第81話 マッサージふたたび
陽菜の家にお邪魔したものの……。
俺、桜井駆は、陽菜の部屋の前に立ち尽くしたまま動けずにいた。
リビングでは、おばさんが、「カケルくん、ゆっくりしていってね!」と、お茶とお菓子を用意してくれている。
だが陽菜は、俺を、まっすぐ自分の部屋へと案内したのだ。
「……足、マッサージしてくれるんでしょ? ベッドの方が、やりやすいかなって」
そう言って、いつものように悪戯っぽく笑う陽菜。
その陽菜の、小悪魔のような笑顔に、俺はもうなすすべもなかった。
心臓が、バクバクと音を立てている。
修学旅行の、四日間で、俺たちの距離は確かに縮まったはずだ。
手を繋ぐことも当たり前になった。
観覧車では、キスだってしそうになった。
でも、それでも。
女の子の部屋に二人きり。
その状況は、俺のなけなしの理性を、崖っぷちまで追い詰めるには十分すぎた。
「……さあ、カケル。どうぞ?」
陽菜が、ベッドの縁にちょこんと腰掛け、俺を手招きしている。
俺は意を決して、部屋に一歩足を踏み入れた。
白とピンクを基調とした、いかにも女の子らしい部屋。
勉強机の上には、可愛いキャラクターの文房具が並んでいる。
そして部屋全体が、陽菜の甘い匂いに満ちていた。
俺は、ゴクリと唾を呑んだ。
「……じゃあ、……失礼します」
俺は床に膝をつき、陽菜の前に座った。
陽菜は、少しだけ恥ずかしそうに、自分の小さな足を、俺の前に差し出してきた。
その小さな足には、駅で見た時と同じ、痛々しい靴擦れの跡が赤く残っていた。
俺のために、お洒落をして無理をさせてしまった。
その事実に、俺の胸がチクリと痛んだ。
「……陸上部だから、足のマッサージは得意なんだ。……だから、その、変な意味はねぇからな」
俺は、自分でも何を言っているのかわからない、そんな言い訳を口走っていた。
陽菜は、そんな俺の様子を見て、ふふっ、と、楽しそうに笑った。
「……うん。わかってるよ。……お願いね、カケル先生?」
その甘えたような声に、俺の、理性の糸はもう切れかかっていた。
俺は、震える手をゆっくりと伸ばし、彼女の小さな足にそっと触れた。
◇
(……うわぁ……)
柔らかい。
信じられないくらい、柔らかくて、すべすべしていた。
俺の、ゴツゴツした硬いマメだらけの手のひらで、それを包み込むのが申し訳なくなるくらいに。
そして温かい。
まるで、小さな生き物みたいに温かい。
俺は、その感触に、頭の中が真っ白になった。
これが、陽菜の、身体の一部。
そう思うだけで、身体中の血液が、沸騰しそうだった。
俺の視線は、陽菜の赤くなった靴擦れの跡に注がれた。
痛そうだ。
こんなになるまで我慢してたのか、こいつは。
俺に、可愛いって思ってもらいたくて。
その、陽菜の健気な気持ちが痛いほど伝わってきて、胸が、ぎゅっと締め付けられる。
もっと優しく触れてやらなければ。
俺は、ゆっくりと陽菜の足の裏を、親指で押していく。
繊細なガラス細工にでも触れるように。
「んっ……」
陽菜が小さく、甘い声を漏らした。
その声が、俺の理性を容赦なく揺さぶる。
(……やめろ、変な声出すな)
心の中で、悪態をつく。
集中できない。
これは、ただのマッサージだ。
そうだ、部活のトレーニングの一環だと思えばいい。
でも、無理だった。
これは、健太や、蓮の、汗臭い脚じゃない。
陽菜の、白くてすべすべで甘い匂いのする脚なんだ。
その当たり前の、圧倒的な事実が、俺のなけなしの理性を粉々に砕いていく。
俺は、ただ無心で、陽菜の脚を揉み続けた。
その柔らかな感触と温もりを、この手のひらに刻みつけるように。
◇
(……どうしよう)
カケルの、大きな手のひらが、私の足を優しく包み込んでいる。
そのゴツゴツした指先が、私の肌の上を滑るたびに。
私の身体中に甘い痺れが走る。
気持ちいい。
でも、それ以上に恥ずかしい。
カケルの真剣な眼差し。
私の足をじっと見つめる、その熱っぽい視線に。
私の身体は、もうどうにかなってしまいそうだった。
体育祭の後の、あの夜とは違う。
あの時は、私が、彼をからかっていた。
でも、今は違う。 完全に、私が彼のペースに飲まれている。
それが、悔しくて、でも、どうしようもなく嬉しかった。
カケルの指が、足の裏から足首へ、そしてふくらはぎへと、ゆっくりと移動していく。
その、丁寧な手つき。
私の靴擦れの跡を避けるように、優しく、優しく、揉みほぐしてくれる。
私のことを、本当に大切に扱ってくれているのが伝わってくる。
その優しさが、嬉しくて愛おしくてたまらない。
私の心も身体も、彼の手のひらの中で、とろとろに溶かされていくようだった。
◇
「……どうだ? 少しは、楽になったか?」
俺は、彼女の脚からそっと手を離した。
陽菜は、少し潤んだ瞳で、とろけるような笑顔を浮かべている。
「うん……。すごく楽になった。ありがとうカケル。……魔法みたい」
「……大げさだな」
俺は、照れ隠しにそう言った。
陽菜は、自分の足をぱたぱたと動かすと満足そうに頷いた。
そして、不意に、俺の顔をじっと見つめてきた。
「……ねぇ、カケル」
「……なんだよ」
「……カケルも疲れてるでしょ? 四日間、ずっとリーダーで大変だったんだから。……今度は、私がやってあげる」
「は!? いや、いいって! 俺は平気だ!」
俺が慌てて断ると、陽菜はむっとしたように頬を膨らませた。
「だめ。……私ばっかり、カケルに優しくしてもらってばっかりじゃずるいもん。……それに私も、カケルのこと、癒してあげたい」
そう言って、彼女はベッドから降りると、俺の隣にちょこんと座った。
そして、有無を言わさず、俺の肩に小さな手を置いた。
「……ほら、力抜いて」
「……お、おう」
陽菜の、小さな手のひら。
でもその指先は、驚くほど的確に、俺の凝り固まった筋肉のツボを捉えてくる。
「……ん」
思わず、気持ちのいい声が漏れた。
「ふふっ。カケル凝ってるね。……いつも頑張ってる証拠だね」
耳元で囁かれる、優しい声。
肩から伝わる、彼女の温もり。
そして、ふわりと香る甘い匂い。
俺は、もうダメだった。
全身の力が抜けていく。
このまま、こいつに、すべてを委ねてしまいたい。
そんな、危険な思考が頭をよぎる。
マッサージを終えた陽菜は、「どう?」と、得意げに笑った。
「……すげぇ。……お前、うまいな」
「でしょ? 舞と、いつもやってるからね」
その何気ない一言に、俺の胸がチクリと痛んだ。
舞と。 こいつは舞と、いつもこんなことを……。
そんな、醜い嫉妬心が顔を出す。
「……カケル?」
俺が黙り込んでいると、陽菜が不思議そうに、俺の顔を覗き込んできた。
その、潤んだ瞳。
吸い込まれそうだった。
俺は気づけば、彼女の柔らかな頬に手を伸ばしていた。
そして、ゆっくりと顔を近づけていく。
陽菜は、驚いたように目を見開いたが、やがて、そっと目を閉じた。
その答えに、俺の最後の理性が吹き飛んだ。
俺たちの、唇が、触れ合う…………。
「陽菜ー? カケルくん、まだいるのー?」
階下から、おばさんの明るい声が聞こえてきた。
その声に、俺と陽菜はびくりとして、慌てて身体を離した。
「……っ!」
「……は、はい! 今、終わったところ!」
陽菜は顔を真っ赤にして、大声でそう叫んだ。
俺も同じだった。 心臓が痛い。
惜しいとか、そういうんじゃない。
ただ、どうしようもなく恥ずかしい。
俺たちは、顔を見合わせることができず、気まずい沈黙が流れた。




