第62話 大人への道は、まだ遠い
十月下旬になり、街路樹の葉が、赤や黄色に色づき始めた、ある土曜日の午後。
俺、桜井航は、駅前のカフェのテラス席で、目の前に座る少女――日高莉子に、呆れた視線を送っていた。
「……で? わざわざ呼び出して、何の用だよ」
俺がそう切り出すと、莉子は、まるで女王様のように、優雅に紅茶のカップを傾けながら、重々しく口を開いた。
「航くん。私たち、このままじゃダメだと思うの」
「はぁ?」
「あの、文化祭の日を思い出してみて。私たちが目の当たりにした、あの衝撃的な光景を!」
莉子の脳裏には、きっと、あのクリームソーダを二本のストローで飲むカップルや、頭をぽんぽんするカップルの姿が、鮮明に蘇っているのだろう。
正直、俺も、あれはかなりのカルチャーショックだった。
「あの二人を見て、私は気づいてしまったの。私たち、あまりにもお子様すぎるわ」
「……まあ、否定はしねぇけど」
「でしょ!? あのヘタレなお兄ちゃんたちを、ゴールインまで導くためには! 私たち自身が、もっと、恋愛の酸いも甘いも知る、大人になる必要があるのよ!」
莉子は、拳を握りしめて力説する。
その瞳は、また、少女漫画のヒロインのようにキラキラと輝いていた。
要するに、だ。
こいつは、文化祭で見た高校生カップルの、あの甘ったるい空気に当てられたのだ。
そして、自分もああいうのをやってみたい、と。
実に、わかりやすい。
「……で? 俺に、どうしろってんだよ」
「決まってるじゃない! 今日は、私たちも、大人なデートをするのよ!」
莉子はそう言って、ビシッと俺を指さした。
こうして、俺の平和な土曜日の午後は、莉子の壮大な「大人ごっこ」に付き合わされることが決定してしまったのだった。
◇
「いい、航くん? 大人のデートの基本は、まず、カフェでお茶をすることからよ」
「……ただの、ファミレスのドリンクバーじゃねぇか」
「雰囲気が大事なの! ほら、航くんもブラックコーヒーとか頼んでみたら?」
「苦いから嫌だ。俺は、メロンソーダ一択だ」
「もー、子供なんだから!」
お前にだけは言われたくない。
俺は、心の中で、そう悪態をついた。
「じゃあ、次のステップよ! 大人の会話!」
「……どんなだよ」
「そうね……。例えば、将来の夢とか語り合ってみるのはどうかしら」
莉子はそう言って、窓の外を物憂げな表情で見つめた。
完全にドラマのヒロインになりきっている。
「……俺の、将来の夢は、プロのゲーマーになって世界大会で優勝することだ」
「……もっと、こう、ロマンチックなのはないの!? 例えば、『君の笑顔を、一生、隣で見ていたい』とか!」
「誰にだよ」
「私に、よ!」
「なんでだよ」
「練習よ、練習! いい!? カケルお兄ちゃんは、こういうことが、致命的にできないんだから! 私たちが、お手本を見せてあげなきゃ!」
もう、めちゃくちゃだ。
俺は、頭が痛くなってきた。
「……わかった、わかったよ。……じゃあ、莉子。……君の笑顔は太陽みたいだな」
「……えへへ、そうでしょ?」
「……だから、あんまり見ると目が焼ける」
「ちょっと、どういう意味よ!」
莉子が、ぷんすかと頬を膨らませる。
こいつをからかうのは、昔から面白い。
「もういいわ! 次に行くわよ、次!」
◇
俺たちが次に向かったのは、駅前の雑貨屋だった。
店内には、可愛らしいアクセサリーやキャラクターグッズが、所狭しと並んでいる。
「いい? 航くん。大人のデートではね、彼氏が彼女に、サプライズでプレゼントを贈るものなのよ」
「……金、ねぇぞ」
「わかってるわよ! だから、今日はお互いに三百円以内で、相手が一番喜びそうなものを選んでプレゼントし合うの! どう? 素敵なアイデアでしょ?」
まあ、それなら悪くないか。
俺たちは、それぞれ店内へと散らばった。
莉子が喜びそうなもの。
あいつは、確かフワフワした可愛いものが好きだったはずだ。
俺は、ぬいぐるみのコーナーで、一匹のペンギンのマスコットを手に取った。
もちもちとしたペンギンの雛。
莉子の、膨れた時の顔に、少しだけ似ている。
俺は、それに決めた。
「……はい、これ」
店の外で俺が袋を差し出すと、莉子は嬉しそうにそれを受け取った。
「わー! ペンギン! 可愛い! ……なんで、私が、ペンギン好きだって知ってるの?」
「……別に。なんとなく、だ」
「ふーん? ……ありがと。大事にするね」
莉子はそう言って、心底嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺の心臓が、少しだけドキリと音を立てたのは、ここだけの秘密だ。
「はい、これは、私から!」
今度は、莉子が、俺に、袋を差し出してきた。
中に入っていたのは、小さなカエルの絵が書かれたシャープペンシルだった。
「……なんで、カエル?」
「だって、航くん、雨の日好きでしょ? カエルみたいに、嬉しそうにしてるから」
「……そうか?」
「そうだよ。……だからこれ、航くんにぴったりだなって」
莉子は、少しだけ恥ずかしそうにそう言った。
俺は、何も言い返せなかった。
ただ、手のひらの上の、それをじっと見つめていた。
悪くない。
むしろ、結構、気に入ってしまった。
◇
雑貨屋を出て、俺たちは、公園のベンチで休憩していた。
夕日が、空をオレンジ色に染めている。
「……ねぇ、航くん」
「……なんだよ」
「……私たちも、いつか高校生になったら。……あんなふうになれるのかな」
莉子が、ぽつりとそう呟いた。
その横顔は、いつもより、少しだけ大人びて見えた。
「……さあな」
俺は、ぶっきらぼうにそう答える。
でも、俺も同じことを考えていた。
数年後、俺たちはどうなっているんだろう。
兄貴と、陽菜姉ちゃんは、ちゃんと付き合っているだろうか。
そして、俺と莉子は。
俺たちは、その時も、こうして隣にいるんだろうか。
「……よし! 最後の、仕上げよ!」
莉子が、何かを決意したように立ち上がった。
そして、コンビニで一本のクリームソーダを買ってくると、俺の目の前にそれを置いた。
ストローが二本刺さっている。
「……まさか」
「そうよ! 私たちも、やるのよ! あれを!」
莉子の目は本気だった。
俺は、観念して頷いた。
もう、どうにでもなれ。
俺たちは、顔をゆっくりと近づけていく。
莉子の、大きな瞳が、すぐ目の前にある。
その瞳に、俺の間の抜けた顔が映っている。
甘い、メロンソーダの匂い。
そして、莉子のシャンプーの匂い。
俺の心臓が、今までにないくらい、速く大きく、脈打っている。
あと、数センチ。
唇が、ストローに触れる、その瞬間。
――ゴンッ!
鈍い、音。
俺と莉子の額が、勢いよく激突した。
「「いったあああああああっ!」」
俺たちは、同時に叫んだ。
クリームソーダが、派手な音を立てて、地面にこぼれ落ちる。
「……」
「……」
俺たちは、額を押さえたまま、無言で顔を見合わせた。
そして。
どちらからともなく、吹き出してしまった。
「「ふふっ……あはははは!」」
涙が出るほど笑った。
なんて、馬鹿なことをしているんだろう。
俺たちは、まだ高校生じゃない。
ただの、背伸びしたい中学生だ。
「……やっぱり、私たちには、まだ早かったみたいね」
「……だな」
莉子はそう言って、楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。




