第60話 噂の顛末と新しい朝
あの地獄のような事件から数日が経った。
学校は、何事もなかったかのように、いつも通りの日常が流れている。
だが、水面下では、大きな波紋が、静かに、でも確実に広がっていた。
西園寺巧と、あの日、外から閂をかけた彼の友人は、次の日から、学校に来なくなった。
そして三日後。
全校集会で、校長先生から、彼らが自主退学したことが、淡々と告げられた。
理由は「一身上の都合」。
もちろん、そんなわけがない。
教室では、様々な噂が飛び交っていた。
「西園寺先輩、やっぱ、なんかやらかしたらしいぜ」
「だよな。あいつ、昔から素行悪かったし」
「女子関係のトラブルだって聞いたぞ」
その噂は、真実であり、そして、真実ではない。
本当の、地獄のような真実を知っているのは、ごく一握りの人間だけだ。
事件の翌日。
俺は、藤井先生に職員室に呼ばれた。
そこには、俺と、陽菜、そして、健太と蓮、舞もいた。
「……まず、桜井くん。……よく、日高さんを守ってくれました。……あなたの勇気を、私は、誇りに思います」
藤井先生はそう言って、俺に深く頭を下げた。
「……ですが、あなたのしたことは、一歩間違えれば、あなた自身の未来を壊しかねない、危険な行為でした。……それだけは忘れないで」
「……はい」
俺は、唇を強く噛み締めた。
先生の言う通りだ。
俺は、我を忘れて暴力を振るった。
その事実は変わらない。
「……日高さん」
先生は、今度は、陽菜の方を向いた。
「……警察に、被害届を出すこともできます。……どうしたいか、あなたの気持ちを聞かせてくれるかしら」
その問いに。 陽菜は、一瞬だけ、俺の顔を見た。
そしてすぐに、決意を固めたように、真っ直ぐに、先生を見つめ返した。
「……出しません」
「……いいの?」
「はい。……これ以上、事を大きくしたくありません。……それに、私は、カケルに守ってもらったので。……もう大丈夫です」
その言葉に、 俺の胸はぎゅっと締め付けられた。
わかっている。
陽菜が、被害届を出さないのは、俺を守るためだ。
俺が、西園寺を殴ってしまったことを問題にさせないために。
こいつは、自分の心の傷よりも、俺のことを優先してくれている。
そのどうしようもない優しさが嬉しくて、そして、ひどく申し訳なかった。
「……そう。……あなたの、気持ちは、わかりました」
藤井先生は、静かに頷いた。
そして、俺たち全員の顔を見渡して言った。
「……この件は、学校側で厳重に対処します。……ですが、皆さんにお願いがあります。……どうか、この件の詳しい内容については、誰にも話さないでください」
先生のその真剣な眼差しに、俺たちは黙って頷いた。
「……噂は、時に、事実よりも鋭い刃物になります。……日高さんを、そして、桜井くんを、これ以上傷つけないために。……どうかお願いします」
先生はそう言って、もう一度、深く、深く、頭を下げた。
俺たちは、その先生の誠実な想いに、ただ、胸を打たれることしかできなかった。
◇
それから数日後。
学校は、また、別の噂で持ちきりになっていた。
西園寺が警察に捕まったらしい、と。
「マジかよ!」
「ああ。体育祭の日に、一年生の女子に無理やり……って話だ」 「うわ、最低だな、あいつ」
教室で、そんな会話を耳にした時。
俺は、心の中で、静かに拳を握りしめた。
体育祭のあの日。
多目的トイレから泣きながら出てきた、あの一年生の女の子。
彼女が、勇気を出してくれたのだ。
陽菜は何も言わなかった。
でも、きっと、彼女も同じ気持ちだったと思う。
事件の噂は、西園寺が、元々、素行の悪い不良生徒だったという形で、少しずつ収束していった。
陽菜が被害に遭いかけた、という、本当の真実は、誰にも知られることはなかった。
それは、藤井先生と、武田先生が、学校側と粘り強く交渉してくれたおかげだ。
そして、蓮と、健太と、舞が、藤井先生との約束を守り通してくれたからだ。
俺たちは、かけがえのない友人たちに守られていた。
◇
その日の帰り道。
俺は、陽菜と、二人で並んで歩いていた。
夕日が、俺たちの影を、長く、長く、アスファルトの上に伸ばしている。
「……ありがとう、カケル」
陽菜が、ぽつりとそう呟いた。
「……なにがだよ」
「……全部。……私のこと、守ってくれて。……私の気持ち、考えてくれて。……本当にありがとう」
陽菜はそう言って、心からの笑顔でふわりと笑った。
その笑顔を見て。
俺の心の中のすべての傷が、癒されていくようだった。
「……当たり前だろ」
俺は、照れ隠しにそう言って、そっぽを向いた。 そして、ずっと言えなかった言葉を、口にした。
「……俺は、陽菜の隣にいたい。……これからも、ずっと」
その不器用な、精一杯の言葉に。
陽菜は、驚いたように目を見開いた。 そして、次の瞬間。 その瞳から、大粒の涙が、ぽろりとこぼれ落ちた。
「……うん。……私も、カケルの隣がいい」
そう言って、彼女は、涙で、ぐしゃぐしゃの顔のまま、最高の笑顔で笑った。
俺は、その泣き顔と笑顔が混じった、どうしようもなく愛おしい顔を、ずっと、ずっと、見ていたいと思った。
俺は、そっと、彼女の小さな手に、自分の手を重ねた。
陽菜も同じくらいの力で握り返してくれた。 その温もりだけが、俺たちのすべてだった。
職員室の窓から、そんな俺たちの姿を、藤井先生が優しい目で見守っていることに。
俺たちは、まだ、気づいていなかった。
本日、夜にもう一話更新します。




