第82話 キューピッドたちの凱旋
「……で? どうだったのよ、航くん。私たちの、修学旅行編プロデュース大作戦は!」
俺、桜井航は、自分の部屋のベッドの上で、今回の作戦の成果報告を莉子から受けていた。
電話の向こうの莉子は、興奮冷めやらぬ様子でまくし立てている。
「どうだったも何も、俺は見てねぇんだからわかるわけねぇだろ。お前こそ、陽菜姉ちゃんから何か聞いたのかよ」
「もちろんよ! 舞さん経由で情報は筒抜けなんだから! なんでも、遊園地では、チュロスであわやキス寸前! 観覧車でもキス寸前だったんですって!」
「……兄貴のくせに、やるじゃねぇか」
俺は、少しだけ見直した。
あのヘタレな兄貴が、そこまで進展していたとは。
「でしょ!? だから、今頃、お姉ちゃんの家では、もっと、すごいことになってるはずなのよ! だから、私たちは、最後の仕上げとして、その現場を急襲する必要があるの!」
「……お前は、本当にブレねぇな」
俺は呆れながらも、その面白そうな提案に、抗うことはできなかった。
俺たちは、陽菜姉ちゃんのお母さんが駅に迎えに行ったのを見計らって、俺の家で待機していた。
そして、兄貴が陽菜姉ちゃんの家に呼ばれていったのを確認すると、こっそりと後を追ったのだ。
◇
(……早く帰ってこないかな)
私、日高莉子は、航くんの家のリビングでポテトチップスを頬張りながら壁の時計を睨みつけた。
隣では、航くんが同じようにジュースを飲みながら、スマホでゲームをしている。
時刻は、午後七時を少し回ったところ。
主役の二人が駅に到着する予定時刻だ。
「大丈夫かしら、航くん。ちゃんと、お母さん、見つけられたかな」
「陽菜姉ちゃんの母親だろ。大丈夫に決まってる」
「でも、もし、あのヘタレお兄ちゃんが、また何かやらかして、気まずい空気になってたら……」
「……それも、ありえるな」
私たち二人は、顔を見合わせて深いため息をついた。
私たちの、完璧なまでの数々のお膳立て。
それを、いとも簡単に台無しにしてくれるのが、私たちの不器用すぎる兄と姉なのだ。
今日は、その壮大な作戦の成果発表会。
私たちが、ここにいるのは、もちろん偶然じゃない。
お母さんが駅に迎えに行ったのを見計らって、私が航くんを呼び出したのだ。
「まあ、でも大丈夫でしょ。さすがのお姉ちゃんも、何か掴んだはずよ」
「そうだな! きっと、今頃、良さげな雰囲気で帰ってきてるに違いない」
カケルお兄ちゃんとお姉ちゃん。
二人が本当の恋人同士になるその瞬間を、この目で見届けるのだ。
◇
日高家のリビングで、俺たちは息を潜めて、その時を待っていた。
二階の、陽菜姉ちゃんの部屋からは何の物音も聞こえてこない。
それが逆に、俺たちの想像力を掻き立てる。
「……ねぇ、航くん。……今頃、二人、何してるのかしら」
「……さあな。……まあ、兄貴のことだから、せいぜい手を握るくらいで、いっぱいいっぱいだろ」
「むー! もっとこう、情熱的な展開を期待しちゃうじゃない!」
莉子が、唇を尖らせる。
とその時だった。
リビングのドアの向こうから、莉子のお母さんの明るい声が聞こえてきた。
「陽菜ー? カケルくん、まだいるのー?」
その、あまりにも空気を読まない一言に。
俺と莉子は、同時に叫んだ。
「「なんでぇぇぇぇぇぇっ!」」
静かなリビングに、俺たちの悲痛な叫びが響き渡る。
今、絶対にいいところだったはずなのに!
この母親にして、あの娘あり、か!
いや陽菜姉ちゃんは悪くない。 悪いのは、いつだってタイミングだ。
やがて、二階からぎこちない足音が聞こえてきた。
俺と莉子は顔を見合わせニヤリと笑う。 よし、そろそろ出番だな。
俺たちは階段を駆け上がり、陽菜姉ちゃんの部屋のドアの前に立った。
そして、兄貴が部屋から出てくる、その瞬間を待ち構えていたのだ。
ドアが開く。
出てきた兄貴と、部屋の中にいる陽菜姉ちゃん。
その二人の顔を見て。 俺と莉子は、すぐにすべてを察した。
◇
「……遅かったな、兄貴」
「お帰りなさい、お姉ちゃん、カケルお兄ちゃん」
俺たちが、そう言って出迎えると、二人はびくりと肩を震わせた。
その顔は、二人とも夕焼けみたいに真っ赤だった。
「……お前ら、いつからそこに」
「んー? ついさっき、おばさんに呼ばれてきただけだけど?」
「そうそう! それより、どうだったのよ! 顔、真っ赤じゃない! 何か、あったんでしょ!」
莉子が、陽菜姉ちゃんの腕に、ぎゅっと抱きつく。
その無邪気なフリをした笑顔に、兄貴と陽菜姉ちゃんの、甘くて気まずい空気は、完全に霧散してしまった。
結局、俺たちは、そのまま日高家のリビングで、緊急(?)修学旅行報告会を、開催することになった。
陽菜姉ちゃんのお母さんが、温かいお茶とケーキまで出してくれた。
兄貴と陽菜姉ちゃんは、テーブルを挟んで向かい合って座る。
その正面には、俺と莉子が、尋問官のように座っていた。
「で? どうだったんだよ、兄貴。陽菜姉ちゃんと、二人きりの遊園地デートは」
「……デートじゃねぇよ」
「ふーん? でも、すっごく楽しそうな顔してるじゃない。ねぇ、お姉ちゃん?」
「……っ!」
莉子の爆弾発言に、陽菜姉ちゃんは飲んでいたお茶を吹き出しそうになっていた。
「な、何言ってるのよ、莉子!」
「だってお姉ちゃん、さっきから、ずっと顔がとろけてるんだもん! 超ラブラブな顔してる!」
「そ、そんなこと、ない!」
陽菜姉ちゃんが顔を真っ赤にして、ぶんぶんと手を振っている。
その、狼狽える姿が可愛くて。
兄貴は、吹き出してしまっている。
「ふふっ」
「……な、なによ……。カケル」
「いや……。……楽しかったな、って」
兄貴がそう言うと、陽菜姉ちゃんは、一瞬だけ、きょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間。 今日一番の最高の笑顔で、ふわりと笑った。
「……うん。……すっごく楽しかった」
その二人の間に流れる空気に、 俺と莉子は固まった。
なんだこれ。 甘いとか気まずいとか、そういうレベルじゃない。
もっとこう、キラキラしてて、ふわふわしてて、見てるこっちが恥ずかしくなるような、とんでもない甘ったるい空気。
これは、あの文化祭で俺たちが当てられてしまった、高校生カップルのあの空気そのものじゃないか。
もっと純粋で、どうしようもなく尊い何か。
(……やべぇ)
俺は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
隣を見ると、莉子も同じように顔を真っ赤にして俯いている。
俺たちが、いつも兄貴と陽菜姉ちゃんにしていることを、今、俺たちは完全にやられている。
「……で、で、お土産は!? お土産、あるんでしょ!?」
俺たちの、この切り替えの速さには、自分たちのことながら本当に感心する。
兄貴と陽菜姉ちゃんは、そんな俺たちの様子を見て、楽しそうに苦笑いすると、それぞれのバッグからお土産を取り出した。
八つ橋、面白い靴下、そして、小さな紙袋が二つ。
「はい、これ。航に」
「こっちは、莉子にね」
俺と莉子は、それぞれの袋を受け取った。
中に入っていたのは可愛らしいキーホルダーだった。
俺のは緑色のカエル、莉子のは白いアザラシ。
「うわー! アザラシ! 可愛い!」
「お、このカエルのやつ、センスいいじゃん」
俺と莉子は、子供みたいにはしゃいでいた。
と、その時。
俺は、気づいてしまった。
俺のカエルのキーホルダーのタグに、小さく「&」と書かれていることに。
「……ん?」
ちらりと、莉子のキーホルダーを見る。
彼女のアザラシのタグにも、同じように「&」の文字が。
二つを並べてみる。
カエルとアザラシ。
その、二つのマスコットが、ぴったりと寄り添うようにデザインされていた。
お揃い、だったのだ。
俺と莉子は、顔を見合わせた。
そして、同時に、顔がカッと熱くなるのを感じた。
「……」
「……」
俺たちは何も言えずに、ただ顔を真っ赤にして俯くことしかできなかった。
そのあまりにも、平和で当たり前の光景。
数ヶ月前まで失いかけていた、かけがえのない日常。
俺は、その温かい光景を、ただじっと見つめていた。
陽菜姉ちゃんも、同じ気持ちだったのだろう。
兄貴を見て、優しく微笑んでいた。
蛇足ながら補足。凱旋したキューピッドたちは、駆と陽菜です。