第83話 クリスマスの鐘とヘタレの覚悟
十二月。吐く息が、白く染まる季節。
俺、桜井駆は、部活帰りの冷たいアスファルトを、一人歩いていた。
商店街の街路樹には、色とりどりのイルミネーションが灯され、クリスマスソングがどこからともなく聞こえてくる。
街全体が浮き足立っている。まるで、世界中が恋人たちのために用意された舞台のようだ。
俺は、そのキラキラとした光景から、目を逸らすように俯いた。
修学旅行から、もう約一ヶ月が経っていた。
俺と陽菜の関係は、あの日を境に確かに変わった。
手を繋ぐのは当たり前になった。
周りの奴らからは「お前ら、もう付き合ってんだろ」と、からかわれる。
でも違う。俺たちの関係は、表向きには、まだ幼馴染という関係から何も抜け出せていない。俺がヘタレだからだ。
『……私、桜井くんのことが、好きです』
修学旅行のあの夜。中庭で聞いた小野寺の震える、でも、真っ直ぐな声が、今も耳の奥で響いている。
彼女は怖かったはずだ。 傷つくとわかっていたはずだ。それでも自分の気持ちから逃げなかった。
それに比べて俺はどうだ。「陽菜がいなくなるのが怖い」なんて言い訳をして、ずっと本当の気持ちから目を逸らしてきただけじゃないか。
一番ヘタレなのは俺だ。
小野寺のあの勇気が、俺に教えてくれた。
想いは言葉にしないと伝わらないのだと。
俺は、陽菜に伝えなければならない。
俺の本当の気持ちを言葉に乗せて。
そう、頭ではわかっている。
わかっているのに、身体が動かない。
いざ、陽菜を目の前にすると言葉が出てこない。
「好きだ」というたった三文字が、喉の奥に張り付いて出てこないのだ。
もし断られたら? いや、きっとそれはない。
でも、もし、この心地よい関係が変わってしまったら?
「恋人」という名前がついた瞬間、俺は陽菜の前で、今まで通り自然体でいられるだろうか。
そんなくだらない不安が、俺のあと一歩を踏みとどまらせる。
ショーウィンドウに可愛らしい、アクセサリーが飾られているのが目に入った。
ネックレス、指輪、ピアス。 キラキラとした小さな宝石たち。
陽菜に似合いそうだ、なんて。
そんなことを考えてしまって。一人で顔が熱くなる。
俺は足早に、その場を立ち去った。
クリスマスまで、あと二週間。
俺の覚悟は、まだ決まっていなかった。
◇
「……はぁ」
私は、自分の部屋のベッドの上で、深いため息をついた。
手の中には、女性ファッション誌のクリスマス特集のページが開かれている。
『彼が喜ぶ、クリスマスプレゼント特集!』
『聖なる夜に奇跡を起こす、最強デートコーデ!』
そんなキラキラとした文字が、私の胸をチクチクと締め付ける。
「……陽菜、今日、ため息何回目よ」
隣で、同じように雑誌を読んでいた舞が、呆れたように言った。
「……だって……」
「だって、じゃないわよ。……桜井くんと何かあったの?」
「……ううん。何もない」
「それが、問題なんでしょ」
舞の的確すぎる一言に、私はぐうの音も出なかった。
そう。 何も、ないのだ。
修学旅行の後、私たちは確かに変わった。
手を繋いでくれるようになったし、時々、すごく優しい顔で、私のことを見てくれる。
でも、それだけ。 私が一番聞きたい言葉は、まだ聞けていない。
「……私、……カケルに嫌われちゃったのかな」
「はぁ!? なんで、そうなるのよ!」
「だって、……最近、少しだけ避けられてる気がして……」
そうなのだ。 ここ数日、カケルはどこかよそよそしい。
帰り道も、以前みたいには話が弾まない。
私が、何か気に障るようなことをしてしまったんだろうか。
そう思うと、不安で胸が張り裂けそうだった。
「……バカね、陽菜は」
舞はそう言って、私の頭をぽんと優しく叩いた。
「……それはね、桜井くんが陽菜のこと意識しすぎてテンパってるだけよ。……男の子なんて、そんなもん。……特に、あのヘタレな桜井くんなら、なおさらね」
「……そう、かな」
「そうよ。……だから、陽菜はどっしり構えてればいいの。……クリスマス楽しみにしてるんでしょ?」
「……うん」
私は、小さく頷いた。
そうだ。 クリスマス。
もしその日に、カケルが何か言ってくれたら。
私は、世界で一番幸せな女の子になれるのに。
そんな、淡い期待を胸に抱きながら、私は、もう一度雑誌のプレゼント特集のページを見つめた。
カケルには何が似合うだろう。
マフラー? 手袋? それとも……。
カケルのことを考えているだけで、私の心は、温かいものでいっぱいになった。
◇
「……で? どうなんだよ、駆の奴は。まだウジウジしてんのか」
放課後の部室。
俺、橘蓮は着替えをしながら、健太に尋ねた。
「ああ。……見てるこっちがイライラするくらいにな。……最近じゃ、陽菜ちゃんのこと避けてるフシすらあるぜ」
「はぁ……。重症だな、ありゃ」
俺たちは、顔を見合わせて深いため息をついた。
修学旅行で、あれだけいい雰囲気になったというのに。
あのヘタレは、まだ最後の一歩が踏み出せないでいる。
「このままじゃ埒が明かねぇな。……しょーがねぇ。俺たちが、また一肌脱いでやるか」
「……また、お前の悪巧みかよ」
「人聞き悪いな。……これは、親友の恋を成就させるための、聖なる企みだ」
俺はそう言ってニヤリと笑った。
そして部室の隅で、一人、黙々とストレッチをしている、駆の元へと向かった。
「よぉ、駆。最近、調子どうだ?」
「……別に。普通だよ」
「ふーん? 俺には、人生で一番デカい壁にぶち当たってるように見えるけどな」
俺の直接的な言葉に、駆の肩がびくりと震えた。
「……なんだよ、それ」
「とぼけんなって。……お前、日高さんに告白するんだろ?」
「……っ!」
駆は、何も言い返せない。
その反応だけで十分だった。
「……まあ、気持ちはわかるけどな。一番大事なのは、もちろんちゃんと『好きだ』って伝えることだ。でも、お前の、そのヘタレな気持ちもよくわかるぜ」
「……ヘタレって……」
「ヘタレだろ。……でもな、駆。考えてみろよ。告白ってのは、女の子にとって一生の思い出になるんだぜ? どんな言葉で、どんな場所で言われたか。そういう、シチュエーションとか、ムードとか、俺らが思う以上に、大事にするもんなんだよ」
俺の言葉に、駆はハッとした顔をした。
こいつは、そんなこと一ミリも考えていなかったに違いない。
「……最高の、舞台……」
「そうだ。……まあ、幸いなことに、もうすぐ、やってくるじゃねぇか。日本中の、カップルと、カップル候補たちが、一年で一番盛り上がる最高のイベントがよ」
俺がそう言ってウインクをすると、駆の顔がハッとしたように変わった。
そして、その顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
どうやら、ようやく気づいたらしい。クリスマスという最高の舞台の存在に。
「……しょーがねぇな、駆は」
俺は、そんな不器用な親友の背中を、ポンと叩いた。
導火線には、火をつけてやった。あとは、こいつが自分の力で爆発させるだけだ。
俺は心の中でニヤリと笑った。
今年のクリスマスは、最高に面白くなりそうだ。