずそうに目を逸らしながら、私に回覧板を手渡した。
その顔は、やっぱりまだ、土気色だ。
「ありがとう。……ねぇ、お兄ちゃん。ちょっと、上がってかない?」
「は? いや、俺は……」
「お姉ちゃんなら、今、お風呂に入ってるから大丈夫だよ」
私がそう言うと、カケルお兄ちゃんは、少しだけホッとしたような、でもがっかりしたような、複雑な顔をした。わかりやすい人。
「実はさ、昨日、お姉ちゃんがカケルお兄ちゃんから借りたDVD、返し忘れちゃったみたいで。今、リビングに置いてあるから、持っていってくれないかな?」
「……DVD? 俺、陽菜に何も貸してねぇけど」
「えー? そうなの? でも、お姉ちゃん、そう言ってたよ? 『これ、カケルに返さなきゃ』って」
もちろん、全部、嘘だ。
そのDVDは、さっき私が、お姉ちゃんの部屋からこっそり持ってきた、ただの恋愛映画のDVDだ。
「……わかった。じゃあ、それだけもらってく」
カケルお兄ちゃんが、リビングに入ってくる。
よし、第一段階、クリア。
私は、彼がまな板の上にちゃんと乗るように、さりげなく誘導する。あなたは恋……じゃない、鯉だ。
カケルお兄ちゃんがリビングに足を踏み入れ、
そして、リビングのドアが閉まる、その瞬間。
「……あれ? お姉ちゃん、もうお風呂から上がったの?」
リビングの方に向けて、私が、わざとらしく、大きな声で言った。
リビングのソファには、さっきまでいなかったはずの、お風呂上がりのパジャマ姿のお姉ちゃんが、呆然とした顔で座っている。
そして、その目の前には、同じく、完全に固まっている、カケルお兄ちゃんの姿。
――ガチャリ。
私は、外側から、リビングのドアにそっと鍵をかけた。
さあ、役者は揃った。
舞台も整った。
あとは、主役の二人が、どんな物語を紡ぐのか。 私はドアに耳を当て、中の様子を伺いながら、航くんに勝利のメッセージを送った。
『ミッション・コンプリート!』
カケルの弟の航くんと、陽菜の妹の莉子。
航くんと莉子ちゃんはどちらも中学2年生です。
この二人には今後も、時々登場してもらいますが、どうしてもコミカルな感じになります。重苦しい雰囲気は、この2人に吹き飛ばしてもらおうと思います。
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