第77話 最高の親友
ホテルの女子部屋。
私、中村沙織は、ベッドの縁に腰掛け、ただ静かにドアの方を見つめていた。
心臓がドキドキと落ち着かない。
数分前、この部屋を出て行った、親友の小さな背中。
『……行ってくるね』
そう言って彼女は、驚くほど穏やかな顔で部屋を出て行った。
でも、その握りしめられた拳が小さく震えているのを私は見逃さなかった。
私は、何も言えなかった。
ただ、「うん」と頷いて、その背中を見送ることしかできなかった。
これは、楓の戦いなのだから。
(……なんて、言ってられるわけないでしょ)
私は、楓が出て行ってから数十秒後、音を立てないように、そっと部屋を抜け出した。
親友が、たった一人で玉砕覚悟の戦いに向かっているのだ。
それを黙って部屋で待っているなんて、私にはできなかった。
ひんやりとした夜の廊下を早足で進む。
目指すは、中庭が見える渡り廊下の窓だ。
窓の外、月明かりに照らされた中庭には、すでに二つの人影があった。
桜井くんと楓。
私は、柱の陰に身を潜め、息を殺してその光景を見つめた。
楓が、何かを話している。
その声は、ここまで届かない。
でも、わかる。
彼女が、今、自分のすべての想いを彼にぶつけているのだと。
その小さな背中が、今まで見た中で一番大きく、そして力強く見えた。
やがて桜井くんが、深く深く頭を下げた。
そして、楓が泣きながら笑った。
ああ、終わったんだな、と。
私は、自分の頬を温かいものが伝っていくのを感じた。
楓が一度も振り返らずに、ホテルの建物へと戻っていく。
私は、彼女に見つからないように、慌てて自分の部屋へと駆け戻った。
そして何事もなかったかのようにベッドの縁に腰掛け、ただ静かにドアの方を見つめていた。
心臓の鼓動が激しく、落ち着かない。
親友が、帰ってくるのを待つ。
それは、今日、遊園地で乗ったどんなアトラクションよりも、ずっとずっと心臓に悪かった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
部屋のドアが静かに開いた。
楓だった。
彼女は、何も言わずに部屋に入ってくると、私の隣に、そっと座った。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
トイレで、一度、顔を洗ってきたのだろう。
それでも隠しきれないくらいに……。
でも、その表情は、不思議なくらい晴れやかだった。
「……おかえり」
「……うん。……ただいま」
私が、そう言うと、楓は、ふわりと力なく笑った。
そして、私の肩に頭を乗せてきた。
「……終わったよ、沙織」
その、小さな小さな一言に。
すべての想いが詰まっているのがわかった。
私は何も言わずに、楓の震える肩を優しく抱きしめた。
◇
沙織の腕の中は温かかった。
私は、その温もりにすべてを委ねるように、身体の力を抜いた。
涙が止まらない。 でもそれは、悲しいだけの涙じゃなかった。
中庭での出来事が蘇る。
桜井くんの、困ったようなでも優しい顔。
私の拙い告白を、最後まで真剣に聞いてくれた彼の真摯な瞳。
そして、彼が口にした言葉。
『……俺、大切にしたい人がいるんだ。ずっと変わらず近くにいてくれて、俺にとって、すごくすごく大切にしたい、たった一人の女の子なんだ。小野寺のおかげで、気づけた。……だからごめん、小野寺の気持ちには、応えられない』
その、とても誠実な拒絶の言葉。
痛かった。 胸が張り裂けそうなくらい痛かった。
でも、それ以上に。 嬉しかった。
彼が、私に嘘をつかなかったことが。
彼の口から、日高さんへの本物の想いを聞くことができたのが。
そして、私の、このどうしようもない恋が、彼の背中をほんの少しだけでも押すことができたのなら。 もうそれで十分だった。
「……カッコよかったよ、桜井くん」
私は、ぽつりとそう呟いた。
「……うん。……すごく、カッコよかった」
「……そっか」
沙織はそれ以上何も聞かずに、ただただ、私の頭を優しく撫でてくれた。
その優しさが嬉しくて。 私は、子供のように声を上げて泣いた。
私の、長くて短かった初恋が、今、終わった。
でも、後悔はない。
私は、ちゃんと戦った。
そして、綺麗に散ることができた。
それで、いいんだ。
「……沙織」
「ん?」
「……ありがとう。……ずっと、隣にいてくれて」
「……当たり前でしょ。……親友、なんだから」
沙織の声も少しだけ震えていた。
私は、顔を上げた。
そして、親友の涙で濡れた顔を見て、思わず吹き出してしまった。
「……なんで、沙織が泣いてんのよ」
「……うるさいわね。……楓が、あまりにもカッコよかったからよ」
私たちは、顔を見合わせて笑い合った。
涙で、ぐしゃぐしゃの顔のまま。
でも、それは今までで一番綺麗な笑顔だったと思う。
私の恋は終わった。
でも、私の高校生活はまだ終わらない。
この、最高の親友と共に、これからも、続いていく。




