第64話 隣の体温
修学旅行当日。 まだ夜が明けきらない早朝六時。
俺、桜井駆は、自分の部屋の鏡の前で、人生で最も真剣な顔で、髪の毛と格闘していた。
航にもらったワックスを、恐る恐る手に取り、髪になじませてみる。だが、俺の不器用な手では、お洒落な髪型になるどころか、鳥の巣が悪化しただけだった。
「……くそっ、どうすんだよこれ」
俺が、半泣きで頭を抱えていると、階下から、母親の明るい声が聞こえてきた。
「カケル! 陽菜ちゃんのお母さんが、もうすぐ車出してくれるって! 準備できたのー?」
「……今行く!」
結局、俺は、ワックスを洗い流し、いつも通りの無造作な髪で、リビングへと降りた。
玄関のドアを開けると、隣の家の前に、見慣れたミニバンが停まっている。
運転席からは、陽菜のお母さんが、にこにこと手を振っていた。
「カケルくん、おはよう! さあ、乗って乗って!」
「……おはようございます。すみません、いつも」
「いいのよ、気にしないで! 陽菜も、もう乗ってるから」
俺が、後部座席のスライドドアを開けると、そこには、すでに陽菜が座っていた。
その姿を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
今日の陽菜は、少しだけ、いつもと雰囲気が違った。
髪は、いつものポニーテールだけど、サイドの髪を、少しだけ編み込んでいる。 服装も、白いニットにチェックのスカートという、いかにも女の子らしい可愛らしい格好。
その姿に、俺の心臓は、朝から、全力で鼓動していた。
「……おはよ、カケル」
「……おう」
俺が、陽菜の隣に乗り込むと、車は静かに走り出した。 車の中は、陽菜の甘い匂いで、満ちている。
「それにしてもカケルくん。この前の文化祭、本当に、本当に、ありがとうね」
運転しながら、おばさんが、バックミラー越しに俺に言った。
「え?」
「陽菜から全部聞いたわよ。あんな、怖い目、酷い目に遭ったとき、カケルくんが身体を張って守ってくれたって。……本当に、あなたが、陽菜の幼馴染でよかったわ。……あなたは、陽菜のヒーローね」
「……っ!」
その、あまりにもストレートな感謝と賞賛の言葉に、俺と陽菜は、同時に、顔を真っ赤にして俯いた。
「も、もう! お母さん! そんな、大げさだよ!」
「あら、本当のことじゃない。ねぇ、カケルくん?」
「……いえ、俺は、ただ……」
俺は、何も言い返せない。
ただ、恥ずかしさで死にそうだった。
おばさんは、そんな俺たちの様子を見て、穏やかな目をしていた。
◇
集合場所である駅のホームは、早朝にもかかわらず、人の波と、けたたましいアナウンスの音でごった返していた。
俺たちの学校の、二年生全員が、そこに集結しているのだ。その熱気は、すさまじかった。
「うおおおっ! 修学旅行だあああああっ!」
「京都で、八つ橋、食いまくるぞ!」
「USJ! フライングダイナソー、絶対乗る!」
あちこちで、そんな、興奮した声が、聞こえてくる。
俺、桜井駆は、その喧騒の中心で、自分の心臓が、周りの騒がしさに負けないくらい、速く、そして大きく脈打っているのを感じていた。
三泊四日。 陽菜と、ずっと一緒にいられる。
その事実は、俺の心を甘い期待で満たすと同時に、どうしようもないくらいの緊張感で縛り付けていた。
「よぉ、駆。顔、ガチガチだぞ。遠足前の小学生かよ」
隣で、健太が、俺の肩を、バンバンと叩いてくる。その後ろでは、葵ちゃんが、楽しそうにくすくすと笑っていた。
「……うるせぇ。別に、緊張なんかしてねぇよ」
「嘘つけ。お前の、その、ポーカーフェイスが崩れてるときは、だいたい、日高さんのこと考えてるときだって、俺は知ってんだからな」
「……」
図星だった。 俺は、何も言い返せない。
「あ、いた、カケルー!」
その声は、太陽みたいに明るくて。 俺のすべての不安を、一瞬で吹き飛ばしてくれた。
振り返ると、そこには、陽菜が舞と一緒に、こちらへ手を振りながら駆け寄ってくる姿があった。
「おはよ、カケル! 健太くんも!」
「おう、日高さん! 結城さんも! いやー二人とも、気合い入ってんなー。可愛いじゃん」
「でしょー? 陽菜なんて、昨日の夜、楽しみすぎて、全然眠れなかったんだから」
「も、もう! 舞まで、からかうんだから!」
舞の暴露に、陽菜は、顔を真っ赤にして、彼女の脇腹をぽかぽかと叩いている。
その、じゃれ合う二人の姿が眩しくて、 俺は、目を細めた。
よかった。 陽菜は、楽しそうだ。 それだけで、俺の心も、温かいもので満たされていく。
やがて新幹線のドアが開き、俺たちは荷物を持って順番に乗車した。
俺たちの席は、もちろん、同じ車両だ。
蓮と舞が、事前に、クラスの奴らと根回しをして、俺たちの班が固まって座れるように手配してくれていた。
俺は、自分の指定された席へと向かう。 通路側の席だった。
隣は、誰だろうか。
そう思って、配られた座席表を見た、その瞬間。
(……は?)
そこに書かれていたのは「日高陽菜」の、四文字。
俺が、呆然としていると。
後ろから、蓮が、俺の肩をポンと叩いた。
「よぉ、駆。ラッキーだったな、陽菜ちゃんと隣で。……まあ、俺が、ちょっとだけ魔法を使ってやったんだけどな」
蓮はそう言って、悪戯っぽくウインクをした。
その隣では、舞が同じようにニヤリと笑っている。
ちくしょう。 またこいつらの仕業か。
「……か、カケル? と、隣だね……」
俺の後ろで、陽菜が戸惑ったような、声を上げた。
俺は、ロボットのような、ぎこちない動きで振り返る。
そこには、俺と同じくらい顔を真っ赤にした、陽菜が立っていた。
◇
(……うそ、うそ、うそ……! なんで!?)
私の頭の中は、またパニックになっていた。
カケルと隣の席? 三時間以上も二人きり?
そんなの聞いてない! 舞と、隣同士って聞いていたのに!
ちらりと、舞の方を見ると、彼女は、通路を挟んだ向こうの席で、彼氏の翔平くんと、楽しそうに笑いながら、私に小さくウインクを飛ばしてきた。 あの、嘘つきぃ……!
「……あ、あの、カケル。……よろしく、ね」
「……お、おう」
私たちは、今更ながら、なぜかぎこちない挨拶を交わし席に着いた。
私が窓側。 カケルが通路側。
肩と肩が、触れ合いそうな近い距離。
彼の体温が、じかに伝わってくるようで、心臓がドキドキしている。
何を、話そう?
どんな顔をしたらいい?
私の頭の中は、真っ白だった。
ずっと一緒にいた幼馴染なのに。ずっと軽口を言い合ってきたカケルなのに。
あの文化祭のあと、カケルが泣きながら私を抱きしめてくれたあの日から、カケルのことを見るだけでドキドキが止まらない。
もう私の頭はどうかしてしまっている。私の顔、真っ赤になっていないかな......。
やがて、新幹線は、滑るように、ホームを離れた。窓の外の景色が、ゆっくりと後ろへと流れていく。
私たちの、特別な旅が、今、始まった。
◇
新幹線の中は、生徒たちの、高揚感で、満ち溢れていた。あちこちで、トランプが始まり、お菓子の袋を開ける音がして、楽しそうな笑い声が、響き渡る。
だが、俺たちの席だけは、まるで図書室の、あの長机のように、甘くて苦しい沈黙に包まれていた。
気まずい、というのとは、違う。
ただ、お互いの存在を意識しすぎて、どうしていいかわからないのだ。
陽菜の白いニットから、ふわりと香る甘い匂い。
時々、俺の腕にそっと触れる彼女の柔らかな肩。
その、一つひとつが、俺の全神経を支配する。
俺は、ひたすら膝の上のしおりを、熱心に読んでいるフリをした。
その、ぎこちない空気を破ったのは、陽菜だった。
「……あの、カケル」
「……な、なんだよ」
「……お菓子、食べる?」
陽菜はそう言って、小さな可愛らしい袋を、俺の前に差し出してきた。
中には、手作りのクッキーが入っている。 文化祭のあのときのクッキーだ。
「……いいのか?」
「うん。……また、焼いてきちゃった」
陽菜は、恥ずかしそうにはにかんだ。
俺は、そのクッキーを、一枚もらう。
口に入れると、甘いバターの香りが広がった。
美味い。 心の底から、そう思った。
「……うまい」
「……ほんと? よかった」
その、短い会話を、きっかけに。
俺たちの間の不思議な緊張は、少しだけ溶け始めた。
京都でどこを回るか。
奈良の鹿は、本当に、お辞儀をするのか。
大阪では、絶対にたこ焼きを食べよう。
そんな、他愛ない話をしているうちに、いつの間にか、俺たちの間には、いつもの心地よい空気が戻ってきていた。
どれくらい、時間が経っただろうか。
俺は、ふと、隣の気配が静かになったことに気づいた。
そっと、横を見ると、 陽菜が、窓に頭を預け、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
昨日の夜、楽しみで眠れなかった、と言っていたのは本当だったらしい。
その、無防備な寝顔が可愛くて。 俺は、思わず見惚れてしまった。
長いまつ毛。
少しだけ、開かれた桜色の唇。
いつもの可愛い陽菜。そのすべてが、愛おしくてたまらない。
と、その時だった。
新幹線が、停車駅に止まるために減速をはじめた。
車体が、少し揺れる。
その振動で、 窓に預けられていた、陽菜の頭が、こてん、と、 俺の右肩に寄りかかってきた。
「……っ!」
俺は、息を止めた。
身体が、石のように硬直する。
温かい。
柔らかい。
陽菜の、頭の重みと、体温が、俺の肩にずしりとのしかかっている。
髪の毛から、陽菜の甘い香りが、ダイレクトに届く。
もう、ダメだった。
俺の心臓は、今にも爆発しそうなくらい、激しく大きく脈打っている。
動けない。
少しでも動いたら、この奇跡のような時間が終わってしまう。
でも、このままじゃ、俺の心臓がもたない。
パニックと幸福感。
その、二つの相反する感情が、俺の頭の中をぐちゃぐちゃにする。
◇
「……おい、美優。見ろよ、あれ」
俺、橘蓮は、前の席に座る、俺の彼女、篠崎美優の肩を軽く叩いた。
「……なに?」
美優は、読んでいた文庫本からゆっくりと顔を上げる。
その、クールな瞳が、俺の視線の先を追った。
そして、小さく、ふっと息を漏らすように笑った。
「……桜井くん、固まってる。面白い」
「だろ? あいつ、ああ見えて、ああいうのに一番弱いんだよな」
俺は、スマホを取り出すと、音が出ないように慎重にカメラを起動した。
そして、石像と化した親友と、その肩で、幸せそうに眠る天使の寝顔を、一枚写真に収めた。 我ながら、完璧な一枚だ。
俺は、その写真を、俺たちの班の、駆と陽菜を除いた、グループチャットに送信した。
『第一関門、突破。作戦は、順調なり』
すぐに、健太と舞から、『グッジョブ!』というスタンプが返ってきた。
俺は、スマホをポケットにしまい、再び、前の席の美優に向き直った。
「……で? 俺たちは、どうする?」
「……どうする、とは?」
「いや、だからさ。せっかくの、修学旅行なんだし。俺たちも、あんなふうに、イチャイチャ、しちゃう?」
俺が、そう言ってニヤリと笑うと。
美優は、心底、面倒くさそうな顔でため息をついた。
「……本、読んでていい?」
「……はい……」
俺は、すごすごと引き下がるしかなかった。
◇
やがて、車内にアナウンスが響き渡る。
『まもなく、京都に到着します』
その、無慈悲な声に、俺はハッとした。
もう、着いてしまう。
この、魔法の時間が終わってしまう。
俺は、名残惜しい気持ちを、必死に抑え込んだ。
「……陽菜。……おい、陽菜。着くぞ」
俺は、おそるおそる、彼女の肩を優しく揺さぶった。
「……ん……」
陽菜が、小さく呻いた。
そして、ゆっくりと目を開ける。
自分が、俺の肩で、眠っていたことに気づいたのだろう。
その顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「ご、ご、ご、ごめん! 私、いつの間に……!」
「……い、いや。……別に」
陽菜は、慌てて、俺から身体を離した。
その、あまりにも可愛い反応に、俺は、顔がだらしなく緩みそうなのを、必死で堪えた。




