第69話 涙の作戦会議
旅館の、女子部屋。
夕食と入浴を終え、消灯時間までの自由時間。
部屋の中は、恋バナとお菓子の甘い匂いで満ち溢れていた。
日高陽菜さんや結城舞さん、星野葵ちゃんたちが、キャッキャと楽しそうに、今日の出来事を話している。
その輪の中心には、もちろん桜井くんと日高さんの甘酸っぱいエピソード。
私は、その会話に適当に相槌を打ちながらも、隣にいる親友のことが、心配で仕方なかった。
「……楓」
私が、声をかけると、小野寺楓は、力なく顔を上げた。
その顔は、真っ青で、笑顔なんてどこにもない。
当たり前だ。
今日のあの一日を、目の前で見せつけられて。 平気なわけがない。
清水寺へ向かう参道で、当たり前のように手を繋ぐ二人。
舞妓姿の日高さんに、見たこともないくらい優しい顔で、「綺麗だ」と言う桜井くん。
そして、固く固く繋がれた二つの手。
そこには、他の誰も入り込めない、絶対的な空気が流れていた。
「……ちょっと、外の空気、吸いに行かない?」
私がそう言うと、楓はこくりと小さく頷いた。
私たちは周りの子たちに気づかれないように、そっと部屋を抜け出した。
◇
旅館の小さな中庭。
月明かりが、静かに、苔むした庭石を照らしている。
ひんやりとした秋の夜の空気が心地よかった。
私たちは縁側に並んで腰を下ろした。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
ただ、遠くで聞こえる、鹿威しの、コーンという、澄んだ音だけが響いている。
やがて、楓がぽつりと呟いた。
「……私、……やっぱり、ダメみたい」
その声は、震えていた。
「……わかってたはずなのにね。……二人がお似合いなのも。……桜井くんが、日高さんのこと、大好きなのも。……でも、どこかで期待してたのかも。……私にも、チャンスがあるんじゃないかって」
楓の大きな瞳から、堪えていた涙が、一筋こぼれ落ちた。
「……文化祭のとき、嬉しかったの。……カフェで二人がすごくいい雰囲気で。……それを見て、一度は諦めようって思った。……でも、やっぱり諦めきれなくて。……だから、今日の修学旅行、すごく楽しみにしてた。……少しでも、桜井くんと話せたらいいなって。……でも、ダメだった。……二人の間に、私の入る隙間なんて一ミリもなかった」
楓はそう言って、自分の膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
その小さな肩が小刻みに震えている。 私は、何も言えなかった。
どんな慰めの言葉も、今の彼女には届かない。
ただ黙って、その背中を、優しくさすってやることしかできなかった。
「……もう、やめようかな。……諦めた方が、楽になれるよね。……こんな苦しいだけなら……」
そのあまりにも、弱々しい言葉に。
私の胸がきゅっと痛んだ。
私は、彼女の冷たくなった手を、そっと両手で包み込んだ。
「……そっか。……楓が、そう決めたなら、私は、何も言わないよ」
私のその静かな言葉に、楓がびくりとして顔を上げる。
「……え?」
「だって、楓の恋だもん。私が、どうこう言えることじゃない。……楓が、楽になりたいって言うなら、私は、それを応援するよ」
私がそう言って優しく微笑むと、楓の瞳が大きく揺れた。
「……でもね、楓」
私は、言葉を続ける。
「……私は、知ってるよ。……楓が、この恋をして、どれだけ変わったか。どれだけ強くなったか。……夏合宿の朝、勇気を出して彼に声をかけた。夏の大会で、日高さんの前で、堂々とドリンクを渡した。体育祭で、彼が落馬したとき一番に駆け寄った。……いつも私の後ろに隠れてた、あの、弱虫な楓は、もうどこにもいないんだよ」
「……沙織……」
「……その気持ちは、絶対に無駄なんかじゃない。……たとえ、叶わなかったとしても、あんただけの宝物なんだから。……だから、もし諦めるんだとしても、その宝物を、中途半半端な形で終わらせてほしくないなって、私は思うかな」
私はそこまで言って、一度言葉を切った。
そして、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
「……後悔、しない?」
「……」
「今、何も伝えないで、終わって。……本当に、後悔しない?」
私の、その問いに、楓は俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
でも、それは、さっきまでの弱々しい涙じゃなかった。
悔しくて、でも、前を向こうとする、強い、強い、涙だった。
◇
沙織の言葉が、私の、胸に突き刺さる。
そうだ。 私は、いつから、こんな弱虫になってしまったんだろう。
日高さんと桜井くんがお似合いなことなんて、最初からわかっていたことじゃないか。
それでも、私は彼を好きになった。
その気持ちに嘘はない。
沙織の言う通りだ。
この恋をして、私は確かに変われた。
前よりも、少しだけ強くなれた。
だったら、最後までちゃんと戦わなくちゃ。
たとえ、結果がわかっていたとしても。
「……ごめん、沙織。……私、……間違ってた」
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、親友の顔を見上げた。
「……私、……伝える。……ちゃんと、私の口から」
「……楓?」
「ただ、振ってもらうためじゃない。……私が、どれだけ桜井くんのこと好きだったか。……この、宝物みたいな気持ちを、ちゃんと彼に伝えたい。……それで、この恋をちゃんと終わらせたい。……ううん、終わらせて、次に進みたい」
それは、私の、精一杯の強がり。
でも、本心だった。
私が、そう言うと、沙織は、心の底から嬉しそうに、いつもの太陽みたいな笑顔で笑ってくれた。
「……うん。……それが、一番、楓らしいよ」
そして、私は、一番聞きたかった言葉を口にした。
「……ねぇ、沙織」
「ん?」
「……もし、……もし、ちゃんと伝えて振られちゃったら。……その時は、……慰めて、くれる?」
そのあまりにも情けない私の問いに。
沙織は、一瞬だけきょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間。 力いっぱい私を抱きしめてくれた。
「当たり前でしょ! ……楓が泣き止むまで、ずっと隣にいてあげる。……だから、安心して行ってきなさい!」
その、温かい腕の中で。
私は、もう一度だけ、声を上げて泣いた。
でも、もう怖くはなかった。
この、最高の親友がいてくれるなら。 私は、きっと大丈夫だ。
もう迷わない。
私の恋の、最後の花火。
どうせなら、一番、綺麗に咲かせてみせる。
中庭の澄んだ夜空には、 満月が煌々と輝いていた。
その光が、まるで、私の、涙で濡れた頬を、優しく照らしてくれているようだった。




