第54話 運動場に伸びる影
二日間にわたる文化祭は、熱狂とほんの少しの寂しさを残して、その幕を閉じようとしていた。
夕日が校舎をオレンジ色に染め上げている。
俺たちの「天使の癒しカフェ」も、最後まで客足が途絶えることなく、大盛況のうちに営業を終了した。
教室の中は、祭りの後の心地よい疲労感と達成感で満ち溢れていた。
「お疲れー!」
「やったな、俺たち!」
クラス委員長の乾杯の音頭で、俺たちは残ったジュースの紙コップを高々と掲げた。
その輪の中心には、もちろん陽菜がいた。
彼女は、この二日間本当によく頑張っていた。
リーダーとして、常に笑顔を絶やさず周りを気遣い、店を切り盛りしていた。
その、キラキラとした姿を、俺はずっと隣で見ていた。
誇らしかった。
そして、どうしようもなく愛おしかった。
「駆、お疲れ。お前も後半すげぇ頑張ってたじゃん」
健太が、俺の肩を力強く叩いた。
「……まあな」
「陽菜ちゃんのためだもんなー」
蓮が、ニヤニヤしながらからかってくる。
俺は、顔が熱くなるのを感じてそっぽを向いた。
否定できない。
俺が、あれだけ苦手だった接客を、最後までやり遂げられたのは、間違いなく陽菜が隣にいてくれたからだ。
彼女の、「大丈夫だよ」というたった一言が。
俺に無限の勇気をくれた。
俺は、ちらりと陽菜の方を見た。
目が合った。
彼女は、俺に気づくと、ふわりと花が咲いたように笑った。
その笑顔だけで、二日間の疲れなんて全部吹き飛んでいくようだった。
俺たちの関係は、まだ、何も定義づけられてはいない。
でも、確かに何かが変わった。
この文化祭で、俺たちは、ただの幼馴染じゃなく、同じ目標に向かって戦う「パートナー」になれた気がした。
「はーい、みんな! 感傷に浸ってる暇はないわよー! 後片付け、始めるわよー!」
藤井先生の明るい声が教室に響き渡る。
俺たちは、「はーい」と気の抜けた返事をしながらゆっくりと立ち上がった。
祭りの終わり。
それは、いつも少しだけ切ない。
◇
後片付けは、思ったよりも大変だった。
壁紙を剥がし、装飾を取り外し、机と椅子を元の位置に戻していく。
あれだけ、キラキラとしていた俺たちの「天使の庭」が、少しずつ元の無機質な教室へと戻っていく。
その光景は、まるで魔法が解けていくようで、少しだけ寂しかった。
「……陽菜、それ重いだろ。俺が持つ」
「ううん、大丈夫だよ! これくらい平気!」
陽菜が、装飾に使った植木の鉢を一人で運ぼうとしている。
俺は慌てて、その鉢を彼女の手から取り上げた。
「ばか。女の子がそんな重いもん持つなよ」
「……もう。……ありがと」
陽菜は、少しだけ頬を赤らめて俯いた。
その何気ないやり取り。
その一つひとつが、今の俺には宝物のように感じられた。
俺たちが、そんな甘酸っぱい空気を醸し出していると。
「日高さん、ちょっといいかな?」
内装担当だった橋口が、陽菜に声をかけた。
「はい。どうしましたか?」
「ごめんね、後片付けで疲れてるところ。体育館から借りてきた備品が入ったこの段ボール箱、体育倉庫に、返しに行ってもらってもいいかな? みんな、手が離せなくて」
「わかりました! 行ってきます!」
陽菜は、元気よくそう答えた。
体育倉庫。
それは、校舎から少しだけ離れた、グラウンドの隅にある古い建物だ。
「陽菜、俺も行くよ」
俺がそう言うと、陽菜はにこりと笑って頷いた。
だが、その時だった。
「待て待て桜井! お前には、こっちの地獄の段ボール運びを手伝ってもらわないと死ねる!」
橋口が、俺の肩をがっしりと掴んだ。
その手には、大量の段ボールが握られている。
「え、でも……」
「男手が、足りてないんだ! 頼む! この通り!」
橋口はそう言って、俺に深々と頭を下げた。
こうなっては断れるはずがない。
「……わかりました」
「日高さん、ごめんな。一人で大丈夫かな?」
「はい! 平気です! 見た目より、全然重くないので! すぐに、終わらせてきますね!」
陽菜はそう言って、一人で段ボール箱を、よいしょと抱え上げた。
まだ天使の衣装のままの彼女が、大きな箱を抱える姿は、少しだけアンバランスで危なっかしい。
背中の小さな羽が、箱に押されて少しだけ歪んでいる。
俺は、その小さな後ろ姿を、少しだけ不安な気持ちで見つめていた。
でも、大丈夫だろう。
ただ箱を返しに行くだけだ。
すぐに戻ってくる。
俺は、自分にそう言い聞かせた。
「じゃあ、カケル。また後でね」
「……おう。……気をつけてな」
陽菜は、俺に小さく手を振ると、一人で段ボール箱を抱えながら教室を出て行った。
その小さな後ろ姿が、夕日に照らされた長い廊下の向こうに消えていく。
なぜか、俺の胸は、ざわざわと嫌な音を立てていた。
◇
(……ふぅ。やっぱり、ちょっと重かったかな)
私、日高陽菜は、体育倉庫へと続く渡り廊下を、一人で歩いていた。
段ボール箱は、カケルの前では平気なフリをしたけれど、思ったよりもかさばって少しだけ腕が痛い。
でも、心は軽かった。
カケルと話ができた。
彼が、私を心配してくれた。
「女の子」として扱ってくれた。
その事実が嬉しくて嬉しくてたまらない。
帰り道で何か話せるかな。
今日のお礼もちゃんと言わきゃ。
そんな幸せなことを考えていた。
体育倉庫は、グラウンドの隅にあった。
周りには、もう、ほとんど人の気配はない。
夕日が校舎の影を、長く、長く、地面に伸ばしている。
その影の一つが。
私のすぐ後ろをついてきていることに。
私はまだ気づいていなかった。
体育倉庫の、錆びついた鉄の扉。
私は、一度、段ボール箱を地面に置くと、ぎぃ、と、重い音を立ててその扉を開けた。
中は真っ暗だった。
カビと、汗と、古い革のボールの匂いが混じった独特の匂い。
跳び箱、マット、平均台……。
見慣れた体育用具たちが、静かに眠っている。
私は段ボール箱を、隅の方に置いた。
(……よし、終わり! 早く、カケルのところに、戻らなきゃ)
私がそう思って、くるりと踵を返した、その瞬間だった。
私のすぐ背後で。 今まで開いていたはずの鉄の扉が。
――バタンッ!
という鼓膜が破れそうなほどの大きな音を立てて、閉まった。
そして。 ガチャン、と。
外側からかんぬきがかけられる金属音が響き渡った。
倉庫の中は、再び、完全な闇に包まれた。
「……え?」
何が、起こったのかわからなかった。
ただ、一つだけ確かなこと。
私は、今、この真っ暗な体育倉庫の中に。
一人で、閉じ込められてしまったのだ。
そして、闇の向こう側から。
ゆっくりと、こちらに近づいてくる、誰かの足音が聞こえた。




