第63話 修学旅行のしおり
十一月に入り、校舎を吹き抜ける風は、すっかり秋の色をしていた。
体育倉庫での、あの事件から、一ヶ月。 西園寺が退学し、学校には、穏やかな日常が戻ってきていた。
俺と陽菜の関係も、あの日を境に大きく、そして確かに変わった。
まだ、「好きだ」という決定的な一言は言えていない。
でも、俺の心は決まっていた。
陽菜の隣にいるのは、俺だ。
あいつの笑顔は、俺が守る。
そして、いつか必ず、この気持ちをちゃんと伝えるんだ。
その決意が、俺の中で静かに、でも、確かに燃えていた。
朝は、当たり前のように一緒に家を出る。
帰り道も、二人で。
あの体育倉庫の事件で失いかけた、ただ、それだけの、いつも通りの日常を送ることができるということが、今は何よりも大切だった。
そして今日、俺たちの穏やかな日常に、新たな、そして、最大の波が、押し寄せようとしていた。
「はーい、みんなー! 静かにー!」
ホームルームの時間。 教壇に立った藤井先生が、パン、と手を叩いた。
その手には、分厚い冊子が数冊握られている。
その、表紙に描かれた紅葉のイラストと、『修学旅行のしおり』という文字を見た瞬間、教室中が、地鳴りのような歓声に包まれた。
「うおおおおっ! 来たー!」
「修学旅行だあああああっ!」
「USJ! 絶対行く!」
「京都で着物レンタルしない?」
クラスメイトたちの興奮した声が、教室の空気を熱く震わせる。
俺、桜井駆も、その熱気に当てられて、心臓がドキドキと高鳴っているのを感じていた。
来週は、ついに修学旅行である。
「ご存知の通り、うちの学校は進学校なので、三年生になると受験勉強で大変です。だから、修学旅行は、この二年生の秋に実施します。来年のこの時期は忙しいので、思いっきり楽しめる最後のチャンスだと思ってください。そして、これも連絡済みですが、班別自主研修の班は、学年の先生方の承認があれば、クラスの垣根を越えて自由に組んで構いません。その代わり、自分たちで責任を持った行動を心がけること。いいわね?」
藤井先生の言葉に、教室のあちこちで、「よっしゃあ!」という歓声が上がる。
俺は、その言葉の意味を、すぐに理解した。
クラスが違う健太と葵ちゃんも、舞と相田も、同じ班になって一緒に回れるということだ。
「はいはい、静かに静かに。今から班長は前に取りに来てくださーい」
先生の言葉に、各班の班長が、一斉に教壇へと駆け寄っていく。
俺たちの班の、班長は蓮だった。
あいつは、ウインクしながら、俺にガッツポーズを見せてきやがった。
ちくしょう。 全部、こいつの筋書き通りだ。
班決めは、先週、行われた。
もちろん、俺と陽菜は、同じ班だ。
それだけじゃない。健太と葵ちゃん。 舞と、その彼氏の相田。 そして、そのすべてを裏で操っていたであろう、蓮。
見事に、いつものメンバーが集結していた。
「よぉ、駆。見ろよ、これ。やべぇぞ」
席に戻ってきた蓮が、俺の机の上に、しおりを、広げた。
カラフルな、イラストと、写真。
一日目、京都、班別自主研修。
二日目、奈良、班別自主研修。
三日目、大阪、テーマパーク、終日自由行動。
そして、最終日の四日目は、神戸で班別自主研修だ。
(……自由行動、ばっかじゃねぇか)
俺は、ごくりと、唾を呑んだ。
つまり、ほとんどの時間を、陽菜と一緒に過ごせるということだ。
それも、学校じゃない、遠く離れた知らない街で。
想像しただけで、心臓が爆発しそうだった。
「どうする? どこ、回る?」
「清水寺は、絶対行きたいよね!」
「嵐山の、竹林も、綺麗らしいぜ?」
教室のあちこちで、そんな楽しそうな声が聞こえてくる。俺たちの班も、自然と、集まっていた。
「なあ、駆。お前、地図とか、読むの、得意だろ? リーダー、頼むわ」
健太が、俺の背中をバンバン叩く。
「はぁ!? なんで、俺が……」
「いいじゃねぇか。で、陽菜ちゃんは、方向音痴だからな。駆が、ちゃんと、手ぇ繋いで、迷子になんないように、見といてやれよ」
「なっ……!?」
健太の、無茶で、そして的確すぎるパスに、俺は言葉を失った。
ちらりと、陽菜の方を見る。
彼女も、顔を真っ赤にして、俯いている。
「そーそー。陽菜は、すぐどっか行っちゃうからねー。カケルくん、よろしくね?」
舞までニヤニヤしながら、俺にウインクを飛ばしてくる。
こいつら、絶対にグルだ。
「……まあ、いいけどよ。……陽菜、それでいいのか?」
俺が、おそるおそる、尋ねると。
陽菜は、か細い声で、「……う、うん」と、小さく頷いた。
その、反応が、可愛すぎて。 俺は、もう、ダメだった。
◇
(……どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
家に帰ってきてからも、私の心臓は、ずっとドキドキしっぱなしだった。
修学旅行。
カケルと、一緒の班。
それだけで、もう、十分すぎるくらい、幸せなのに。
健太くんたちの計らいで、三日目のテーマパークでの自由行動の時間は、ほとんど、カケルと、二人きりで回ることになりそうだ。
――ピロン。
スマホが鳴った。舞からだ。
『陽菜、聞いた? 部屋割り、決まったって!』
『え、ほんと!?』
『うん! 私と陽菜、ずっと同じ部屋だよ! やったね!』
舞からの嬉しい報告に、私のテンションは、さらに上がっていく。
私はベッドの上に、大の字に寝転がった。
(……カケルと、旅行)
想像するだけで、顔が熱くなる。
修学旅行は私服だ。どんな服着ていこう。
雑誌を広げ、スマホで最新のファッションをチェックする。
カケルは、どんな服が好きなんだろう。
やっぱり、女の子らしいワンピースかな。
それとも、動きやすいパンツスタイル?
考え出すとキリがない。
どんな髪型にしよう。
舞と、夜、どんな恋バナをしよう。
そして。 もし、万が一。
京都の、綺麗な紅葉の下で。
カケルと、二人きりになったら。
何か、特別なことが、起こったりしないかな。
そんな淡い期待が、胸の中でふわりと膨らむ。
夏合宿の夜、水野先輩が言っていた言葉が蘇る。
『好きな人の味が、する感じ』
キス。
カケルとキス。
もし、そんなことになったら。
私は、どうなってしまうんだろう。
私は枕に顔を埋めて、ばたばたと、足をベッドの上で転がした。
もう、ダメだ。
眠れない。
修学旅行は、まだ一週間も先なのに。
私の心は、もう、古都の空へと、飛んでいってしまっていた。
◇
その頃、桜井家の二階。
俺は、自分の部屋のベッドの上で、陽菜と同じように天井を睨みつけていた。
眠れるわけがなかった。
手の中には、修学旅行のしおり。
その文字を、目で追うだけで、心臓がうるさくて仕方ない。
一日目、京都泊。
二日目と三日目は、大阪泊。
泊まり。
陽菜と同じ屋根の下で、夜を過ごす。
もちろん、部屋は別々だ。
わかってる。 わかってるけど、意識せずにはいられない。
夜、もし、廊下でばったり会ったりしたら?
風呂上がりの、浴衣姿のあいつと。
想像しただけで、身体中の血液が沸騰しそうだった。
「……兄貴、ニヤついてんぞ。キモい」
部屋のドアから、航がひょっこりと顔を出す。
「……ニヤついてねぇよ」
「嘘つけ。どうせ陽菜姉ちゃんとの、あんなことやこんなこと妄想してんだろ。……まあ、せいぜい頑張れや。……あ、そうだ。これやるよ」
航はそう言って、小さな袋を、俺のベッドの上に放り投げた。
中に入っていたのは、数種類のお洒落なワックスだった。
「……なんだよ、これ」
「兄貴、髪、いじるの下手くそだろ。……少しは練習しとけよ。……陽菜姉ちゃんのために、な」
航はそれだけ言うと、照れ隠しのように、ぱたんとドアを閉めてしまった。
俺は、手のひらの中のワックスを、じっと見つめた。
そして、小さく笑った。
本当に勝てる気がしない。 俺の、弟には。
俺は、ベッドから起き上がると、鏡の前に立った。
そして、おそるおそる、ワックスを手に取る。
不器用な手つきで、自分の髪をいじってみる。
なんだこれ。
ベタベタするだけじゃねぇか。
鏡の中の俺は、鳥の巣みたいになった頭で、途方に暮れていた。
少しだけ、いつもとは違う顔をしていた。
まだ、見慣れない、そわそわとした男の顔。
俺は、もう一度、しおりを開いた。
色づく古都の写真。
その隣に。 陽菜の笑顔が浮かんで見えた。
俺たちの特別な旅が、もうすぐ始まる。
その甘い予感が、俺の胸を満たしていた。




