第78話 月の下の涙
夢みたいな一日だった。
遊園地での、カケルとの二人きりの時間。
それは、私が、ずっとずっと夢に見ていたデートそのものだった。
長い待ち時間も、彼が隣にいてくれるなら、少しも苦じゃなかった。
むしろ、二人きりで誰にも邪魔されずに話せる宝物みたいな時間だった。
「……陽菜。お前、あんま食わねぇだろ。一個買って、半分こすりゃよかったか」
文化祭の時、彼が言ってくれたあの言葉。
それを、今日は本当に実現してくれた。
一本の温かいチュロス。
両端から少しずつ近づいていく私たちの距離。
サクサクとした食感とシナモンの甘い香り。
そして、目の前にある彼の少しだけ照れたような、でも、どうしようもなく優しい顔。
あと、ほんの数センチで、唇が触れ合いそうになったあの瞬間。
恥ずかしくて、思わず顔を逸らしてしまったけど。
私の心臓は、嬉しさで張り裂けそうだった。
そして、一日の終わりに乗った観覧車。
ゴンドラが、ゆっくりと夜空へと昇っていく。
隣に座る彼の肩と、私の肩が、触れ合うか触れないかの絶妙な距離。
眼下に広がる、宝石を散りばめたような大阪の夜景。
その美しい光景の背景にして。
私は、隣にいる彼の横顔を見ていた。
――好き。
心の底から、そう思った。
昨日の夜、舞が、言ってくれた言葉が蘇る。
『あんたが、彼を変えたのよ』
『言いたいこと、もっと、言い合える関係になった方が絶対楽しいわよ』
二人の関係を進めたくて、ほんの少しだけ勇気を出してみた。
私は、彼の肩に自分の頭を乗せた。
彼は、私を拒絶しなかった。
それどころか、私の方を向いてくれた。
彼の手が、ゆっくりと伸びてきて。
私の頬にそっと触れて。
私の身体の、すべての力が抜けていくようだった。
そして、彼の顔が、ゆっくりと近づいてきた。
もうダメ。
許してしまう。
ううん、違う。 許したい。
彼の、すべてを受け入れたい。
私は、そっと目を閉じた。
あと数センチ。
唇と唇が触れ合いそうになった、その瞬間。
無慈悲な音が、私たちの魔法を解いてしまった。
◇
ホテルに戻った後も、私の心臓はずっと鳴り続けていた。
観覧車での、あの出来事。
あのまま、もし時間が続いていたら。
私たちはどうなっていたんだろう。
その、甘い余韻に浸っていた。
「……陽菜、あんた、さっきからずっと上の空よ。大丈夫?」
部屋のベッドの上で、舞が心配そうに私の顔を覗き込む。
「へっ!? あ、う、うん! 大丈夫、大丈夫!」
私は、慌てて首を横に振った。
「ふーん? ……まあ、あの観覧車の後じゃ、無理もないか。……で? キス、したの?」
「……っ! し、してないってば!」
舞のストレートな質問に、私の顔は、一瞬で沸騰した。
「……実は見えてたんだけどね。あと、もうちょっとだったのにね。……あの、桜井くんが、あそこまで大胆になるなんて。……あんた、本当に愛されてるわね」
「も、もう! 舞まで、からかうんだから!」
私は照れ隠しに、枕を舞に投げつけた。
舞は、それをひらりとかわして楽しそうに笑っている。
その、何気ないやり取りが嬉しくて幸せで。
私の心はピンク色の綿菓子みたいに、ふわふわと舞い上がっていた。
カケルが、私のことを好きでいてくれる。
私も、カケルのことが大好き。
もう何も怖くない。
そう、思っていた。
私が、廊下で、彼を見かけるまでは。
◇
舞との恋バナも一段落して、自販機に、飲み物を買いに行こうとしたときだった。
廊下の向こう側から、カケルが歩いてくるのが見えた。
私は思わず、物陰に隠れた。
声をかけたい。
でも、恥ずかしい。
そんな乙女心。
でも、彼の様子が少しだけおかしかった。
顔が青ざめていて、その表情は見たこともないくらい硬い。
まるで、これから戦場にでも向かうような。
そんな、悲壮な覚悟を宿していた。
胸がざわついた。
嫌な予感がした。
舞が、言っていた言葉が頭をよぎる。
『桜井くん、ああ見えて結構ファン多いんだから。陽菜も、のんびりしてると、取られちゃうかもよ?』
まさか。
そんなはず、ない。
でも、足が、勝手に動いていた。
確かめなければ。
自分の目で。
私は、こっそり彼の後を追った。
彼が向かった先は、ホテルの中庭だった。
物陰から息を殺して見つめる。
中庭のベンチに座る、楓ちゃん。
そして、その前に立つカケル。
二人の間に流れる、張り詰めた空気。
聞こえてくる、楓ちゃんの震える小さな声。
『――桜井くんのことが好きです』
その、一言を聞いた瞬間。
私の心臓が凍り付いた。
息が、できない。
わかっていた。 心のどこかで。
でも、こうしてはっきりと現実を突きつけられると。
私の心は、簡単に壊れてしまいそうだった。
カケルが、誰かにとられちゃうかもしれない?
醜くて、どす黒い感情が私の胸の中を渦巻く。
なんで。 どうして。
カケルは、私のものなのに。
そんな身勝手な叫びが、喉まで出かかった。
楓ちゃんの、真摯な告白が続く。
彼女が、どれだけカケルのことを好きだったか。
その一つひとつの言葉が、私の胸に突き刺さる。
そして、聞こえてきたカケルの声。
『――ありがとう。――――好きになってくれて』
その、あまりにも、優しい感謝の言葉に。
私の、心臓は抉られるようだった。
終わった。
終わってしまった。
カケルは優しい。
人の気持ちを考えて行動できる男の子だ。
きっと、彼女の気持ちを受け入れるんだ。
私の隣から、いなくなってしまうんだ。
その絶望に、目の前が真っ暗になった。
でも。 次の瞬間。
聞こえてきた、カケルの声に、 私の、醜い感情は、すべて吹き飛んだ。
『―――――大切にしたい人がいるんだ。――――すごく、大切に――――って、――――気づけた。――――ごめん、小野寺の――――応えられない』
私自身のバクバクと鳴り続く心臓の音のせいで、途切れ途切れにしか聞こえなかったけれど、それでもわかる、カケルの、誠実で優しくて、そして、不器用な拒絶の言葉。
涙が、溢れて、止まらなくなった。
大切にしたい人......。
はっきりとわからない。でも、きっと自分のことなのだと信じたい。
カケルが、告白を断ってくれた。ほっとした安堵の気持ちが心を揺さぶる。
でも、それと同時に。 楓ちゃんへの申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。
彼女の涙。
彼女の気高い笑顔。
そのすべてが、私の胸に突き刺さる。
私は、その場に、うずくまったまま声を殺して泣いた。
安堵の涙と、悲しい涙が、ごちゃ混ぜになって、頬を伝っていく。
夜空には、満月が綺麗に輝いていた。
その、月明かりの下で、 私は静かに思った。
楓ちゃんの、あの宝物みたいな気持ちを、絶対に無駄にしない。
私も、はっきりとしないといけない。
それが、彼女への、一番の誠意なのだから。




