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幼馴染の身体を意識し始めたら、俺の青春が全力疾走を始めた件  作者:
第1章 いつも隣にいた君(4月/5月)
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第8話 崩れたクレープ

ぐしゃり、と。

甘いクリームとイチゴが、フードコートの床に無残な染みを作っていた。


陽菜が落とした、たった一つのクレープ。

それが、今の俺たちの関係そのもののように見えた。

取り返しのつかないほど、ぐちゃぐちゃに壊れてしまった、何か。


「……ごめん。手、滑っちゃった」


力なく笑う陽菜の顔を、俺はまともに見ることができなかった。

違う。手が滑ったんじゃない。 俺が、お前の心を、滑り落としたんだ。


「……俺が、新しいの、買ってくる」

「ううん、いい。もう、いらないから」


陽菜は、静かに首を横に振った。

その声には、感情というものが一切乗っていなかった。

まるで、能面のように表情を消した彼女が、床の汚れをティッシュで拭き取り始める。


「陽菜、俺がやる」

「大丈夫。自分でできるから」


俺が差し出した手を、陽菜は頑なに見ようとしない。

テキパキと後片付けを終えた彼女は、ゴミをゴミ箱に捨てると、何事もなかったかのように俺の方を振り返った。


「さ、帰ろっか。もう、夕方になっちゃうし」


その笑顔は、完璧だった。

いつも通りの、明るくて、元気な陽菜の笑顔。


でも、その瞳の奥が、ほんの少しだけ潤んで、揺れていることに、俺は気づいてしまった。

気づいて、しまったからこそ、何も言えなかった。

「ごめん」の一言が、喉に張り付いて出てこない。


今、謝ったところで、それは何の意味もなさない、ただの自己満足だ。

俺は、自分の犯した過ちの重さに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。





帰り道は、地獄だった。


いつもなら、今日の部活の話や、テレビの話、弟や妹の他愛ない話で、途切れることのない会話。

心地よかったはずの、隣を歩く沈黙。

そのすべてが、今は鉛のように重く、俺たちの間にのしかかっていた。


何か、言わなければ。

さっきのは、違うんだと。

あんなことを言ったのは、今の関係が壊れるのが怖かったからで、お前のことが嫌いなわけじゃ、決してないんだと。


言わなければ。

そう思うのに、口を開けば、ありきたりな言葉しか出てこない。


「……今日、買ったスパイク、次の練習で試してみようかな」

「……うん。そうだね」


「……陽菜は、グリップテープ、すぐ替えるのか?」

「……ううん。まだ、今の使えるから」


会話が、続かない。

投げたボールが、壁に当たって、力なく足元に転がってくるみたいだった。


陽菜は、ずっと俺の少し前を歩いていた。

その背中が、いつもよりずっと小さく、頼りなく見える。

話しかけても、彼女は一度も俺の方を振り返らなかった。


(……俺は、最低だ)


心の中で、何度、自分を罵っただろう。


陽菜を傷つけた。

あんなに悲しい顔をさせてしまった。


俺は、ただ自分の保身のために、一番大切な人間を、ためらいもなく切り捨てたのだ。


やがて、見慣れた家の前の道に着く。

いつもなら、「じゃあな」の一言で終わる、当たり前の別れ。

でも、今日は、その一言を言うことすら、ためらわれた。


「……じゃあ」


陽菜が、小さく呟いた。

そして、俺の方を振り返ることなく、自分の家の玄関へと向かっていく。

その背中に、俺は何も、声をかけることができなかった。


ガチャリ、とドアが開き、陽菜の小さな身体が家の中に吸い込まれていく。

バタン、とドアが閉まる音。 その音が、まるで、俺たちの関係の終わりを告げる合図のように、静かな住宅街に響き渡った。





自分の部屋に戻った俺は、買ってきたばかりのスパイクの箱を床に放り出し、ベッドに倒れ込んだ。

顔を枕に押し付ける。 じわり、と視界が滲んだ。


(なんで、あんなことを言ったんだ……)


後悔が、津波のように押し寄せてくる。


『こいつとは、ただの幼馴染で、家が隣なだけだって!』


自分の声が、頭の中で何度も再生される。


違う。 陽菜は、ただの幼馴染なんかじゃない。

家が隣なだけの、他人なんかじゃない。

俺にとって、誰よりも、何よりも、大切な……。


そこまで考えて、俺は息を呑んだ。

そうだ。 俺は、陽菜のことが、好きなんだ。

恋愛対象として、一人の女の子として、どうしようもなく、好きなんだ。


今朝、彼女の寝癖に触れたいと思ったのも、私服姿を可愛いと思ったのも、他の男に嫉妬したのも、全部、そのせいだったんだ。


気づいていた。本当は、ずっと前から。

でも、気づかないフリをしていた。


この気持ちを認めてしまったら、今の「当たり前」が、いつか壊れてしまうんじゃないかと、怖かったから。


皮肉なものだ。 関係を壊したくなくてついた嘘が、結果的に、一番深く、陽菜を傷つけてしまった。

俺は、自分の臆病さと、身勝手さに、吐き気すら覚えた。


床に転がった、スポーツ用品店の袋が目に入る。

陽菜はまだ今のが使えるのに、グリップテープを買ったと言っていた。


あいつは、どんな気持ちで、あれを買ったんだろう。

俺と一緒に買い物に来て、どんなことを、考えてくれていたんだろう。

俺は、あいつの気持ちを、何も考えずに踏みにじった。


「……陽菜」


枕に顔を埋めたまま、俺はか細い声で、彼女の名前を呼んだ。

返事があるはずもない。


俺は、ただただ、自分の愚かさを呪うことしかできなかった。





自分の部屋のドアを閉めた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。

背中をドアに預け、膝を抱える。


もう、限界だった。

必死に堪えていた涙が、堰を切ったように、次から次へと溢れ出してくる。


「……うっ……ひっく……」


声を出さないように、唇をきつく噛みしめる。

でも、嗚咽は止まらない。 カケルの声が、耳から離れない。


『こいつとは、ただの幼馴染で』

『家が隣なだけだって!』

『だから、勘違いすんな!』


わかってた。 彼が、私のことなんて、何とも思ってないことくらい。


でも、あんなにはっきりと、大きな声で、たくさんの人の前で、否定されるなんて。


まるで、私の存在そのものが、彼にとって「迷惑」だと言われたみたいだった。


心が、バラバラに砕け散ってしまいそうだった。


今日の朝、どんなにワクワクしていたことか。


彼と二人きりで出かけられる。

この日のために、新しく買ったスカートを履いて、髪も念入りにセットした。


彼が、少しでも私を「女の子」として見てくれたら、なんて。

そんな淡い期待は、粉々に打ち砕かれた。


私は、震える手で、買い物袋の中からグリップテープを取り出した。


たったこれだけ。

今日、彼と一緒にいた、唯一の証。

これをラケットに巻いて、また、彼のことを想いながら、練習するつもりだった。


でも、もう、そんな資格、私にあるのかな。


(……もう、やめようかな)


カケルを好きでいること。

毎朝、彼を起こしに行くこと。

彼の隣に、当たり前のようにいること。


全部、もう、やめてしまった方が、いいのかもしれない。

その方が、彼のためにも、そして、これ以上傷つきたくない、私の心のためにも。


私は、グリップテープを強く握りしめたまま、枕に顔をうずめて、声を殺して泣き続けた。


床に落ちたクレープみたいに、ぐちゃぐちゃになった私の初恋。

その甘い匂いと、悲しい味だけが、いつまでも、口の中に残っていた。






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