第52話 掌のぬくもり
俺、桜井駆は、陽菜に腕を引かれるまま、屋上から階段を駆け下りていた。
さっきまでの、あの光景が頭から離れない。
大和部長と、水野先輩の、あの大人びたキス。
その生々しい残像が、俺の思考回路を完全に焼き切っていた。
「はぁ、はぁ……。もう、大丈夫かな」
一階まで降りたところで、陽菜はようやく俺の腕を離した。
彼女も、俺と同じくらい息を切らしている。
その頬は、夕日に照らされたわけでもないのに、真っ赤に染まっていた。
「……陽菜、お前な……」
「ご、ごめん! でも、あのまま、あそこにいたら、私、本当にどうにかなっちゃいそうだったから……!」
陽菜は、必死に何かを言い訳している。
その潤んだ瞳が、また俺の心をかき乱す。
俺たちは、お互いに顔を見合わせることができず、気まずい沈黙が流れた。
「……で? 本当に行くのかよ。お化け屋敷」
俺がそう言うと、陽菜は、こくりと力なく頷いた。
正直、俺は、今、そんな気分じゃなかった。
でも、このどうしようもない空気をどうにかするには、それしかないのかもしれない。
俺たちは、小野寺たちのクラス、二年二組の教室へと向かった。
廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちが、俺たちの格好を見て、ひそひそと噂しているのが聞こえる。
「あ、天使カフェの店員さんだ」
「執事天使の人、カッコいい……」
そうだ。
俺たちは、まだ、あの気恥ずかしい衣装のままだった。
天使のワンピースを着た陽菜と、小さな羽の付いた黒いベストを着た俺。
こんな格好で、お化け屋敷に乗り込むなんて。
◇
二年二組の教室は、俺たちの「天使の癒しカフェ」とは全く違う、不気味なオーラを放っていた。
入り口は、黒いカーテンで覆われ、中からはうめき声のような、おどろおどろしいBGMが漏れ聞こえてくる。
看板には、『絶叫VRホラーハウス』と、血文字のようなフォントで書かれていた。
「……マジで入んのかよ」
「……うん。……もう、ここまで来ちゃったし」
陽菜は、少しだけ怖気づいているようだった。
その指先が、俺のベストの裾を、きゅっと小さく掴んでいる。
俺たちは、受付にいた見慣れない男子生徒に、アイマスクとヘッドフォンを渡される。
「……これ、つけんのかよ」
「VR、だからね。きっと」
俺たちは、言われるがままにそれを装着する。
途端に、俺の世界から光と音が消えた。
あるのは、ヘッドフォンから聞こえてくる不気味なうめき声と風の音だけ。
そして、隣にいる陽菜の気配。
彼女の、甘い匂いと、少しだけ速くなった呼吸の音。
「……カケル、いる?」
陽菜の震える声が、すぐ近くで聞こえた。
「……おう。いるぞ」
その声は、ひどく頼りなげで。
俺は、気づけば、手を伸ばしていた。
守らなければ。
俺が、こいつを、守らなければ。
その一心だった。
俺は、暗闇の中で、手探りで、陽菜の手を探した。
そして。
その小さな冷たい手に、俺の指先が触れた。
◇
(……あ)
カケルの、手が。
私の、手に、触れた。
大きくて、ゴツゴツしていて、硬いマメがたくさんある男の子の手。
その手が、私の冷たくなった手を探すように、彷徨い。
そして、優しく、包み込んでくれた。
温かい。
信じられないくらい、温かい。
その温もりが、私の身体中に、じんわりと染み渡っていく。
さっきまでの恐怖や不安が、嘘みたいに消えていく。
心臓がドキドキしている。
でもそれは、お化け屋敷が怖いからじゃない。
カケルが、隣にいるから。
カケルが、私の手を、握ってくれているから。
高校生になってから、彼とこうして手を繋ぐのは初めてだった。
子供の頃は当たり前のように繋いでいたこの手。
でも、今は違う。
その、一つひとつの指の感触が。
手のひらの熱が。
私に、はっきりと伝えてくれる。
彼は、もうただの幼馴染じゃない。
一人の「男の子」なんだって。
◇
俺は、陽菜の手をぎゅっと握りしめた。
陽菜も、同じくらいの力で握り返してくれた。
その温もりだけが、俺の唯一の頼りだった。
俺たちは、壁を伝いながら、ゆっくりと前に進んでいく。
ヘッドフォンからは、女の人のすすり泣く声が聞こえる。
ひた、ひた、と、水滴が落ちる音。
突然、すぐ耳元で「うしろ……」と、低い男の声が囁いた。
「ひっ!」
陽菜が、小さな悲鳴を上げて、俺の腕にぎゅっとしがみついてくる。
「だ、大丈夫か?」
「う、うん……」
大丈夫なわけないだろ。
俺だって、今、めちゃくちゃビビった。
俺がそう思っていると、今度は、足元で何かが、カサカサと動く気配がした。
「うわあああああああっ!」
すぐ近くで、何かが、ガタン!と、大きな音を立てた。
そして、俺の足首に、ぬるりとした何かが触れた。
「きゃあああああっ!」
俺の情けない悲鳴と、陽菜の悲鳴が、綺麗にハモった。
陽菜は、俺の腕に、もう完全に全体重を預けるように、しがみついてくる。
その柔らかな感触に、俺は、恐怖と、それとは全く別のドキドキで、心臓が爆発しそうだった。
「……な、なんだよ、今のは……!」
「……わ、わかんない……!」
俺たちが、パニックになっていると。
ふと、目の前の闇の中に、白いものが浮かび上がった。
それは、長い髪の女の顔。
その顔が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「ひっ……!」
俺が、息を呑んだ。
その瞬間。 その女の顔が、聞き慣れた声で、言った。
「……あ、桜井くん? ……日高さんも?」
その声は、小野寺楓だった。
そして、その隣からもう一人、同じように、白い顔をした中村沙織が、ひょっこりと顔を出す。
「あれー? 二人とも、来てくれたんだ。……って、うわ、桜井くん、日高さんに、めっちゃしがみつかれてんじゃん。ウケる」
「……っ!」
俺と陽菜は、慌てて身体を離した。
そして、気まずさで、顔を真っ赤にする。
こんなところで会うなんて。
俺は、まだ、陽菜の手を握ったままだった。
その事実に、今更気づいた。
「……お、驚かすなよ、お前ら……」
「ご、ごめん。……でも、楽しんでくれたみたいで、よかった」
小野寺は、そう言って、少しだけ寂しそうに、でも、優しく微笑んだ。
その視線が、俺と陽菜が固く繋いだままの手に、注がれていることに、俺は気づいていた。
その笑顔に、俺は、胸がチクリと痛んだ。
お化け屋敷を出た後も、俺たちの心臓は、ずっと、うるさく鳴り続けていた。
それは、恐怖のせいなのか。
それとも、暗闇の中で触れ合った、お互いの温もりのせいなのか。
俺には、もうわからなかった。
俺たちは、どちらからともなく繋いでいた手を、そっと離した。
でも、その感触だけは、いつまでも、いつまでも、俺の手のひらに残っていた。
陽菜の、小さくて、温かい、手の感触。
それは、俺たちの関係が、もう後戻りできない、新しいステージへと進んでしまったことを告げているようだった。
本日は、夜にもう一話更新します。




