第68話 悪魔の所業
神崎の、悪魔のような囁きに。
俺たちの部屋の空気は、完全に支配されてしまった。
「覗き放題、らしいぜ?」
その下劣な言葉が、男子たちの本能を容赦なく刺激する。
「ま、マジかよ、神崎! それ、どこなんだよ!」
田中が、興奮した様子で身を乗り出した。
その目は好奇心で、ギラギラと輝いている。
「落ち着けって、田中。……まあ、場所は俺が知ってる。……で? どうするよ、お前ら。行くのか、行かねぇのか」
神崎は、わざとらしく、俺たちの顔を見渡した。
その視線が俺に突き刺さる。
試しているのだ。俺のことを。
「……お、俺は……」
健太が、口ごもる。
行きたい。
でも、行けない。
葵のことを、裏切るような真似はできない。
その葛藤が、彼の顔にありありと浮かんでいた。
だが周りの熱気は、そんな純情な悩みを許してはくれなかった。
「行くに決まってんだろ!」
「うおおおっ! 女湯! 聖地巡礼だ!」
田中と、他の男子たちが雄叫びを上げる。
こうなっては、もう誰も止められない。
俺は、唇を、強く、噛み締めた。
どうすればいい。
陽菜がいるのだ。
その壁の向こうには。
彼女の、生まれたままの無防備な姿が。
それを、こいつらの汚い視線に晒させるわけにはいかない。 絶対にだ。
「……駆は、どうすんだよ」
蓮が、静かに俺に尋ねた。
その目は、いつもの悪戯っぽい光はなく、ただ俺の答えを待っていた。
「……俺は、行かねぇ」
俺は、絞り出すようにそう言った。
その言葉に。 神崎が、ふん、と鼻で笑った。
「へぇ? 聖人君子ぶってんのか、桜井。……本当は、見てぇんだろ? 日高の、裸」
「……てめぇ」
「図星、か? まあ、いいぜ。お前が来ねぇんなら、俺たちだけで、たっぷり楽しませてもらうからよ。……日高の、あのデカい胸も、な」
そのあまりにも下劣な言葉に。
俺の頭の中で、何かがぷつりと切れた。
俺は無言で立ち上がった。
「……行くぞ」
「……は?」
「だから、行くって、言ってんだよ。……案内しろよ、神崎」
俺のその予想外の言葉に。 部屋にいる全員が固まった。
健太が、信じられないという顔で俺を見ている。
蓮だけが、面白そうに口の端を歪めていた。
俺は、ただ真っ直ぐに神崎を睨みつけた。
こいつらに陽菜の裸を覗かれるくらいなら。
俺は、悪魔にでもなってやる。
◇
俺たちは、泥棒のように、音を立てずに廊下を進んでいった。
目指すは一階の大浴場。
俺の心臓は、今までにないくらい、速く、大きく、脈打っていた。
罪悪感と使命感。
そして、心の一番奥底で鎌首をもたげる、醜い、好奇心。
その、三つの感情がごちゃ混ぜになって、俺の思考をぐちゃぐちゃにする。
(……俺は、最低だ)
陽菜を守るため。
そう、自分に言い聞かせている。
でも、本当は?
俺も、見たいんじゃないのか。 陽菜の、裸を。
その考えが、頭をよぎるたびに、自己嫌悪で吐き気がした。
やがて俺たちは、大浴場の男湯の裏手にある小さな坪庭にたどり着いた。
そこは、ほとんど人の来ない薄暗い場所だった。
神崎が指さした先。
男湯と、女湯を隔てる古い木の壁。
その一部に、小さな節穴のようなものが空いていた。
「……ここだ」
神崎が興奮したように、声を潜めて言った。
その穴からは、女湯の湯気が漏れ出てきている。
そして、微かに、女子たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
◇
「きゃー! 冷たい!」
舞が、私にかけたお湯が、背中にかかる。
私たちは、旅館の広い大浴場で、子供みたいにはしゃいでいた。
檜の良い匂い。
湯船から立ち上る、真っ白な湯気。
洗い場には、私たちと同じように、修学旅行を楽しんでいる他の女の子たちの楽しそうな笑い声が響き渡っている。
「陽菜、背中流してあげる!」
「うん、お願い!」
舞が、私の背中をごしごしと洗ってくれる。
そのくすぐったい感触に、私は、思わず笑ってしまった。
「それにしても、陽菜。あんた、桜井くんといい感じじゃん」
「へっ!?」
「バスの中でも、ずっと手、繋いでたでしょ。バレバレなんだから」
「だ、だって、あれは、はぐれないようにってカケルが……!」
「はいはい。ごちそうさまですー」
舞はニヤニヤしながら、私の背中を、さらに強くこすった。
その横で、葵ちゃんが羨ましそうに私たちを見ている。
「いいな陽菜ちゃん……。私も、健太とずっと手ぇ繋いでいたいな……」
「葵ちゃんから繋げばいいじゃん! 健太、絶対、喜ぶって!」
「で、でも、恥ずかしいよ……!」
葵ちゃんの、あまりにも純粋な反応に、私と舞は、顔を見合わせて、吹き出してしまった。
「陽菜も、舞ちゃんも、スタイルいいね。……私なんて、まだまだ子供みたい」
葵ちゃんが、少しだけ寂しそうに、自分の胸を見下ろした。
「何言ってんのよ、葵! あんたは、その、スラっとした感じが、魅力なんだって! 清楚で、守ってあげたくなる感じ!」
「そ、そうかな……?」
「そうだよ! ね、陽菜?」
「うん! 葵ちゃんは、すごく、綺麗だよ!」
私たちがそう言うと、葵ちゃんは嬉しそうにはにかんだ。
その時、舞が悪戯っぽい顔で言った。
「まあ、でも、陽菜のこれは、ちょっと反則級だけどねー」
そう言って、舞は、私の胸を、両手でむにゅっと優しく掴んだ。
「きゃっ!? も、もう、舞!」
「うわー、柔らかい! マシュマロみたい! ねぇ、葵も触ってみる?」
「え、えええ!? い、いいの!?」
「いいって、いいって! 減るもんじゃないし!」
葵ちゃんは、おそるおそる震える手で、私の胸にそっと触れた。
「……わぁ……。……ほんとだ。……すごい……」
葵ちゃんは、目をキラキラさせて感嘆の声を漏らしている。
私は、もう恥ずかしくてどうにかなりそうだった。
女の子だけの秘密の時間。
恋の話。
オシャレの話。
そして、少しだけ、身体の話。
その、すべてが楽しくて。
私は、心の底から笑っていた。
壁の、すぐ向こう側で。
大好きな彼が、女湯を覗こうとしているなんて、夢にも思わずに。
◇
陽菜の声が……聞こえる……。
この壁の向こう側に……生まれたままの姿の陽菜が……。
頭の中の映像には、もやがかかっている。
見てみたい。と、一瞬、思ってしまった。
「……この声、……やべぇ。マジじゃねぇか」
漏れ出る声を聞いた田中が、ゴクリと唾を呑む。
そして、神崎と、我先にと、その穴へと駆け寄ろうとした。
二人が、穴の前で、「俺が先だ」「いや俺だ」と、小声で醜い言い争いを始める。
そうだ、今しかない。
たとえ、これが悪魔の所業と言われても。
俺は、わざと足元にあった石に、つまずくフリをした。
「うわっ!」
小さな声を上げ、俺は、バランスを崩したフリをして、すぐ近くにあった木製の野立傘に、全体重をかけて倒れ込んだ。
――ガッシャーン!
俺の予想をはるかに超える轟音が、静かな夜に響き渡った。
「な、何やってんだよ、桜井!」
「てめぇ、わざとだろ!」
神崎と田中が、鬼のような形相で、俺を睨みつける。
俺は、地面に倒れ込んだまま、しらを切った。
その大きな音に反応するように、女湯の中から、悲鳴が上がった。
「きゃー! 何、今の音!?」
「誰か、いるの!?」
そして。
「こらー! お前ら、そこで、何してる!」
旅館の従業員らしき男の、怒鳴り声も聞こえた。
まずい。
「……逃げるぞ!」
神崎が、叫ぶ。
俺たちは、蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げ出した。
俺は走りながら、蓮の顔を見た。
あいつは俺に向かって、ニヤリとウインクをしてきた。
ちくしょう。
やっぱり、こいつは、全部わかってたのかよ。
◇
部屋に戻った俺たちは、息を切らしながら、布団の中に潜り込んだ。
心臓が、まだバクバクと鳴っている。
しばらくして、廊下を、先生たちの足音が通り過ぎていった。
危なかった。
本当に、危なかった。
「……くそっ! 桜井のせいで、台無しだ!」
神崎が、悔しそうに呟いた。
俺は、何も言い返せなかった。
ただ、耳に残って離れない、陽菜の楽しそうな笑い声を思い出していた。
見ていない。
俺は、あいつの裸を見ていない。
でも、その無防備な声を聞いてしまっただけで、俺の心は、罪悪感を感じていた。
やがて、女子たちが、風呂から戻ってきたらしい。
廊下を通る、陽菜たちの、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
陽菜は、何も知らない。
あの壁のすぐ向こう側で、俺たちがどんな馬鹿なことをしていたかなんて。
その、無邪気な笑い声が、今は、ひどく俺の胸に突き刺さった。
陽菜に、悪いことをしたような、後ろめたい気持ちでいっぱいになりながら、俺たちの修学旅行の最初の夜は、静かに更けていった。




