第66話 消えた葵、繋がれた手と手
清水寺周辺の散策を終えた俺たちは、バスと電車を乗り継ぎ、京都の西側に位置する観光地、嵐山へとやってきていた。
桂川にかかる、雄大な渡月橋。その向こうに広がる、錦のように色づいた山々。
清水寺とはまた違う、壮大で美しい自然の風景に、俺たちはただ息を呑んだ。
「うわー……! 綺麗……!」
陽菜が、感嘆の声を漏らす。その横顔は、紅葉に照らされてキラキラと輝いていた。
俺は、その姿から、目を離すことができなかった。
「よし! じゃあ、次は、あそこに行くぞ! 竹林の小径だ!」
蓮が、パンフレットを指さして言った。
俺たちは、蓮を先頭に、再び、人の波の中を歩き出す。
竹林の小径は、想像以上に、幻想的な場所だった。
高く、天に伸びる青々とした竹。その隙間から、木漏れ日がキラキラと降り注いでいる。 ひんやりとした澄んだ空気が心地よかった。
「すごいね……。なんだか、別の世界に来たみたい」
陽菜が、俺の隣でそう呟いた。
俺も、同じ気持ちだった。
だが、その幻想的な雰囲気とは裏腹に、小径は、観光客で、ごった返していた。
「はぐれんなよ、陽菜」
俺は、とっさに陽菜の手を掴んだ。
陽菜は、びくりと肩を震わせたが、すぐに嬉しそうにはにかんで、俺の手をぎゅっと握り返してくれた。
その温もりが嬉しくて。
俺は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
俺たちが、そんな、甘酸っぱい空気を醸し出していると、前の健太と葵ちゃんも、同じように手を繋いで、仲睦まじく歩いている。舞と翔平くんも、蓮も、それぞれ、楽しそうだ。
俺は、この時間が、永遠に続けばいいのに、と、本気で思った。
だが、そんな穏やかな時間は、突然、終わりを告げる。
「……あれ? 葵は?」
竹林の小径を、抜けきったところで。
健太が、ふと、そんなことを言った。
俺たちは、振り返る。
だが、そこに葵ちゃんの姿はなかった。
「……うそだろ」
健太の顔から、血の気が引いていくのがわかった。さっきまで、すぐ後ろにいたはずなのに。あの、人の波の中で、はぐれてしまったのか。
「葵! どこだー!」
健太が、叫ぶ。
だが、返事はない。
周りの、観光客たちが、何事かとこちらを見ているだけ。
「やばい……。どうしよう……。あいつ、人見知りするし、方向音痴なのに……!」
健太は、完全にパニックに陥っていた。
いつも陽気で、自信満々な健太のこんな姿を、俺は初めて見た。
「落ち着け、健太! みんなで、手分けして、探そう!」
蓮が、冷静に指示を出す。
「俺と翔平は、こっちの道を戻る! 駆と健太は、あっちの土産物屋の通りを! 陽菜ちゃんと舞は、ここにいて、もし、葵ちゃんが戻ってきたら、連絡してくれ!」
「「うん!」」
陽菜と舞が、頷く。
俺も、健太の肩を力強く叩いた。
「……大丈夫だ。絶対、見つかる」
「……おう」
健太はそう答えながらも、その顔は、絶望に染まっていた。
俺たちは、二手に分かれて走り出した。
さっきまでの楽しかった空気が、嘘のように冷たく、重い空気が、俺たちを支配していた。
◇
カケルが、私の手を握ってくれた。
人混みの中、「はぐれんなよ」って、ぶっきらぼうに、でも、すごく優しく。
その、大きな手のひらの感触に、私の心臓はもう限界だった。
嬉しい。
恥ずかしい。
でも、それ以上に、幸せだった。
繋いだ手から、彼の温もりが直に伝わってくる。もう、このまま、どこへでも行けてしまいそうだった。
そんな、夢見心地な気分は、健太くんの一言で、一瞬にして吹き飛んでしまった。
葵ちゃんが、いない。
さっきまで、すぐ後ろで、楽しそうに笑っていたはずの彼女が。
健太くんの、真っ青な顔。
蓮くんの、険しい表情。
楽しかった空気が、一瞬で、冷たいものに変わっていく。
私も、舞と二人で、その場に残り、葵ちゃんを探すことになった。
「大丈夫かな、葵ちゃん……」
「大丈夫だよ。きっと、すぐに見つかるって」
舞は、気丈にそう言ったけど、その顔は、明らかに心配そうだった。
私も、不安で、胸が張り裂けそうだった。
もし、葵ちゃんが、何か事件に巻き込まれていたら?
もし、このまま見つからなかったら?
あの文化祭の後の苦しい記憶が心を押し潰す。
悪い想像ばかりが、頭をよぎる。
そして、何より、健太くんのことが心配だった。
葵ちゃんのことが大好きな彼の、あの絶望した顔が、目に焼き付いて離れない。
私は、ただ、祈ることしかできなかった。
早く、葵ちゃんが見つかりますように、と。
◇
頭の中が、真っ白だった。
葵が、いない。
俺の、すぐ後ろにいたはずの、葵が。
なんで。 どうして。
なんで、俺は、もっとちゃんと見ててやらなかったんだ。
なんで、俺は、あいつの手を離してしまったんだ。
後悔と罪悪感が、津波のように押し寄せてくる。
「葵! どこにいるんだー!」
俺は、半狂乱で、葵の名前を叫びながら、人混みをかき分けていく。
その姿は、きっと周りからみると痛々しく感じられるほど、必死だった。
「くそっ! なんで俺は、あいつの手を離してしまったんだ……!」
俺は、自分を責めるように、そう呟いた。
隣で、駆が何も言わずに、一緒に探してくれている。その無言の優しさが、今は、少しだけ辛かった。
もし、これが駆と日高さんだったら?
あいつは絶対に、日高さんを見失ったりしない。
俺は、なんて、情けない彼氏なんだ。
俺たちは、土産物屋を一軒、一軒、見て回る。
でも、葵の姿は、どこにもない。
時間だけが、無情に過ぎていく。
空は、少しずつオレンジ色に染まり始めていた。
「……どうしよう、駆……。もう、集合時間に、なっちまう……」
俺の声は、涙で震えていた。
もう、ダメかもしれない。
そう、思った、その時だった。
駆のスマホが震えた。
蓮からだった。
『駆! 葵ちゃん、見つかった! 渡月橋の、たもとにいる!』
その、メッセージを見た瞬間。
俺は、駆の顔を見た。
そして二人で、全力で走り出した。
渡月橋へと向かって。
◇
怖かった。
ただ、ひたすらに怖かった。
健太と手を繋いで、竹林を歩いていた。
幸せだった。
でも、ふと目に留まった、可愛らしいかんざしのお店。
ほんの一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、その店に気を取られてしまった。
そして顔を上げた時には、もう、健太たちの姿は、どこにもなかった。
人の波に、飲み込まれてしまったのだ。
「……けん、た……?」
呼んでも、返事はない。
焦って、周りを見渡す。
でも、見慣れない顔、顔、顔。
知らない人ばかり。
心臓が、ドキドキと、速くなっていく。
どうしよう。 どこに行けばいいの?
私は、ただ、呆然と、その場に、立ち尽くすことしか、できなかった。
時間だけが、過ぎていく。
空が、少しずつ赤く染まっていく。
もう、泣きそうだった。
いや、もう泣いていた。
涙が、次から次へと溢れ出して止まらない。
健太。 会いたいよ。
そう、思った、その時だった。
「……葵!」
聞き慣れた声。
私が、世界で一番好きな、声。
顔を上げると、そこには、息を切らして、肩で息をしている健太が立っていた。
「……けん、た……?」
次の瞬間。
私は、力強い腕で、ぎゅっと抱きしめられていた。
「……よかった……! 本当に、よかった……!」
健太の声も、涙で震えている。
その温もりに、声に、匂いに。
私の、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……ごめん、なさい……。……私、……はぐれちゃって……。……怖くて……」
「俺の方こそ、ごめん! ちゃんと、見ててやれなくて、ごめん……! もう、絶対に、離さねぇから……!」
私たちは、周りの目も、気にせず。
ただ、お互いの温もりを確かめるように、強く、強く、抱きしめ合っていた。
その光景を、駆けつけてくれた駆くんたちが、静かに、見守ってくれていることに、私は、まだ気づいていなかった。
◇
帰り道。
俺たちは、無言で、駅へと向かっていた。
健太と葵ちゃんは、今度こそ絶対に離さない、とでも言うように、固く、固く、手を繋いでいる。
その、二人の後ろ姿を見ながら、俺は、隣を歩く陽菜の小さな手を見た。
その手を、握りたい。
そう思った。
でも、その一歩が、踏み出せない。
さっきの竹林では繋げていたのに。
何気なく手を繋ぐことができない。
俺には、まだ、健太のような、覚悟がないのかもしれない。
(……俺は、陽菜を、守れるだろうか)
体育倉庫の事件のとき、俺は、確かに、あいつを守った。
でも、それは、ただの怒りに任せた、暴力だったのかもしれない。
健太のように。
あんなふうに、優しく、力強く、陽菜を包み込んでやれるだろうか。
俺は、まだ弱い。
その事実を、改めて突きつけられた気がした。
俺が、そんなことを考えていると。
陽菜が、俺の服の裾を、きゅっと小さく掴んだ。
「……カケル」
「……ん?」
「……はぐれないように、……ちゃんと、見ててね」
陽菜は、そう言って、少しだけ潤んだ瞳で、俺を見上げた。
その、あまりにも健気な一言に、俺の心の中の、迷いが、すうっと消えていくのがわかった。
バカだな、俺は。
覚悟なんて、いらない。
ただ目の前の、こいつの、この手を離したくない。
その、気持ちだけで十分じゃないか。
俺は何も言わずに、陽菜の小さな手を、そっと取った。
そして、固く、固く、握りしめる。
陽菜は、驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに、ふわりと笑った。
その笑顔を見て、俺も、笑った。




