第8話 崩れたクレープ
ぐしゃり、と。
甘いクリームとイチゴが、フードコートの床に無残な染みを作っていた。
陽菜が落とした、たった一つのクレープ。
それが、今の俺たちの関係そのもののように見えた。
取り返しのつかないほど、ぐちゃぐちゃに壊れてしまった、何か。
「……ごめん。手、滑っちゃった」
力なく笑う陽菜の顔を、俺はまともに見ることができなかった。
違う。手が滑ったんじゃない。 俺が、お前の心を、滑り落としたんだ。
「……俺が、新しいの、買ってくる」
「ううん、いい。もう、いらないから」
陽菜は、静かに首を横に振った。
その声には、感情というものが一切乗っていなかった。
まるで、能面のように表情を消した彼女が、床の汚れをティッシュで拭き取り始める。
「陽菜、俺がやる」
「大丈夫。自分でできるから」
俺が差し出した手を、陽菜は頑なに見ようとしない。
テキパキと後片付けを終えた彼女は、ゴミをゴミ箱に捨てると、何事もなかったかのように俺の方を振り返った。
「さ、帰ろっか。もう、夕方になっちゃうし」
その笑顔は、完璧だった。
いつも通りの、明るくて、元気な陽菜の笑顔。
でも、その瞳の奥が、ほんの少しだけ潤んで、揺れていることに、俺は気づいてしまった。
気づいて、しまったからこそ、何も言えなかった。
「ごめん」の一言が、喉に張り付いて出てこない。
今、謝ったところで、それは何の意味もなさない、ただの自己満足だ。
俺は、自分の犯した過ちの重さに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
◇
帰り道は、地獄だった。
いつもなら、今日の部活の話や、テレビの話、弟や妹の他愛ない話で、途切れることのない会話。
心地よかったはずの、隣を歩く沈黙。
そのすべてが、今は鉛のように重く、俺たちの間にのしかかっていた。
何か、言わなければ。
さっきのは、違うんだと。
あんなことを言ったのは、今の関係が壊れるのが怖かったからで、お前のことが嫌いなわけじゃ、決してないんだと。
言わなければ。
そう思うのに、口を開けば、ありきたりな言葉しか出てこない。
「……今日、買ったスパイク、次の練習で試してみようかな」
「……うん。そうだね」
「……陽菜は、グリップテープ、すぐ替えるのか?」
「……ううん。まだ、今の使えるから」
会話が、続かない。
投げたボールが、壁に当たって、力なく足元に転がってくるみたいだった。
陽菜は、ずっと俺の少し前を歩いていた。
その背中が、いつもよりずっと小さく、頼りなく見える。
話しかけても、彼女は一度も俺の方を振り返らなかった。
(……俺は、最低だ)
心の中で、何度、自分を罵っただろう。
陽菜を傷つけた。
あんなに悲しい顔をさせてしまった。
俺は、ただ自分の保身のために、一番大切な人間を、ためらいもなく切り捨てたのだ。
やがて、見慣れた家の前の道に着く。
いつもなら、「じゃあな」の一言で終わる、当たり前の別れ。
でも、今日は、その一言を言うことすら、ためらわれた。
「……じゃあ」
陽菜が、小さく呟いた。
そして、俺の方を振り返ることなく、自分の家の玄関へと向かっていく。
その背中に、俺は何も、声をかけることができなかった。
ガチャリ、とドアが開き、陽菜の小さな身体が家の中に吸い込まれていく。
バタン、とドアが閉まる音。 その音が、まるで、俺たちの関係の終わりを告げる合図のように、静かな住宅街に響き渡った。
◇
自分の部屋に戻った俺は、買ってきたばかりのスパイクの箱を床に放り出し、ベッドに倒れ込んだ。
顔を枕に押し付ける。 じわり、と視界が滲んだ。
(なんで、あんなことを言ったんだ……)
後悔が、津波のように押し寄せてくる。
『こいつとは、ただの幼馴染で、家が隣なだけだって!』
自分の声が、頭の中で何度も再生される。
違う。 陽菜は、ただの幼馴染なんかじゃない。
家が隣なだけの、他人なんかじゃない。
俺にとって、誰よりも、何よりも、大切な……。
そこまで考えて、俺は息を呑んだ。
そうだ。 俺は、陽菜のことが、好きなんだ。
恋愛対象として、一人の女の子として、どうしようもなく、好きなんだ。
今朝、彼女の寝癖に触れたいと思ったのも、私服姿を可愛いと思ったのも、他の男に嫉妬したのも、全部、そのせいだったんだ。
気づいていた。本当は、ずっと前から。
でも、気づかないフリをしていた。
この気持ちを認めてしまったら、今の「当たり前」が、いつか壊れてしまうんじゃないかと、怖かったから。
皮肉なものだ。 関係を壊したくなくてついた嘘が、結果的に、一番深く、陽菜を傷つけてしまった。
俺は、自分の臆病さと、身勝手さに、吐き気すら覚えた。
床に転がった、スポーツ用品店の袋が目に入る。
陽菜はまだ今のが使えるのに、グリップテープを買ったと言っていた。
あいつは、どんな気持ちで、あれを買ったんだろう。
俺と一緒に買い物に来て、どんなことを、考えてくれていたんだろう。
俺は、あいつの気持ちを、何も考えずに踏みにじった。
「……陽菜」
枕に顔を埋めたまま、俺はか細い声で、彼女の名前を呼んだ。
返事があるはずもない。
俺は、ただただ、自分の愚かさを呪うことしかできなかった。
◇
自分の部屋のドアを閉めた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
背中をドアに預け、膝を抱える。
もう、限界だった。
必死に堪えていた涙が、堰を切ったように、次から次へと溢れ出してくる。
「……うっ……ひっく……」
声を出さないように、唇をきつく噛みしめる。
でも、嗚咽は止まらない。 カケルの声が、耳から離れない。
『こいつとは、ただの幼馴染で』
『家が隣なだけだって!』
『だから、勘違いすんな!』
わかってた。 彼が、私のことなんて、何とも思ってないことくらい。
でも、あんなにはっきりと、大きな声で、たくさんの人の前で、否定されるなんて。
まるで、私の存在そのものが、彼にとって「迷惑」だと言われたみたいだった。
心が、バラバラに砕け散ってしまいそうだった。
今日の朝、どんなにワクワクしていたことか。
彼と二人きりで出かけられる。
この日のために、新しく買ったスカートを履いて、髪も念入りにセットした。
彼が、少しでも私を「女の子」として見てくれたら、なんて。
そんな淡い期待は、粉々に打ち砕かれた。
私は、震える手で、買い物袋の中からグリップテープを取り出した。
たったこれだけ。
今日、彼と一緒にいた、唯一の証。
これをラケットに巻いて、また、彼のことを想いながら、練習するつもりだった。
でも、もう、そんな資格、私にあるのかな。
(……もう、やめようかな)
カケルを好きでいること。
毎朝、彼を起こしに行くこと。
彼の隣に、当たり前のようにいること。
全部、もう、やめてしまった方が、いいのかもしれない。
その方が、彼のためにも、そして、これ以上傷つきたくない、私の心のためにも。
私は、グリップテープを強く握りしめたまま、枕に顔をうずめて、声を殺して泣き続けた。
床に落ちたクレープみたいに、ぐちゃぐちゃになった私の初恋。
その甘い匂いと、悲しい味だけが、いつまでも、口の中に残っていた。