第70話 「好き」の色
旅館の女子部屋。
私、日高陽菜は、お風呂から上がり、少し火照った身体を柔らかい布団の上に投げ出した。
舞や葵ちゃんたちの楽しそうな笑い声が、BGMのように心地よく耳に響いていた。
私の心は、もう幸福感と、ほんの少しの切なさでいっぱいになっていた。
「……陽菜、あんた、さっきからずっとニヤニヤしてるわよ。気持ち悪い」
隣の布団に寝転がった舞が、呆れたように、私の顔を覗き込む。
「へっ!? そ、そんなことないし!」
「嘘おっしゃい。桜井くんと、手ぇ繋げたのが、そんなに嬉しかったわけ?」
「……っ!」
図星だった。
私は、何も言い返せず、顔を真っ赤にして、布団の中に顔を埋めた。
「はいはい。ほんと、ごちそうさまですー。……でも、よかったじゃない。一歩、前進、ってとこ?」
「……うん」
布団の中から、答える。
そうだ。 一歩、前進。
でも、その一歩が、私にとっては、とてつもなく大きくて重い一歩だった。
「……ねぇ、舞」
「ん?」
「……私、……最近、ちょっと変なのかも」
私が、ぽつりとそう呟くと、舞は、今までのおちゃらけた雰囲気を消して、真剣な顔で、私の布団の山を見つめた。
「……どうしたのよ、改まって」
「……うまく、言えないんだけど……。……カケルへの気持ちが、……なんだか、前と、違う気がして」
私は、ゆっくりと布団から顔を出した。
少し離れた場所では、葵ちゃんがもう寝る準備を始めている。
でも、その耳は、絶対にこっちの話を聞いているに違いない。
「前と違うって?」
「うん。……昔はね、もっと、単純だったんだと思う。カケルのことが好き、っていうのは、『もっと、こっちを向いてよ』っていう、子供みたいなワガママだった気がするの」
「まあ、あんたたち、一年生のときから、そんな感じだったわよね。あんたが一方的に桜井くんにちょっかい出して、彼が照れてるのを、あんたが楽しそうに見てるみたいな」
「うん……。心の中では、いつも、『この鈍感朴念仁!』って悪態ついてたけど。でも、それは、どこか楽しかったの。カケルをからかって真っ赤にさせて。その、反応を見ているだけで幸せだった」
「……でも、いつからかな。……変わっちゃったんだ、私の気持ち」
「変わった?」
「うん。……きっかけは、たくさんありすぎたんだけど……。例えば、二年生になって、春先に、ショッピングモールに行ったんだけど……あの時ね、クラスメイトのカップルに会ってからかわれたの。『付き合ってるの?』って。そしたら、カケルが、すごい勢いで否定して……。『ただの幼馴染だ』って。俺たち、そんな関係じゃないって……。」
舞は、何も言わずに、黙って、私の話を聞いてくれている。
「すっごくすっごく傷ついた。でも、その後、カケルが言ってくれたの。『陽菜が、俺の隣から、いなくなっちまうのが、怖かったんだ』って。……あの時の、カケルの顔が忘れられなくて……。私の『好き』が、ただのワガママじゃなくて、もっと、切ないものだって思ったの」
「……うん」
「夏に合宿とか陸上部の大会があったでしょ? そのときから陸上部の小野寺さんとカケルの距離がすごく近く感じるようになって。二人を見てると胸がチクチクってするようになったの。……あ、これ嫉妬なんだって後で気づいて」
「……うん」
「体育祭のときもね。騎馬戦のとき、カケル落ちちゃったでしょ? あのとき、ほんとに怖かった。心臓が止まるかとおもうくらい怖かった。カケルが倒れてて、最初、起き上がらなくて。もし、カケルがいなくなっちゃったらどうしよう…って」
「たしかに、あのときの陽菜、顔色が真っ青になってたね」
「うん……。あの時、ただ『好き』なだけじゃなくて、私、カケルのこと『大切な人なんだ』って、本気で思ったの」
そして。
マッサージをしてあげた、あの日。
彼の逞しい、男の子の身体に触れて。
私の身体の奥底で、今まで知らなかった、熱い何かが生まれた……。
「……それに、彼の身体に触れた時は……その……」
「……その?」
「……い、いやらしい意味で、ドキドキしちゃった……。なんていうか、男の子の身体なんだなって、意識しちゃって……」
私が、顔を真っ赤にしてそう言うと、舞は、「陽菜も、そんな風に思うことあるんだね」と、楽しそうに笑った。
「最後に、文化祭のあとの……。西園寺先輩に、襲われそうになって。もう、ダメだって思ったとき。扉をこじ開けて助けに来てくれた。……私の『好き』は、もうどうしようもないものに変わったの。もう、今は、一日中、ずっとカケルのことばかり考えてる……」
私はそこまで話して、一度、言葉を切った。
「……だからね、私、もう、前みたいにいられないの」
「……うん」
「昔は、素直に言いたいこと言えたのに。『バカ!』とか、『鈍感!』とか。……でも、今は、できない。……カケルにどう思われるか考えちゃう。……嫌われたら、どうしようって。……怖くて、何も言えなくなっちゃうんだ」
そう。 これが、今の私の悩みだった。
好きになればなるほど臆病になる。
失うのが怖くなる。
あの心地よかった、ゼロ距離が。
今は、少しだけ息苦しい。
「……バカね、陽菜は」
私の、長い長い告白を聞き終えた舞が、ぽつりと、そう呟いた。
その声は呆れているようで、でも、どこまでも優しかった。
「……え?」
「あんたは、考えすぎなのよ。……いい? 陽菜。あんたが、そんなふうに、気持ちが変わっていったように。桜井くんだって変わってるのよ。……ううん、あんた以上にね」
「……カケルが?」
「そうよ。昔の、あの女子アレルギーだった桜井くんが、陽菜と少しだけ離れて歩いていた桜井くんが、今、どうなってる? あんたの手を握って、顔を真っ赤にしてるじゃない。……あんたが、彼を変えたのよ」
舞の、その力強い言葉に。
私の目から、涙がこぼれそうになる。
「……でも、それって、……すごく素敵なことじゃないかな」
不意に、布団の中から声が聞こえた。
葵ちゃんだった。
彼女は、布団からひょっこりと顔を出すと、少しだけ、頬を赤らめながら言った。
「……お互いのことを、すごく、すごく、大切に想ってるから臆病になっちゃうんだよね。……私、なんだか、すごく羨ましいな」
その、葵ちゃんの純粋な言葉に、 私と舞は、顔を見合わせて、少しだけ笑ってしまった。
「……ほら、葵ちゃんも、こう言ってるわよ」
舞はそう言って、私の頭を優しく撫でてくれた。
その手のひらの温もりが。 私の、固まっていた心を、ゆっくりと溶かしていく。
「……だから、大丈夫。……あんたは、あんたのままで、いればいいの。……今までみたいに笑って、怒って、そして、たまにちょっとだけ大胆になって。……言いたいこと、もっと、言い合える関係になった方が、絶対楽しいわよ。……二人なら、きっと大丈夫だから」
「……うん。……うん……!」
私は、何度も頷いた。
そうだ。 舞の言う通りだ。
私は、考えすぎていたのかもしれない。
カケルも、きっと私と同じように戸惑って悩んでいるんだ。
だったら、私が、少しだけ勇気を出してあげなくちゃ。
昔みたいに、彼の固い心を、こじ開けてあげなくちゃ。
「……ありがとう、舞。葵ちゃんも。……私、ちょっとだけ、元気出たかも」
「どーいたしまして。……まあ、あんまり、じれったいことしてたら、私が、無理やりキスさせちゃうけどね」
「も、もう! 舞までからかうんだから!」
私たちは、顔を見合わせて笑い合った。
そうだ。 明日、奈良に着いたら。 もう少しだけ、素直になろう。
私の、本当の気持ちを、ほんの少しだけでも、彼に伝えてみよう。
私の修学旅行の最初の夜は、親友たちの、温かい優しさに満ち溢れていた。




