第76話 小さな体の大きな勇気
『……今、少しだけ、いいかな。……ホテルの、中庭で、待ってる』
ホテルに戻ってきた俺、桜井駆に届いたのは、小野寺楓からのメッセージだった。
その、メッセージに、俺は、ハッとした。
――小野寺
そうだ、俺は、あいつに、まだ、何も伝えられていない。
合宿での、あの出来事への謝罪のこと。
そして、俺の本当の気持ち。
逃げてはいけない。
ちゃんと向き合わなければ。
俺は、静かに、部屋を抜け出した。
◇
中庭は、ひんやりとした夜の空気に包まれていた。
ベンチに、小野寺が一人座っている。
その、小さな後ろ姿はどこか儚げで、消えてしまいそうだった。
「……小野寺」
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
その顔は、覚悟を決めたような強張った顔をしていた。
「……来てくれて、ありがとう」
「……どうしたんだよ」
「……うん。……あのね」
小野寺は、一度、言葉を切った。
そして、深呼吸を一つして、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
しばらくの沈黙……。
小野寺の小さな身体が震えている。
唇が開いては閉じてを繰り返している。
小野寺の目を、しっかりと見る。
小野寺は覚悟を決めたように口を開いて、小さな声で、でも、はっきりと俺に向かって告げた。
「……私、桜井くんのことが好きです」
あまりにもストレートな告白だった。
俺は、言葉を失った。
わかっていた。
心のどこかで。
でもこうして、はっきりと言葉にされると。
その重みが、ずしりと俺の胸にのしかかってくる。
「……困らせたいわけじゃ、ないの。……桜井くんが、日高さんのことを好きなのは、わかってる。……見てれば、わかるもん。……二人が、お似合いなのも、ちゃんと、わかってる」
小野寺の瞳から、一筋涙がこぼれ落ちた。
でも、彼女は、それを拭おうともせず、話を続ける。
「でも、言わせてほしい。……私が、どれだけ、桜井くんのこと、好きだったか。……私が、好きになったのは、いつも、誰よりも、真面目に、練習に取り組んでる、桜井くんでした。……走るのが、得意じゃない私にとって、その姿は、すごく、眩しくて。……私も、頑張らなくちゃって、思えたの」
小野寺は、そこで、一度、言葉を区切った。
「合宿の朝、二人でストレッチした時、……事故だったけど、あなたの手に、触れられたとき。……夏の大会で、私の、ドリンクを、受け取ってくれたとき。……体育祭で、あなたが、私のことを見てくれたとき。……その、一つひとつが、私の、宝物なの。……この恋をして、私は、少しだけ強くなれた気がする。……だから、この気持ちを、伝えないまま終わるのが嫌だったの……」
その健気で強い言葉に、俺は、胸が締め付けられるようだった。
そうだ……。
小野寺は、怖いのに、傷つくとわかっているのに。
それでも、自分の気持ちから逃げなかった。
それに比べて、俺はどうだ。
「陽菜がいなくなるのが怖い」なんて言い訳をして、ずっと、本当の気持ちから、目を逸らしてきただけじゃないか。一番ヘタレなのは、俺だ……。
小野寺のこの勇気が、俺に、最後の覚悟を決めさせてくれた。
俺は、この真っ直ぐな想いに、誠実に応えなければならない。
嘘は、つけない。
「……小野寺」
俺は、彼女の名前を呼んだ。
「……ありがとう。……俺のこと、好きになってくれて」
「……うん」
「……俺、気づいてた。……お前が、いつも、俺のこと、見ててくれたこと。」
「……うん」
「……合宿のときも、大会のときも。……俺が、陽菜のことで、いっぱいいっぱいで、周りが見えてなかったときも、お前は、いつも、俺のこと気にかけてくれてた。……事故で、お前の胸を触っちまったときも……。俺、自分の、汚い気持ちで、頭がいっぱいで、お前のこと傷つけてたかもしれない。……本当に、ごめん」
俺が、そう言って頭を下げると、楓は、ぶんぶんと首を横に振った。
「……嬉しかったよ。……あなたが、私を、見てくれてるってわかったから」
「……ごめん」
俺の口から出たのは、その一言だけだった。
「……俺、大切にしたい人がいるんだ。ずっと変わらず近くにいてくれて、俺にとって、すごくすごく、大切にしたい、たった一人の女の子なんだ。小野寺のおかげで気づけた。……だからごめん。小野寺の気持ちには、応えられない……」
俺がそう言うと、小野寺は静かに頷いた。
そして、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま最高の笑顔で笑った。
「……うん。……知ってた。……ありがとう、桜井くん。……ちゃんと、振ってくれて」
小野寺はそう言って、立ち上がった。
「……これからも、同じ、陸上部の、仲間として、……よろしくね。……ライバル、だから」
「……おう。……俺も、負けねぇから」
俺たちは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
小野寺は、くるりと背中を向けた。
そして、一度も振り返ることなく、建物の中へと去っていった。
その、小さな後ろ姿が闇の中に消えていくのを、俺は、ただ見送ることしかできなかった。
ごめん。
そして、ありがとう。
俺は、心の中でそう呟いた。
小野寺の、あの涙と笑顔を。
俺は一生忘れないだろう。
そして、俺の心は決まった。 もう迷わない。




