第79話 修学旅行最終日
修学旅行、最終日。
大阪のホテルをチェックアウトした俺たちは、電車に乗り込み、最後の目的地である神戸へと向かっていた。
三日間の、夢のような時間。
その濃密だった記憶が、車窓の景色と重なって、俺の頭の中をゆっくりと流れていく。
陽菜の舞妓姿。
鹿に襲われて、俺の腕の中に飛び込んできた小さな身体。
はんぶんこした、甘いチュロス。
観覧車の中で触れた、陽菜の頬の柔らかな感触。
そして、小野寺の涙と笑顔。
その、一つひとつが、キラキラとした、かけがえのない宝物になっていた。
俺は、隣の席に座る陽菜の横顔を盗み見た。
彼女は、窓の外を静かに眺めている。
その大きな瞳が、秋の柔らかな日差しを浴びて、キラキラと輝いていた。
綺麗だ。 心の底から、そう思った。
この四日間で、俺は、一体、何度この言葉を、心の中で呟いただろう。
「……陽菜」
俺が声をかけると、陽菜はゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳が、俺を見つめている。
「……帰りたく、ねぇな」
俺の口から、ぽつりとそんな本音が漏れた。
陽菜は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、次の瞬間、最高の笑顔でふわりと笑った。
「……うん。……私も」
その笑顔だけで、俺の心は満たされた。
もう言葉なんていらなかった。
◇
神戸は、俺たちが住む街とは全く違う、お洒落で異国情緒あふれる街だった。
俺たちの班が、最初に向かったのは北野異人館街。
坂道の両脇に、色とりどりの西洋風の建物が立ち並んでいる。
「うわー! すごい! 日本じゃないみたい!」
陽菜が、子供みたいに目を輝かせている。
俺たちは班のメンバーと、思い思いに散策を始めた。
健太と葵ちゃんは、二人で一つのソフトクリームを仲良く分け合っている。
舞と翔平くんは、どっちが変な顔で写真を撮れるかを競い合っていた。
蓮と美優さんは、少し離れた場所で、まるで昔からそこに住んでいる恋人同士のように、穏やかな時間を過ごしている。
そして、俺と陽菜は。
気付いたら、自然と手を繋いでいた。
もう、そのことに、何の照れも気まずさもなかった。
それが、俺たちの新しい当たり前になっていたからだ。
「ねぇ、カケル。あそこの風見鶏の館、入ってみない?」
「……おう」
俺たちは、二人で古い洋館の中へと入っていく。
ギシ、と音を立てる木の床。
壁に飾られたアンティークの家具。
窓から差し込む柔らかな光。
そのすべてが、まるで百年前にタイムスリップしたかのような不思議な感覚を、俺に与えた。
「……なんだか、いいね。こういうの」
「……だな」
俺たちは、誰もいない部屋の暖炉の前で立ち止まった。
繋いだままの俺の手の中で、陽菜の指がもぞりと動いた。
そして、彼女の細い人差し指が、俺の手のひらを、そっとなぞり始めた。
「……っ!」
俺は、息を呑んだ。
彼女は、俺の生命線や、感情線を、確かめるように、ゆっくりと何度もなぞっていく。
そのくすぐったくて、でも、どうしようもなくドキドキする感触に、俺の、全身のすべての感覚が手のひらに集中していくようだった。
俺は、陽菜の横顔を見つめた。
彼女は顔を真っ赤にして、俯きながら、ただ、俺たちの繋いだ手を見つめている。
心臓が穏やかに、でも、確かに、温かいリズムを刻んでいる。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
◇
カケルと手を繋いでいる。
それが、当たり前みたいに、自然なことになっている。
数日前まで、あんなに、ぎこちなかったのが嘘みたいだ。
その温もりが、私の心の奥まで、じんわりと温めてくれる。
もう離したくない。 ずっと、こうしていたい。
風見鶏の館の中は、静かで穏やかな時間が流れていた。
誰もいない、暖炉の前。
私は、勇気を出して、繋いだままの彼の手のひらを、そっと指でなぞってみた。
彼の大きくて、ゴツゴツした、手のひら。
筋トレでできた、硬いマメ。
その、一つひとつを確かめるように。
カケルの身体が、びくりと震えたのがわかった。
でも、彼は、私の手を振り払わなかった。
ただ黙って、私の好きにさせてくれている。
カケルの匂いがする。
カケルの体温が伝わってくる。
幸せで、胸がいっぱいだった。
この四日間で、私たちは本当に変わった。
もう、ただの幼馴染じゃない。
もっと特別で、かけがえのない存在に。
その確かな実感が、私の心を満たしていた。
◇
(……やれやれ。やっと、ここまで来たか)
俺は、少し離れた場所から、暖炉の前で寄り添う駆と陽菜ちゃんの姿を見ていた。
隣では、美優が静かに本を読んでいる。
「……いいのかよ、美優。せっかくの神戸だぜ? 本なんて読んでて」
「……別に。私は、この雰囲気が好きなだけ」
美優は、本から目を離さずにそう言った。 こいつらしい。
俺は、もう一度、駆たちの方に視線を戻した。
手を繋ぎ、見つめ合う二人。
そのあまりにも自然な光景。
まるで、何年も付き合っている恋人同士のようだ。
俺が、仕掛けた数々のお節介な作戦。
それも、もう必要ないのかもしれない。
あいつらは、自分たちの力で、ちゃんと答えを見つけ始めている。
少しだけ寂しいような、でも、それ以上に嬉しいような、複雑な気分だった。
◇
北野異人館街を満喫した後、俺たちは、港町、神戸ハーバーランドへと向かった。
目の前には、青い海と空が、どこまでも広がっている。
潮の香りが、心地よかった。
「うわー! 海だー!」
陽菜が、嬉しそうに叫んだ。
俺たちは、港に停泊している大きな船や、赤いポートタワーを眺めながら海沿いのウッドデッキを歩いた。
昼食は、お洒落なカフェで食べた。
窓際の席から、きらきらと輝く海面が見える。
最高のロケーションだった。
「……なあ、今回の修学旅行、何が一番楽しかった?」
蓮が、不意にそんなことを聞いてきた。
「えー、全部! 全部、楽しかったよ!」
舞が、元気よく、答える。
「俺は、嵐山で、葵を見つけられた瞬間の記憶が強すぎて。……マジで、生きた心地しなかったから」
「もー、健太ったら」
健太と葵ちゃんが、顔を見合わせて笑い合う。
「……俺は、舞が絶叫マシンで半泣きになってた顔だな」
「……ばか」
翔平くんと、舞も、幸せそうだ。
蓮と美優ちゃんは、何も言わずに、ただ微笑んでいる。
そして全員の視線が、俺と陽菜に集まった。
「……俺は……」
俺は、言葉に詰まった。
楽しかったことなんて、ありすぎる。
蓮の質問をきっかけに、この四日間の出来事が、洪水のように頭の中に押し寄せてきた。
舞妓姿で、はにかんでいた陽菜。
竹林の中で固く握りしめた、あいつの小さな手。
遊園地の喧騒の中、二人で一つのチュロスを分け合ったあの甘い時間。
そして、観覧車の中で、触れ合いそうになった唇...。
そのどれもが、俺にとって最高の宝物だ。
一番なんて、選べるわけがない。
俺が悩んでいると。
陽菜が、俺の言いたいことをすべて代弁するように言った。
「……私は、……みんなと一緒にいられた、この四日間、全部が宝物だよ」
その完璧な答えに、 俺たちは全員何も言えずにただ頷いた。
そうだ。 その一言に、すべてが詰まっている。
俺は、陽菜のその優しい横顔を見ながら、 こいつを好きになって本当によかったと心の底から思った。
◇
楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
気づけば、新神戸駅のホームに俺たちは立っていた。
これから俺たちは、新幹線に乗って、いつもの日常へと帰るのだ。
少しだけ寂しい。 でも、不思議と悲しくはなかった。
だって、この旅が終わっても、俺たちの関係は続いていく。
帰りの新幹線。 俺と陽菜は、また隣同士の席だった。
でももう、二人とも、初日のような照れはない。
「……なんか、あっという間だったね」
「……だな」
俺たちは、窓の外を、流れていく景色を見ながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
やがて陽菜が、こくりこくりと舟を漕ぎ始めた。
四日間の疲れが出たのだろう。
俺はそっと、自分の右肩を彼女の方へと傾けた。
陽菜の小さな頭が、俺の肩に乗っかる。
その重みと温もり。
行きとは違う。これは、俺が自ら求めた温もりだ。
俺は、陽菜の、その無防備な寝顔を見つめながら。
そっと、自分の頭を彼女の頭に寄りかかった。
シャンプーの甘い香りが、俺を包み込む。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
心は、驚くほど穏やかだった。
この旅で、俺は、たくさんのものを手に入れた。
俺たちの、特別な旅はこれで終わる。
陽菜への揺るぎない想い、そして、その想いをきちんと伝えようという、小さな、でも、確かな覚悟を、俺に残して。




