第51話 屋上で見たもの
中庭の喧騒から逃れるように、俺たちは、ほとんど人のいない校舎の渡り廊下を歩いていた。
さっきまでの、あの甘くて気まずい空気。
陽菜の潤んだ瞳と、俺の暴走する心臓。
その余韻が、まだ、俺たちの間に漂っている。
「……すごい、人だったね」
陽菜が、ぽつりとそう呟いた。
「……あぁ。まあ、文化祭だしな」
俺も、当たり障りのない返事を返す。
会話が続かない……。
でも、その沈黙は、もう嫌なものじゃなかった。
むしろ、心地よいくらいだ。
隣にいる陽菜の存在を、その温かい気配を、全身で感じることができるから。
俺たちは、そのまま無言で、階段を上っていった。
一階、二階、三階……。
そして、気づけば、屋上へと続く扉の前に立っていた。
文化祭の期間中、屋上は休憩スペースとして、特別に解放されているのだ。
「……少し、休むか」
「……うん」
俺が、錆びついた鉄の扉を開けると。
ひゅうと、秋の涼しい風が、俺たちの火照った頬を撫でていった。
屋上は、ほとんど人がいなかった。
数組のカップルらしき男女が、フェンスにもたれて楽しそうに話しているだけ。
グラウンドから聞こえてくる賑やかな音楽や歓声が、まるで遠い世界の音のように聞こえる。
そこは、喧騒から切り離された静かで穏やかな、二人だけの空間だった。
俺たちは、並んでフェンスの前に立った。
眼下には、ミニチュアみたいに、小さな文化祭の風景が広がっている。
色とりどりのテント。 人の波。
そのすべてが、キラキラと輝いて見えた。
「……綺麗だね」
「……あぁ」
陽菜のその横顔が、夕日に照らされて、あまりにも綺麗で。
俺は、また、言葉を失ってしまった。
風が、彼女の綺麗な黒髪を、優しく揺らしている。
その数本が、俺の肩に、そっと触れた。
そのくすぐったい感触に、俺の心臓は、また大きく跳ねる。
(……やばい)
このまま、ここにいたら。
俺は、何かとんでもないことをしてしまいそうだ。
陽菜の、その、少しだけ開かれた潤んだ唇に。
俺は、吸い寄せられるように、顔を近づけようとしてしまっていた。
その、瞬間だった。
「……ん」
すぐ近くの給水タンクの陰から。
そんな甘い声が聞こえてきた。
俺と陽菜は、びくりとして、同時にそちらを向いた。
そして見てしまった。
信じられない光景を。
そこにいたのは、陸上部の大和先輩と水野先輩だった。
二人は、誰にも見られていないと思っているのだろう。
夕日を背に、唇を重ねていた。
長い、長い、キス。
それは俺が今まで見たこともないくらい、大人びていて、美しくて、そして、どうしようもなく、官能的な光景だった。
「……っ!」
俺と陽菜は、同時に息を呑んだ。
そして、まるで申し合わせたかのように、慌てて顔を背けた。
顔が熱い。
心臓が痛い。
見てはいけないものを見てしまった。
でも、それ以上に。
俺の頭の中は、さっきの光景でいっぱいになっていた。
キス。
陽菜と、もし、俺が。
あんなふうに、キスをしたら。
どんな、味がするんだろう。
どんな、感触がするんだろう。
俺は、自分の喉が、ごくりと鳴るのを感じていた。
◇
文化祭の喧騒が、嘘のように遠い。
俺は、給水タンクの陰で、水野美咲の柔らかな唇の感触に全てを委ねていた。
ここだけが、俺の唯一の安息所だった。
受験勉強の、終わりの見えないプレッシャー。
部員たちの未来を背負う重圧。
返却された模試の残酷な判定。
そのすべてが、この、甘い時間の中に溶けていくようだった。
美咲の唇は、いつも、俺の心のささくれを優しく癒してくれる。
俺たちは、もうすぐ卒業する。
この当たり前だった日常も、もうすぐ終わりを告げる。
美咲とは、違う大学に進むことが決まっている。
遠距離恋愛になる。
不安がないと言えば、嘘になる。
会えない時間が増えれば、心も離れてしまうんじゃないか。
新しい世界で、彼女が、俺の知らない誰かと出会ってしまうんじゃないか。
そんな子供じみた不安が、時々、俺の心を黒く塗りつぶそうとする。
でも、大丈夫だ。
俺たちは、きっと大丈夫だ。
この、唇から伝わってくる温もりと信頼がある限り。
俺は、ただのガキだった。
不器用で、自分の気持ちすらまともに伝えられない、ただの陸上バカ。
そんな俺を、美咲は、ずっと隣で支え続けてくれた。
俺が、彼女にしてやれることは少ないかもしれない。
でも、この腕で、彼女を守ることだけは誰にも譲れない。
「……ん。……誠」
美咲が、ゆっくりと顔を離す。
その瞳は、潤んでいて熱っぽい。
「……ごめん。……人が、来ちゃうかも」
「……あぁ。そうだな」
俺は、名残惜しい気持ちを必死に抑え込んだ。
彼女の、少しだけ乱れた髪を、そっと指で直してやる。
その、何気ない仕草だけで、俺の心は満たされた。
これが、俺たちの恋の形。
派手じゃなくても、言葉が少なくても。
確かにここにある、温かい何か。
俺は、美咲の手をぎゅっと握りしめた。
◇
(……きゃあああああああっ!)
私の頭の中は、完全にパニックだった。
き、き、き、キス……!
大和先輩と、水野先輩が、キス、してた!
あんな、映画のワンシーンみたいな、ロマンチックなキス!
私の心臓は、もう限界だった。
顔が熱くて、どうにかなりそう。
夏の合宿の夜。
女子部屋で、水野先輩が言っていた言葉が、鮮明に蘇る。
『……すごく、柔らかくて、温かいかな。……好きな人の味がする感じ』
好きな人の、味。
あの時、私は、ただドキドキするだけで、その意味なんてわからなかった。
でも、今。
目の前で、その答えを見てしまった。
水野先輩の、あの、とろけるような幸せそうな顔。
大和先輩の、あの、どうしようもなく優しい眼差し。
あれが、「好きな人の味」を知っている、男女の顔なんだ。
私は、隣にいるカケルの顔なんて、もう絶対に見れない。
だって、彼も、今、絶対に、同じことを考えているはずだから。
私と、キスすること……。
(……だめ、だめ、だめ!)
私は、ぶんぶんと頭を振った。
このままじゃ、本当におかしくなってしまう。
この、気まずすぎる空気を、どうにかして壊さなければ。
「……あ、あ、あ、そうだ! お化け屋敷、行かない!?」
私の口から、自分でも驚くほど大きな声が出た。
「は……?」
「ほら、中村さんと小野寺さんのクラスの! 『VRお化け屋敷』! きっと、涼しくなれるよ!」
私はそう言って、カケルの腕をぐいと掴んだ。
そして、彼が返事をする前に、階段へと引っ張っていく。
もう、ここには一秒だっていられない。
カケルと二人であのまま屋上にいたら。
私は、本当に、どうにかなってしまいそうだったから。




