第58話 守るべきもの、繋がる想い
祭りの終わりを告げる夕日の光が、俺たちの壊れかけた時間を、静かに照らしていた。
俺は、陽菜の小さな身体を、強く、強く、抱きしめながら。
ただ子供のように、声を殺して泣いた。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
俺の背中を、優しい手のひらが、そっと撫でた。
「……桜井くん。もう、大丈夫よ」
藤井先生の、穏やかな声だった。
俺が顔を上げると、先生は見たこともないくらい悲しい、でも、力強い目で俺たちを見つめていた。
その隣では、武田先生が、鬼のような形相で、鼻血を流して床に伸びている西園寺を、仁王立ちで見下ろしている。
「……西園寺。……貴様、それでも人間か」
武田先生の、地を這うような低い声が倉庫の中に響き渡った。
その静かな怒りは、どんな罵声よりも恐ろしかった。
蓮がいつの間にか、倉庫の外から、もう一人の男子生徒を引きずってきた。
確か、いつも西園寺の近くにいる生徒だ。
そいつは顔を真っ青にして、ガタガタと震えている。
「先生。こいつが外から閂をかけてました」
蓮の冷たい声。
武田先生は、その男を一瞥すると何も言わずに職員室の方を指さした。
男は、腰を抜かしたように、その場にへたり込んだ。
「……藤井先生。後のことは俺に任せてください。……こいつらは絶対に許さん」
「……ええ。お願いします、武田先生」
藤井先生は静かに頷いた。
そして、俺と陽菜の方に向き直る。
「……日高さん、立てる?」
「……は、はい」
陽菜は、俺の腕の中で こくりと頷いた。
俺は、ゆっくりと彼女の身体を支えながら立ち上がらせる。
藤井先生は、自分が着ていたジャージの上着をそっと陽菜の肩にかけた。
破れた、ワンピースの肩口と白い肌が隠される。
「……保健室へ行きましょう。温かいものでも飲んで、少し休みましょうね」
先生の、その母親のような優しい声に。
俺たちの、張り詰めていた糸がぷつりと切れた気がした。
◇
保健室は、校内の喧騒が嘘のように静かだった。
白いカーテン。
消毒液のツンとした匂い。
藤井先生は、俺と陽菜をベッドに座らせると、温かいココアを二つ淹れてくれた。
その甘い香りが、俺たちの凍りついた心を少しだけ溶かしていく。
「……桜井くん」
先生は、俺の前に膝をついた。
そして、俺の拳を優しく両手で包み込む。
俺の拳は血が滲んでいた。
西園寺を殴った時に切ってしまったのだろう。
痛みなんて、全く感じなかった。
「……痛かったでしょう」
先生のその言葉は、俺の拳の傷に向けられたものじゃなかった。
俺の、心に、向けられた言葉だった。
その藤井先生の優しい声に。
俺の目から、また涙がこぼれ落ちそうになる。
俺は、必死でそれを堪えた。
「……日高さんを、守ってくれてありがとう。……あなたは、とても勇敢だったわ」
「……俺は……」
違う。
俺は、勇敢なんかじゃない。
ただ、自分の怒りに任せて暴力を振るっただけだ。
それに、俺がもっと早く気づいていれば……。
俺が、陽菜を一人で行かさなければ……。
陽菜は、こんな怖い思いをしなくて済んだんだ。
俺のせいだ。
全部、俺が弱いから。
俺が、自分を責めていると。
陽菜が、俺の服の裾をきゅっと小さく掴んだ。
「……違うよ、カケル」
陽菜は震える声で、でも、はっきりと言った。
「……カケルは悪くない。……カケルが来てくれなかったら、私、本当にどうなっていたか……。……カケルが、私を守ってくれたんだよ」
その、陽菜の言葉に。
俺の、心の中のダムは、また決壊しそうになった。
俺は、唇を、強く、強く、噛み締めた。
藤井先生は、そんな俺たちを悲しそうに、でも、慈しむような目で見つめていた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「……少し、二人で話をしなさい。……先生は、外で待っているから」
そう言って、先生は、静かに保健室を出て行った。
後に残されたのは、俺と陽菜と、そして気まずい沈黙だけだった。
◇
俺は、何も言えなかった。
陽菜の顔を見れない。
彼女の白い肌に、その心に、刻まれた恐怖の記憶。
その原因の一端は、間違いなく俺にある。
俺が、陽菜を守ってやれなかったから。
俺が、陽菜の隣にいてやれなかったから。
後悔と罪悪感が、津波のように、俺の心を飲み込んでいく。
「……カケル」
陽菜が、俺の名前を呼んだ。
俺は、顔を上げられない。
「……ごめん」
俺の口から、ようやく言葉が漏れた。
「……本当に、ごめん、陽菜」
「……なんで、カケルが、謝るの?」
「……俺が、もっと、早く気づいていれば……。お前、ずっと怖かっただろ」
「……うん。……すごく、怖かった」
陽菜は、素直に、頷いた。
「……もう、ダメだって、思った。……でもね」
彼女は、言葉を続ける。
「……不思議と、カケルの顔が浮かんだの。……そしたら、少しだけ、勇気が湧いてきた」
「……え?」
俺は、驚いて顔を上げた。
陽菜は、少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
そして、自分の、エプロンのポケットから、何かを取り出した。
それは、少し色褪せて使い古された、水色のリストバンドだった。
「……これ、覚えてる?」
「……それ……」
忘れるはずがない。
俺が、中学一年生の時。
陽菜の誕生日に、プレゼントしたリストバンド。
「……あの時、私、ポケットの中で、ずっと、これを握りしめてたの。……いつものおまじない」
「……おまじない?」
「うん。……大事な試合の前とか、緊張した時とか。いつも、これを、ぎゅっと握って、『カケル、力を貸して』ってお願いするの。……そうするとね、不思議と力が湧いてくるんだよ」
陽菜は、そう言って、優しく微笑んだ。
その、あまりにも信じられない告白に。 俺は言葉を失った。
なんだよ、それ。
そんな大事なこと。
なんで、今まで教えてくれなかったんだよ。
俺が、あげた、ただの安いリストバンドが。
こいつにとって、そんな特別なお守りになっていたなんて。
「……だからね、あの時も、ずっと祈ってたの。『カケル、助けて』って。……そしたら、本当にカケルが来てくれた。……私の祈りが、カケルに届いたんだなって、思った」
そのあまりにも健気で純粋な一言に。
俺の目から、堪えていた涙が、また、こぼれ落ちた。
違う。
違うんだよ、陽菜。
俺は、お前の祈りなんかじゃなく。
ただ胸騒ぎがして。
お前のことが心配で、いてもたってもいられなくて、走ってきただけだ。
でも、もし本当に、お前の想いが、俺をここに導いてくれたのだとしたら。
俺も、そのおまじないを、信じてみたくなったよ。
「……陽菜」
俺は震える手で、彼女の頬に、そっと触れた。
そして、その涙の跡を、親指で優しく拭ってやる。
「……ありがとう。……俺のこと、信じてくれて」
陽菜は、何も言わずに、こくりと頷いた。
そして俺の手に、自分の手を、そっと重ねてくる。
その、小さな手の温もり。
それが、今、俺のすべてだった。
言葉なんて、もういらなかった。
俺たちは、この事件で、多くのものを失いかけた。
でも、それ以上に、大きくてかけがえのないものを手に入れたのかもしれない。
それは、どんな言葉よりも確かな、二人だけの絆。
俺は陽菜の手を、もう一度、強く、強く、握りしめた。
もう二度と、この手を離さない。
そう心に誓った。




