第6話 不器用な看病
最悪だ。
日曜日の朝、俺、桜井駆は、自分の部屋のベッドの上で天井を睨みつけながら、何度目かわからない悪態をついた。
昨日の高熱は、陽菜の献身的な看病のおかげで、なんとか微熱程度にまで下がっていた。身体の倦怠感もだいぶマシになり、今日一日安静にしていれば、明日からの学校には問題なく行けそうだ。
だが、問題はそこではなかった。
『カケル、大丈夫?』
『何かあったら、すぐに電話してね』
スマホのメッセージアプリには、陽菜からの心配するメッセージが何件も届いている。昨日の夜から、ずっとだ。
俺はそのメッセージを開くことすらできずにいた。 情けない。
ただひたすらに、自分が情けなかった。
好きな女子の前で、あんな無様な姿を晒してしまった。
それどころか、お粥を「あーん」までさせてしまったのだ。
思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
しかも、あいつは俺の看病をするために、自分の部活を休んだらしい。
後から健太に聞いた話だ。
俺のせいで、大会前の大事な時期に、陽菜に迷惑をかけてしまった。
自己嫌悪で、どうにかなりそうだった。
そんな風に俺がウジウジと悩んでいると、枕元のスマホがぶるぶると震えた。
画面には「日高陽菜」の三文字。電話だ。
(……どうする)
出るべきか、出ざるべきか。
悩んでいる間にも、スマホは執拗に震え続ける。
やがて、俺は観念して、通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
『あ、カケル! よかった、出た! 体調、どう?』
スピーカーの向こうから、陽菜の明るい声が聞こえてくる。
その声を聞いただけで、俺の心臓はまた、言うことを聞かなくなる。
「……あぁ。もう、熱は下がった。昨日は、その……悪かったな。部活、休ませちまって」
『ううん、そんなの全然気にしてないよ! それより、カケルが元気になったなら良かった』
本当に、こいつは……。
俺の罪悪感なんて、まるで気にも留めない様子で、カラリと笑う。
その優しさが、今は少しだけ、胸に痛かった。
『それでね、今、お昼ご飯持って行こうと思うんだけど、何か食べたいものとかある?』
「は!? いや、いい! 大丈夫だ! 俺、もう動けるし、自分でなんとかするから!」
俺は慌てて断った。これ以上、陽菜に迷惑をかけるわけにはいかない。
『えー、でも……』
「ほんとに大丈夫だから! それより、陽菜こそ、昨日休んだ分、自主練とかしなくていいのか?」
『う……。それは、そうだけど……』
「じゃあ、そうしろよ。俺のことは気にすんな」
俺が少しだけ強い口調で言うと、陽菜は電話の向こうで少しだけ黙り込み、やがて『……わかった』と小さく呟いた。
『じゃあ、何かあったら、絶対すぐに連絡してね? 絶対だよ?』
「……おう。わかってる」
念を押すように言う陽菜に、俺は頷く。
電話が切れると、俺は深いため息をついた。
これでいい。 俺は一人で大丈夫だ。そう、自分に言い聞かせた。
だが、その日の午後。 事態は、俺が全く予想していなかった方向へと転がっていく。
――ピーンポーン。
まただ。 昨日と同じ、間延びしたインターホンの音。
まさか、陽菜がまた来たのか? いや、でもあいつは部活に行ったはずだ。
俺が訝しんでいると、今度はスマホが震えた。
メッセージの送り主は、陽菜の妹の莉子ちゃんだった。
『カケルお兄ちゃん、いるー? お姉ちゃんが、熱出しちゃったんだけど』
そのメッセージを見た瞬間、俺の頭は真っ白になった。
◇
「ご、ごめんね、カケル……。うつっちゃったのかも……?」
陽菜の部屋のベッドの上で、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
顔は真っ赤で、瞳は熱のせいで潤んでいる。
俺は、言葉もなかった。 俺の風邪が、完全に陽菜にうつってしまったのだ。
莉子ちゃんからの連絡を受け、俺は慌ててスポーツドリンクとゼリー飲料を買い込み、隣の日高家へと駆けつけた。
おばさんは仕事で留守にしており、莉子ちゃんが一人で姉の看病をしていた。
「お兄ちゃんが来てくれて助かったよ。私、お粥とか作れないし」
「……いや。俺のせいだから」
俺は莉子ちゃんに頭を下げ、キッチンを借りることにした。
昨日、陽菜が俺にしてくれたように。 今度は、俺が陽菜の看病をする番だった。
(……どうやって作るんだ、お粥なんて)
料理経験など、ほとんどない。
家庭科の調理実習で、おぼつかない手つきで包丁を握ったことがあるくらいだ。
俺はスマホで「お粥 簡単 レシピ」と検索し、出てきたサイトの指示通りに、米を研ぎ、土鍋に入れる。
水の分量は、これで合っているのだろうか。
昨日、陽菜が作ってくれたお粥は、完璧な塩加減で、すごく美味かった。
あいつは、当たり前のようにこなしていたけど、いざ自分がやるとなると、その大変さが身に染みる。
コトコトと、不慣れな手つきで鍋をかき混ぜる。
昨日、陽菜はどんな気持ちで、これを作ってくれたんだろう。
俺のことを、心から心配してくれていたんだろうか。
それとも、ただの「幼馴染の義務」みたいなものだったんだろうか。
考えても、答えは出ない。
でも、もし、ほんの少しでも、俺と同じような気持ち……
いや、俺が今感じているような、このもどかしい気持ちを、彼女も感じてくれていたら。
「お兄ちゃん、大丈夫そ? なんか、すごい真剣な顔してるけど」
「うおっ!?」
背後からひょっこり顔を覗き込んできた莉子ちゃんに、俺は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
「り、莉子ちゃん。いつの間に……」
「さっきからずっと見てたよ。お粥作るだけで、そんなに難しい顔する人、初めて見た」
「……うるせぇ」
「ふふっ。でも、お姉ちゃん、喜ぶと思うよ。カケルお兄ちゃんが来てから、ずっと嬉しそうだもん」
莉子ちゃんの言葉に、俺の胸が小さく跳ねた。
なんとか形になったお粥を、お盆に乗せて陽菜の部屋へと運ぶ。
彼女の部屋に入るのは、何年ぶりだろうか。
女の子らしい、可愛らしいインテリア。その中に、俺があげたぬいぐるみや、小学生の頃に遊園地で一緒に撮った写真が飾られているのを見つけて、俺の心臓はまた、変な音を立てた。
こいつの生活の中に、俺は当たり前のように存在している。その事実が、今はたまらなく嬉しかった。
「陽菜、食えるか?」
「……うん」
陽菜は、力なく頷く。
俺はベッドの脇に座り、レンゲでお粥をすくった。
「ほら」
差し出すと、陽菜は驚いたように目を見開いた。
「え、あの、自分で食べれるよ……?」
「いいから。病人なんだから、甘えとけ」
俺は、昨日自分がされたことを棚に上げて、ぶっきらぼうに言う。
本当は、俺の方が緊張でどうにかなりそうだった。
◇
カケルが、お粥を食べさせてくれる。
その事実に、私の頭は熱のせいじゃなく、完全にショートしてしまいそうだった。
(うそ、うそ、うそ……! なんで!?)
昨日、私がカケルにしたのは、彼が本当にぐったりしていて、一人じゃ食べられそうになかったからだ。
でも、今の私は、まだ自分で食べられる。それなのに。
「いいから。病人なんだから、甘えとけ」
ぶっきらぼうな彼の言葉。
でも、その声は、信じられないくらい優しい。
私は、心臓の音を聞かれてしまうんじゃないかってくらいドキドキしながら、恥ずかしさに耐えて、小さく口を開けた。
レンゲが、そっと口に運ばれる。
カケルの作った、少しだけ味の薄い、でも信じられないくらい温かいお粥が、身体中に染み渡っていく。
「……おいしい」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
「……そうか」
カケルは、短くそう答えただけだったけど、彼の顔が少しだけほころんだのを、私は見逃さなかった。
彼の指が、レンゲを持つ手が、少しだけ震えている。
彼も、緊張してくれてるんだ。
その事実が、嬉しくて、愛おしくて、たまらない。
一口、また一口と、彼が運んでくれるお粥を食べる。
世界で一番、贅沢なご飯。熱で辛いはずなのに、今、私は最高に幸せだった。
◇
陽菜がお粥を食べ終え、薬を飲むのを見届ける。
俺は新しい濡れタオルを用意し、彼女の額に乗っているぬるくなったタオルと交換しようとした。
「あ、自分でやるよ」
「いいから、じっとしてろ」
俺は彼女の額に手を伸ばす。
その時、陽菜の柔らかい前髪が、俺の指先に触れた。
「……っ」
心臓が、大きく跳ねる。
昨日、陽菜が俺の額に触れてくれた時、彼女はどんな気持ちだったんだろう。
俺みたいに、ドキドキしてくれていたら、なんて。
そんな都合のいいことを考えてしまう。
俺は黙々とタオルを交換し、彼女をベッドに寝かせた。
「……ありがとう、カケル」
「……別に。俺のせいだし」
「ううん。……嬉しい」
陽菜は、熱で潤んだ瞳で俺を見つめ、ふわりと微笑んだ。
その笑顔に、俺は完全に、ノックアウトされた。
守ってやりたい、とか、そういうんじゃない。
ただ、俺だけのものにしたい。
そんな、身勝手で、どうしようもない独占欲が、俺の胸を突き破って溢れ出しそうになった。
「……ゆっくり、休めよ」
俺はそれだけ言うのが精一杯で、逃げるように彼女の部屋を出た。
リビングで待っていた莉子ちゃんが、麦茶の入ったグラスを二つ持って、ニヤニヤしながら俺を見ている。
「お兄ちゃん、お疲れ様。はい、これどうぞ」
「……お、おう。サンキュ」
俺は麦茶を一気に飲み干す。少しでも、この顔の熱を冷ましたかった。
「お姉ちゃん、さっきからずっと『カケル、カケル』って寝言で言ってるよ」
「ぶっ!?」
俺は飲んでいた麦茶を吹き出しそうになった。
「なっ……! そ、そんなわけねーだろ!」
「ほんとだもん。それにね、カケルお兄ちゃんが作ってくれたお粥、『世界で一番おいしい』って言ってた」
「……っ!」
莉子ちゃんの追撃に、俺はもう何も言い返せない。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと、大好きなんだね」
「……うるせぇ」
「ふーん? 顔、真っ赤だよ? まあ、お姉ちゃんも、お兄ちゃんのこと大好きだから、お似合いだけどね!」
この妹、姉に似て、鋭い。
いや、姉以上にタチが悪いかもしれない。
俺はグラスをテーブルに置くと、ただ黙って顔を背けるしかなかった。
熱に浮かされた陽菜の、潤んだ瞳と、嬉しそうな笑顔。
俺の名前を呼ぶ、寝言。 それが頭から離れなくて。
俺は、自分の心臓が、もう完全に、陽菜のものであることを、認めざるを得なかった。