第55話 閉ざされた扉
闇。
完全な、光の一切ない、闇。
私のすぐ背後で鉄の扉が閉められ、かんぬきがかけられる、あの絶望的な金属音が、まだ耳の奥で反響している。
「……え?」
何が起こったの?
風で扉が閉まった?
誰かのいたずら?
私の頭の中は、パニックで真っ白だった。
「……だ、誰か、いませんかー! ドアが、閉まっちゃって……!」
私は震える声で叫んだ。
でも返事はない。
ただ、しん、と静まり返った闇がそこにあるだけ。
カビと、汗と、古い革のボールの匂いが、混じった独特の匂い。
ひんやりとしたコンクリートの床の冷気。
そのすべてが、私の不安を煽り立てる。
(……怖い)
心臓が、バクバクと、大きな音を立てている。
息が苦しい。
ここは、教室の半分くらいの広さしかない窓のない倉庫。
光が入るのは、あの鉄の扉だけ。
その扉が、今、固く閉められている。
私は、壁を手探りで伝いながら、扉があったはずの場所へと向かった。
――ドン、ドン、ドン!
「開けてください! 誰か、いませんか!」
私は力の限り、鉄の扉を叩いた。
でも、扉はびくともしない。
外側から、かんぬきが、かけられているのだ。
誰かが、意図的に私をここに閉じ込めた。
その残酷な事実に気づいた瞬間。
私の、全身から、血の気が引いていくのがわかった。
その時だった。
闇の、向こう側から。
ゆっくりと、こちらに近づいてくる、誰かの足音が聞こえた。
一人じゃない。
この、暗闇の中に、私以外に誰かがいる。
「……だ、誰……?」
私の声は、情けないくらいに震えていた。
足音は、私のすぐ目の前で、ぴたりと止まった。
そして。
闇の中から、聞き覚えのある声がした。
「……よぉ、日高」
その、ねっとりとした甘い声。
私の、背筋を、冷たいものが駆け上った。
「……さいおんじ、せんぱい……?」
パッ、と。
すぐ目の前で、スマートフォンの、ライトが点灯した。
その青白い光の中に浮かび上がったのは、ニヤニヤと、いやらしい笑みを浮かべた西園寺巧の顔だった。
「……なんで、先輩が、ここに……?」
「なんで、って。……お前を、待ってたんだよ。……ずっと、な」
先輩はそう言って、ゆっくりと私に近づいてくる。
私は後ずさった。
背中に、冷たい壁の感触。
もう、逃げ場はない。
「……開けて、ください」
「嫌だね。……せっかく、二人きりになれたんだ。……邪魔者は、いない方が、いいだろ?」
先輩のその言葉の意味を、私は理解したくなかった。
扉を閉めたのは、先輩の仲間。
これは、計画的な犯行なのだ。
私を、ここに閉じ込めるための。
頭の中で、今まで聞いた彼の悪い噂が、ぐるぐると渦を巻く。
『あいつヤバいよ』
『女の子のこと、遊び道具くらいにしか思ってないって』
『泣かせた子、一人や二人じゃないらしいよ』
そして思い出す。
体育祭のあの日。
多目的トイレから、彼と一緒に出てきたあの一年生の女の子の泣き腫らした赤い目を。
点と、点が、線になる。
いや、最悪の模様を描き出す。
「……何が、したいんですか」
「決まってんだろ。……お前と、もっと、仲良くなりてぇんだよ」
先輩の視線が、私の身体を、まるで舐め回すように、上から下へと移動する。
天使の衣装。
短いワンピースの裾。
そのいやらしい視線に、私は、強烈な吐き気を覚えた。
「……やめて」
「やめねぇよ。……お前が、悪いんだぜ? そんな、誘うような格好、しやがって」
先輩は、そう言って。
私の、背中についている、小さな羽に、そっと指を伸ばしてきた。
その指が、私の肌に触れる……。
「ひっ……!」
私は、悲鳴を上げて、その手を振り払った。
「さわらないで!」
「はっ! いいじゃねぇか、別に。……なあ、日高。俺と楽しいことしようぜ? 気持ちよくしてやるからさ」
先輩の顔が、ぐっと近づいてくる。
汗と、甘ったるい香水の匂いが混じった不快な匂い。
獣の匂いだ。
頭の中で、最悪の言葉が浮かび上がる。
――レイプされる。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
私の、初めては。
こんな、獣みたいな人じゃ、絶対に、嫌だ。
私の、初めては、……カケルと……。
いつか、彼と、本当に心が通じ合えたその時に。
そう、ずっと、夢見ていたのに。
私の、大切な、大切な、夢が。
今、この、汚い手で、めちゃくちゃに壊されようとしている。
(……助けて)
心の中で叫んだ。
誰か。
誰でもいい。
お願いだから、助けて。
(……カケル)
彼の顔が浮かんだ。
保健室で、私の手を、力強く握りしめてくれた、あの温かい手のひら。
彼なら、きっと、私を守ってくれる。
でも、彼は、ここにはいない。
私は一人だ。
この、獣の前で、たった一人。
「……大丈夫。……誰も、来ねぇよ」
先輩は、私の絶望を見透かしたように、そう言って笑った。
そして、私の細い腕を、がしりと掴んだ。
「……やだ、離して……!」
「うるせぇな。……少し、黙ってろよ」
先輩の力が強い。
振りほどけない。
私は、壁に押し付けられる。
彼の熱い身体が、私の身体に密着する。
心臓が凍りついた。
もう、ダメだ。
そう、思った瞬間だった。
エプロンのポケットの中にある、最後の希望。
私は、掴まれていない方の手で、必死にポケットの中を探った。
震える指先が、それに触れる。
私は、祈りを込めて、それを、いつものように触った。
助けて。 お願い。 お願いだから。
「……いい声で、啼けよ」
先輩の、歪んだ顔が、すぐ目の前まで迫ってくる。
私の、小さな抵抗なんて、まるで意味がないかのように。
彼は、私のワンピースの肩口を、乱暴に掴んだ。
――ビリッ、と。
布が裂ける、絶望的な音が暗闇に響く。
そして、私は、床に積まれた古いマットの上に、力強く押し倒された。
獣のような、熱い息が、私の顔にかかる。
「それじゃ、日高。今から、お前を、おいしくいただかせてもらうな」




