第73話 眠れない二日目の夜
陽菜が、嵐のように走り去っていった後。
俺たちの部屋には、気まずい沈黙と、彼女が残していった甘いシャンプーの香りだけが、取り残されていた。
俺、桜井駆は、ベッドの縁に座ったまま動けなかった。
頭の中が真っ白で何も考えられない。
ただ、あの黒いレースと白い肌の、あまりにも鮮烈なコントラストが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「健太……今の、見たか?」
「……見るなって方が、無理だろ……」
健太は、呻くようにそう言った。
「……日高さん、……すげぇな。……いや、なんでもない」
健太は、慌てて言葉を濁す。
だが、俺にはわかった。
こいつも、俺と同じだったのだ。
陽菜のあの無防備な姿に、完全にノックアウトされてしまったのだ。
その事実に、俺の胸の奥でチリチリと小さな嫉妬の炎が燃え上がった。
陽菜も、あんな姿、俺以外の男に見せるなよ。
そんな、身勝手な独占欲が頭をもたげる。
「……寝るぞ」
俺は、それだけ言うと、自分のベッドに勢いよく倒れ込んだ。
そして、頭から布団を被る。 もう何も考えたくなかった。
◇
――眠れない。
目を閉じれば、あの光景が鮮明に蘇ってくる。
陽菜の潤んだ瞳。
少しだけ開かれた桜色の唇。
そして、部屋着の隙間から見えた、あの、黒いレースと白い肌。
そのたびに、俺の身体は、勝手に熱を帯びる。
(……あいつ、わざと、やったのか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
あの、身を乗り出すタイミング。
胸元が緩むのを、わかっていたかのようなあの仕草。
もしかしたら、全部計算だったのか?
俺を誘うため?
そう思った瞬間、俺の身体の奥底で、熱い何かが込み上げてくる。
(……くそっ)
身体の熱は、少しも冷めてくれない。
その熱に反するように、窓の外は、静かな大阪の夜景が広がっている。
陽菜は、もう眠っているのだろうか。
俺みたいに、さっきのことを思い出して、ドキドキしたりしていないだろうか。
……するわけ、ないか。
あいつは、いつも通り、ただ俺をからかっただけだ。
俺は、自嘲するように小さく笑った。
明日は大阪の巨大遊園地で自由行動になっている。
陽菜と二人きり。
俺は、果たして平常心でいられるのだろうか。
◇
舞は、遊び疲れたのか、すうすうと穏やかな寝息を立て始めた。
後に残されたのは、しんと静まり返った部屋と、目が、冴えきってしまった私だけだった。
(……どうしよう。眠れない)
カケルのことを考え出すと、ドキドキが止まらなくなってしまう。
彼の、あの熱っぽい視線が、私の身体に焼き付いて離れない。
恥ずかしかった。
でも、それ以上に嬉しかった。
彼が、私のことを見てくれた。
私の、心と身体は、そのことに正直に反応してしまっていた。
(……もう一回、カケルの顔、見たいな)
ふと、そんな衝動に駆られた。
今、彼は、どんな顔をして眠っているんだろう。
もしかしたら、私みたいに、眠れずに、さっきのことを思い出してくれていたりしないかな……。
ダメだ。 わかってる。
こんな時間に、男の子の部屋に行くなんて、はしたないし許されない。
でも。
どうしても、もう一度、彼の顔が見たかった。
――謝りたい。
さっきは、からかってごめんね、って。
――そして伝えたい。
明日、楽しみにしてるね、って。
私は、意を決して、そっとベッドを抜け出した。
◇
ホテルの廊下は、不気味なくらい静かだった。
非常灯の青白い光だけが、長い廊下をぼんやりと照らしている。
私は、抜き足差し足で、彼の部屋へと向かった。
心臓がバクバクと高鳴っている。
もし誰かに見つかったらどうしよう。
でも、もう後戻りはできなかった。
彼の部屋のドアの前。
私は、深呼吸を一つして、そっとドアノブに手をかけようとした。
その瞬間だった。
「……あら?」
すぐ近くで、穏やかな声がした。
私は、びくりとして凍りついた。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、見回りをしていたらしい、藤井先生だった。
「……日高さん? こんな時間に、どうしたのかしら」
先生の、その優しい声に、私の頭の中は真っ白になった。
終わった。
怒られる。
絶対に、怒られる。
私は、俯いたまま、何も言えなかった。
「……眠れないの?」
先生の、そのあまりにも優しい問いかけに。
私は驚いて、顔を上げた。
先生は、怒っていなかった。
ただ、すべてを理解しているというような慈しむような目で、ふわりと、私を、見つめていた。
「……はい。……その、……ちょっと、目が、冴えちゃって」
「ふふっ。そう。……楽しいことがあると、興奮して眠れなくなっちゃうことあるわよね。……先生も、昔は、そうだったわ」
「……先生……」
先生の、その温かい言葉に、言葉が自然と出てきた。
「……あの、先生。……私、……バカなこと、しちゃって……」
「……うん」
先生は何も言わずに、ただ静かに頷いてくれる。
その優しさに、私は、堰を切ったように話し始めていた。
「……カケルの顔が見たかったんです。……さっき、ちょっと、からかいすぎちゃったから謝りたくて。……それに明日楽しみだねって、伝えたくて。……でも、こんな時間に、男の子の部屋に行くなんて、ダメですよね。……わかってるのに、……気持ちが止まらなくて……」
私は、涙声でそう言った。
情けない。
カッコ悪い。
でも、これが、私の本当の気持ちだった。
先生は、そんな私の話を、最後まで黙って聞いてくれた。
そして、そっと私の肩に手を置いた。
「……そう。……桜井くんの顔が見たかったのね。……すごく素直で、素敵な気持ちだと思うわ」
「……え?」
「でもね、日高さん。……その素敵な気持ちも、時と場合によっては、相手を誤解させてしまうこともあるの。……特に、男の子は単純だから」
先生はそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「……だから、今はやめておきなさい。……その大切な気持ちは、もっと素敵な形で伝えるべきよ。……例えば、言葉でね」
「……言葉で?」
「ええ。……今は、便利なものがあるでしょう? ……あなたの素直な気持ちを、短い言葉に乗せて届けてあげたらどうかしら。……きっと、彼も喜ぶと思うわよ」
先生のその優しいアドバイスに、私は、ハッとした。
「……先生、……ありがとう、ございます」
「どういたしまして。……さあ、お部屋にお帰りなさい。……いい夢を見るのよ」
先生はそう言って、私の背中を、ぽんと優しく押してくれた。
私は、何度も何度も頭を下げて、自分の部屋へと戻った。
ベッドの中に潜り込む。
心臓は、まだドキドキしていた。
でも、それは、さっきまでの不安なドキドキとは違う。
温かくて、優しい、ドキドキだった。
私は、スマホを手に取ると、メッセージアプリを開いた。
そして、震える指で、短い、でも、たくさんの気持ちを込めた言葉をゆっくり打ち込んだ。
『さっきは、ごめんね。明日、すごく楽しみにしてる! おやすみ!』
送信ボタンを押す。
すぐに既読がついた。
それだけで、私の心は、温かいものでいっぱいになった。
◇
俺は、ベッドの上で悶々としながら、天井を睨みつけていた。
その時だった。
――ピコン。
枕元のスマホが、短く鳴った。
陽菜からだった。
俺は、飛び起きるようにして、そのメッセージを開いた。
『さっきは、ごめんね。明日、すごく楽しみにしてる! おやすみ!』
そのあまりにも素直で可愛らしい一文に、俺の心の中の、全てのぐちゃぐちゃした感情が、すうっと浄化されていくのがわかった。
あいつも、ちゃんと、俺と同じように、明日を楽しみにしてくれるんだ。
俺は、スマホを胸に抱きしめた。
そして、俺の口元が、だらしなく緩んでいたことに気付く。
俺は、返信を打つ。
『俺もだ。おやすみ』
その短い言葉に、俺のすべての気持ちを込めて。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
不思議と、もう、身体の熱は感じなかった。
ただ、陽菜のメッセージの温もりだけが、俺の心を、優しく包み込んでいた。
明日は、二人で自由行動。
最高の一日だったと思えるようにしたい。




