第80話 旅の終わり
『――まもなく、終点、東京駅に到着いたします』
無機質なアナウンスの声。
その日常的な響きに、俺は、夢から覚めたような不思議な感覚に陥った。
肩に感じる、陽菜の柔らかな重みと温もり。
髪の毛から香る、甘いシャンプーの匂い。
この四日間で、すっかり当たり前になってしまった特別な距離感。
それを噛み締めながら、日常に戻っていく。
「……陽菜。……おい、陽菜。着くぞ」
俺は、名残惜しい気持ちを必死に抑え込みながら、彼女の肩を優しく揺すぶった。
◇
(……ん……)
優しい声と、心地よい揺れで、私は、ゆっくりと意識を取り戻した。
目の前には、カケルの、少しだけ困ったような、でも優しい顔。
そして、気づく。
私の頭が、彼の、がっしりとした肩の上に乗っかっていることに。
彼の温もりが、私の頬にじかに伝わってきていることに。
(……きゃあああああああっ!)
心の中で、私は絶叫した。
い、いつの間に!?
私、また、彼の肩で眠っちゃってたの!?
「ご、ご、ご、ごめん! 私、いつの間に……!」
「……い、いや。……別に」
私は慌てて、カケルから身体を離した。
顔が熱い。 熱くて、どうにかなりそう。
◇
新幹線が、ゆっくりとホームに滑り込む。
俺たちは、荷物をまとめて席を立った。
ホームに降り立つと、そこは、見慣れた街の空気だった。
少しだけ、冷たくて懐かしい匂い。
俺たちの、夢のような時間は終わったのだ。
「お疲れー!」
「いやー、マジで、最高の四日間だったな!」
ホームの上で、俺たちの班のメンバーが、後の挨拶を交わしていた。
健太と葵ちゃん。 舞と翔平くん。 蓮と美優さん。
誰もが疲れているはずなのに、その顔は、充実感でキラキラと輝いている。
「じゃあ、また、月曜な!」
「おう!」
俺たちは、それぞれ別れの言葉を交わし、三々五々散らばっていく。
後に残されたのは、俺と、陽菜だけだった。
「……帰るか」
「……うん」
俺たちは、並んで、改札へと向かう。
でも陽菜の歩くペースが、いつもより少しだけ遅いことに、俺は気づいた。
その足取りは、どこかぎこちなく、時々、顔を僅かに顰めている。
「……陽菜、どうした? 足、痛いのか?」
俺がそう尋ねると、陽菜は、びくりと肩を震わせ、慌てて首を横に振った。
「う、ううん! なんでもないよ! ちょっと歩き疲れただけ!」
「……嘘つけ。……靴、合ってねぇんだろ」
俺のその指摘に、陽菜は図星を突かれたように俯いてしまった。
彼女が履いているのは、少しだけヒールのある、お洒落なショートブーツ。
きっと、この旅のために、新しく買ったのだろう。
「……バカだな、お前は」
「……だって……」
「……ほら、こっち来い」
俺はそう言って、自分の大きな旅行カバンを片手で引きながら、陽菜の隣に立った。
そして、空いている方の腕を、彼女の肩にそっと回した。
「え、ちょ、カケル!?」
「いいから。……肩、貸してやる。ゆっくり歩くから、体重、預けろよ」
「で、でも、恥ずかしいよ!」
「俺の方が、恥ずかしいわ。……いいから早くしろ。みんな見てるだろ」
俺がそう言うと、陽菜は、観念したように、おそるおそる俺の身体にその身を預けてきた。
ふわりと香る甘い匂い。
肩に感じる柔らかな身体の感触。
俺は、自分の顔が、熱くなるのを感じながら、ゆっくりと一歩踏み出す。
その小さな身体をしっかりと支え、駅の出口へと歩き出した。
◇
駅のロータリーで、ハザードランプを点滅させながら、私は、二人の子供の帰りを待っていた。
もうすぐ、新幹線が着く頃だ。
あの子、陽菜は、楽しかったかしら。
文化祭での、あの事件の後、あの子、塞ぎ込んでいたから本当に心配だった。
でも、あの時、カケルくんがあの子を守ってくれた。
あの子から、全部聞いた。
昔は、ただ可愛い、手のかかる隣の男の子としか思っていなかった。
でも、もう違う。 彼は立派な男の人だ。
あの子の、心を、身体を、命を懸けて守ってくれたヒーロー。
本当に、感謝してもしきれない。
あの子の隣にいてくれるのが、カケルくんで本当によかった。
そんなことを考えていると、駅の出口から、見慣れた二つの影が現れた。
あら、まあ。 私は、思わず笑みを浮かべた。
カケルくんが陽菜の肩を、しっかりと抱き寄せている。
陽菜も恥ずかしそうに、でも幸せそうに、彼に身を預けている。
その姿は、もう、ただの幼馴染なんかじゃない。
立派な恋人同士、そのものだった。
あの子も、いつの間にか、すっかり女の顔をするようになって。
母親として、少しだけ寂しいような、でも、それ以上に嬉しいような、温かい気持ちが胸に込み上げてきた。
「あらー、お帰りなさい! 二人とも、楽しかった?」
私は運転席から顔を出し、にこにこと手を振った。
◇
俺は陽菜の肩から、そっと腕を離した。
「ただいま、お母さん!」
「……ただいま、帰りました」
「まあ、カケルくんまでありがとうね。さあ、乗りなさい。送っていくから」
俺たちは、車に乗り込んだ。
陽菜が助手席。 俺が後部座席だ。
陽菜は、車に乗るなり、ほっとしたようにブーツを脱いだ。
その白くて小さな足には、痛々しい靴擦れの跡が、赤く残っていた。
「あらあら陽菜。だから言ったでしょ。その靴、まだ、慣れてないんだからって」
「……うぅ。……だって、可愛かったんだもん」
「もう。……カケルくん、ごめんなさいね。うちの娘が迷惑かけちゃって」
「いえ、そんな……」
俺は、何も言えなかった。
ただ、陽菜の、その痛々しい足から、目が離せなかった。
俺のせいだ。
俺が、もっと早く気づいてやれていれば。
そんな後悔が胸をよぎる。
車は、すぐに俺たちの家の前に着いた。
俺は車を降りると、おばさんに深く頭を下げた。
「……ありがとうございました。送ってもらってすみません」
「いいのよ。……そうだ、カケルくん。よかったら、うちでお茶でも飲んでいかない? 旅のお土産話も聞きたいし」
「……いえ、俺は……」
俺が遠慮しようとすると、助手席から、陽菜がか細い声で言った。
「……カケル。……来てほしいな」
その潤んだ瞳で、上目遣いに見つめられて。
俺に、断れるはずがなかった。
「……じゃあ、……お邪魔します」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。
陽菜の家から、漏れる温かい光に吸い寄せられるように。
陽菜と一緒に、「ただいま」を言った。




