第67話 旅館の夜と男子の悪巧み
嵐山から京都市内の旅館へと戻るバスの中、俺の右手は、ずっと陽菜の左手と、固く、固く、繋がれたままだった。
もう離せなかった。
一度、その温もりを知ってしまったら、もう、元には戻れない。
陽菜も、同じ気持ちでいてくれているのが、握り返してくる、その小さな指先の力から伝わってくる。
俺たちは、何も話さなかった。
でも、その沈黙が、どんな言葉より雄弁に俺たちの気持ちを語っていた。
◇
旅館は、鴨川のほとりに佇む風情のある古い建物だった。
畳の匂い、木の廊下が軋む音、そして、中庭から聞こえてくる、鹿威しの心地よい響き。
そのすべてが、俺たちの高揚した心を、静かに落ち着かせてくれるようだった。
夕食は、大広間で学年全員で食べた。
豪華な、京料理。
だが、正直、味なんてほとんどわからなかった。
俺の意識は、すべて、斜め向かいの席で楽しそうに湯豆腐を頬張っている、陽菜の姿に奪われていたからだ。
時々目が合うと、二人して顔を真っ赤にして慌てて逸らす。その繰り返し。
周りの、健太や蓮たちが、ニヤニヤしながら俺たちのことを見ているのに気づいていた。
でも、もうどうでもよかった。
俺の世界には、今、陽菜しか映っていなかった。
夕食の後、俺たちはそれぞれの部屋へと戻った。
部屋割りは男子四人の部屋だった。
俺と、健太、蓮、そして、クラスのムードメーカーの、田中健吾。
そう、体育祭の時、陽菜と二人三脚を組もうとして蓮に阻止された、あの田中だ。
田中は、まだ陽菜のことを諦めていないらしく、時々、俺に、ライバル意識むき出しの視線を向けてくる。
「いやー、食った食った! 京料理、最高だったな!」
田中が、満足そうに腹をさすっている。
俺たちは、それぞれ布団の上に、大の字に寝転がった。
その時だった。 蓮が、悪魔のような笑みを浮かべた。
「……さて、と。腹も満たされたことだし、そろそろ始めようじゃねぇか。男だけの聖なる儀式をな」
蓮のその一言で。 部屋の空気が一気に熱を帯びた。
◇
「で、だ。今日の、MVPは、間違いなく健太、お前だ」
蓮が、俺の親友を指さした。
健太は、「え、俺?」と、きょとんとした顔をしている。
「当たり前だろ。あの葵ちゃんとの感動の再会シーン! 俺、マジで泣きそうになったぜ」
「や、やめろよ、蓮! からかうな!」
健太は、顔を真っ赤にして照れている。
だが、その顔は最高に幸せそうだった。
「いやー、でも、マジで良かったよな健太。……で? あの後どうなったんだよ。キスくらいは、したんだろ?」
蓮の、あまりにも直接的な質問に、健太は、さらに顔を赤くした。
「……す、するわけねぇだろ! あんな大勢の前で!」
「ちぇっ。ヘタレだなー」
「う、うるせぇ!」
そんな健太の初々しい反応を見て、俺は少しだけ心が和んだ。
だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
部屋の襖が、すっと開いたのだ。
「よぉ。面白そうなことしてんじゃねぇか。俺も、混ぜてくれよ」
そこに立っていたのは神崎たち数人の男子だった。
あいつらは、俺たちの部屋の隣の部屋らしい。
「……神崎。……ノックくらい、しろよ」
健太が、不機嫌そうに言った。
だが、神崎たちは気にも留めず、ずかずかと部屋に入ってくると、俺たちの輪の中にどかりと腰を下ろした。
「で? 何の話してたんだよ。……ああ、さては、女の話か?」
神崎はそう言って、下卑た笑みを浮かべた。
その目に、俺は強烈な嫌悪感を覚えた。
「なあ、桜井」
不意に、田中が俺に話を振ってきた。
「お前、日高さんと付き合ってんのか?」
「……は?」
「いや、だって、今日ずっと手繋いでたじゃん。あれは、どう見てもただの幼馴染じゃねぇだろ」
田中の探るような視線に俺は言葉に詰まる。
その気まずい沈黙を破ったのは神崎だった。
「付き合ってるわけねぇだろ。こいつは、ヘタレだからな。……なあ、桜井。お前が手ぇ出せねぇんなら、俺がもらってやってもいいんだぜ?」
「……てめぇ」
俺が、神崎を睨みつけると、あいつは楽しそうに笑った。
「日高の舞妓姿も悪くなかったがな。……まあ、あんなもん、ただのお人形遊びだ。俺が見たいのは、あいつの本当の裸だよ」
そのあまりにも下劣な言葉に。
俺の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
だが、俺が何かを言う前に、蓮が動いた。
「……へぇ。……でも、残念だったな、神崎。……お前みたいなガキの妄想じゃ、日高さんの裸なんて一生見れねぇよ」
「……は? 何言ってんだ、てめぇ」
「まあいいや。……それより、お前ら知ってるか? この旅館、女湯と男湯を仕切ってる壁、一部薄いらしいぜ?」
神崎が、今度はそんなことを言い出した。
その言葉に。
俺以外の、男子たちの目の色が変わった。
「「「マジで!?」」」
「ああ。去年来た先輩から聞いた。……覗き放題、らしいぜ?」
神崎の、その悪魔のような囁きに。
部屋の空気は完全に支配されてしまった。
田中がゴクリと唾を呑む。
「……日高さんの、裸……」
まずい。
このままでは、本当に、こいつらやりかねない。
俺は、どうすればいい。
焦りだけが、俺の心を支配していた。
◇
「きゃー! 陽菜、今の、可愛すぎ!」
「もう! 舞まで、からかうんだから!」
旅館の女子部屋。
私と、舞、葵ちゃん、そして、他の班の女子数人で枕を投げ合ってはしゃいでいた。
修学旅行の夜はやっぱりこうでなくちゃ。
「でも、本当にすごかったよね、健太くん! 葵のこと見つけた時のあの顔!」
「う、うん……。……私もびっくりした」
葵ちゃんは、顔を真っ赤にして俯いている。
でも、その顔は最高に幸せそうだった。
「いいなー、葵は。私も、翔ちゃんにあんなふうにされたいなー」
舞が、天井を仰ぎ見てうっとりとした顔で呟いた。
その恋する乙女の顔に、私たちは思わず吹き出してしまった。
ひとしきりはしゃぎ疲れた後。
私たちは、布団を並べて恋バナを始めた。
話題は、自然と今日のカケルのことになった。
「陽菜、桜井くんと、手繋いでたでしょ。見たよー」
「きゃー!」
舞の指摘に、私は布団の中に顔を埋めた。
恥ずかしい。
恥ずかしくて死にそうだ。
でも、それ以上に嬉しくてたまらない。
「どんな感じだった? 桜井くんの手」
「……お、大きくて……。……ゴツゴツしてて……。……でも、すごく温かかった……」
私が、か細い声でそう答えると。
周りの女子たちから「きゃー!」と、黄色い悲鳴が上がった。
「いいなー! 青春だねー!」
「なんで、まだ付き合ってないの?」
「陽菜から、もう、早く告白しちゃいなよ!」
「む、無理だよ!」
私が、ぶんぶんと首を横に振っていると。
ふと、葵ちゃんが不安そうな顔で呟いた。
「……でも、男の子って、……手ぇ繋いだら、その、……キ、キスとか、したくなっちゃうんじゃないかな……?」
その、あまりにも純粋な質問に。
部屋が、一瞬だけしんと静まり返った。
そして次の瞬間、舞が腹を抱えて笑い出した。
「あはははは! 葵、あんた、マジでウブすぎ! 可愛すぎる!」
「だ、だって……!」
「当たり前じゃん! 手ぇ繋いだら、キスしたくなるし! キスしたら、その先もしたくなるのが男の子なんだって!」
舞の、そのあまりにもストレートな言葉に。
私と葵ちゃんは、顔を真っ赤にして固まった。
その先。
合宿の夜、水野先輩が話していた、あの大人の世界。
カケルと私が。
そんなことになったら。
私は、どうなってしまうんだろう。
想像しただけで、頭が沸騰しそうだった。
「ね、ねぇ、舞ちゃん。その、『その先』って、どんなこと……?」
葵ちゃんが、純粋な好奇心に満ちた瞳で舞に尋ねた。
その、あまりにも無垢な質問に、今度は私が慌てふためく番だった。
「あ、葵ちゃん! そ、それは、まだ知らなくていいことだと……!」
「えー、なんで? 気になるよー」
舞は、そんな私たちを見て悪戯っぽく笑うと、葵ちゃんに手招きをした。
「こっちおいで、葵。……こっそり教えてあげる」
舞は、葵ちゃんの耳元に何かを囁いた。
葵ちゃんは、最初は、きょとんとした顔で聞いていたが、やがてその意味を理解したのだろう。
その顔が、みるみるうちにトマトみたいに真っ赤に染まっていく。
「……っ! ば、ばか! 舞ちゃんの、エッチ!」
葵ちゃんはそう叫ぶと、布団の中に勢いよく潜り込んでしまった。
そのあまりにも可愛い反応に、部屋中が笑いに包まれる。
「……まあ、でも、桜井くんは、誠実そうだから大丈夫だよ。……陽菜のこと、すごく大事にしてるのがわかるもん」
舞はそう言って、優しく微笑んでくれた。
その言葉に、私は、少しだけ救われた気がした。
そうだ。 カケルは大丈夫。
カケルは、絶対に私を傷つけるようなことはしない。
そう信じている。
「さーて! それじゃあ、そろそろ、お風呂行こっか! 汗かいちゃったし!」
舞のその一言で。
私たちは、浴衣とタオルを手に部屋を出た。
これから、男の子たちが、とんでもない悪巧みを企んでいることなど何も知らずに。
ただ、キラキラとした修学旅行の夜に、胸をときめかせながら。




