第50話 焼きそばと甘いソース
文化祭の喧騒は、まるで巨大な生き物のようだ。
人の波、音楽、食べ物の匂い、そして、そこかしこで弾ける、楽しそうな笑い声。
俺、桜井駆は、その喧騒の中を、陽菜の半歩後ろを歩いていた。
天使の衣装を身にまとった彼女は、どこにいても、人々の視線を集めてしまう。
すれ違う男子生徒たちが、皆、振り返って、彼女のことを見ているのがわかる。
そのたびに、俺の胸の奥はチリチリとした嫌な感覚に襲われた。
(……見るなよ)
心の中で、悪態をつく。
こいつの、この反則的な可愛さを。
知っているのは、俺だけでいい。
そんな、身勝手な独占欲が、俺の心を支配していた。
「わあ、すごい! あそこのクラス、射的やってるよ!」
「こっちは、わたあめだって! いい匂い!」
陽菜は、そんな俺の心境など、露知らず。
子供みたいに、目をキラキラさせながら、あちこちの模擬店を指さしている。
その無邪気な姿を見ていると、俺の、ささくれ立っていた心も、少しだけ癒される気がした。
「……腹、減ってねぇか?」
俺が、そう言うと、陽菜は、こくりと、素直に頷いた。
「うん。朝から、ずっと、立ちっぱなしだったから、お腹すいちゃった」
「だよな。……なんか、食うか」
「うん!」
私たちは、中庭にずらりと並んだ、模擬店のテントへと向かった。
焼きそば、たこ焼き、フランクフルト、クレープ……。
ソースの、香ばしい匂いが、食欲をそそる。
「どうする? 何、食べたい?」
「んー、そうだなぁ……。あ、焼きそば、美味しそう!」
陽菜が、指さしたのは、一番行列ができている、焼きそばの屋台だった。
鉄板の上で、ジュージューと音を立てて、ソースと絡められる、麺と、野菜。
その光景は、確かに、ものすごい吸引力があった。
「……じゃあ、俺、買ってくるから。陽菜は、あそこのベンチで、座って待ってろよ」
「え、いいよ! 私も、一緒に並ぶよ!」
「いいから。お前、さっきまで、ずっと働いてたんだろ。少しは、休め」
俺はそう言って、陽菜の肩をポンと軽く叩いた。
そして自分でも、驚くほど自然に言葉を続ける。
「……それに、あんな人混みの中に、こんな可愛い天使を突っ込ませるわけには、いかねぇだろ」
「……え?」
陽菜が固まった。
その顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのがわかる。
しまった。
また、余計なことを、言ってしまった。
蓮のキザなセリフが、無意識にうつってしまったのかもしれない。
「あ、いや、違う! 今のは、その……!」
俺が、慌てて言い訳をしようとすると、陽菜は俯いたまま、か細い声で言った。
「……う、うん。……じゃあ、……待ってる」
そう言って、彼女は、ぱたぱたと空いているベンチへと駆け寄っていった。
その、小さな後ろ姿を見送りながら、俺は自分の熱くなった顔を両手で覆った。
もう、ダメだ。 俺の語彙力は、完全に崩壊している。
◇
ベンチに座りながら、私、日高陽菜は、自分の膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめていた。
心臓が、ずっとドキドキしている。
カケルの、さっきの言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインする。
『こんな可愛い天使を、一人で、うろちょろさせとくわけには、いかねぇだろ』
きゃー! だめ、思い出しちゃだめだ。
思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
でも、忘れられない。
あの時の、彼の、少しだけ、照れたような、でも、真剣な眼差し。
彼は、私のことを、ちゃんと、守ろうとしてくれている。
「女の子」として、大切に、扱ってくれている。
その事実が、私の心を、甘くて、とろけそうな、幸福感で、いっぱいにしてくれた。
(……嬉しい)
恥ずかしい。
死ぬほど、恥ずかしい。
でも、それ以上に。
嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。
私は、俯いたまま、にやけてしまいそうな口元を、必死に、手で押さえていた。
◇
数分後、俺は、湯気の立つ、焼きそばのパックを二つ持って、陽菜の元へと、戻ってきた。
「……ほらよ。買ってきた」
「え、二つも? 私、そんなに食べれないよ?」
「……バカ。俺んだよ、こっちは」
俺がそう言うと、陽菜は「なんだー」と、楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺の心も少しだけ軽くなる。
「……でも、陽菜。お前、あんま食わねぇだろ。一個買って、半分こすりゃ、よかったか」
「……え?」
俺の、その何気ない一言に。
陽菜の動きが、ぴたりと止まった。
そして、その顔が、また、ぽっと赤く染まる。
「は、半分こ……?」
「……おう。その方が、よかっただろ?」
「う、うん……! そ、そっちの方が、よかった、かも……!」
陽菜は、もじもじと、指を絡ませながら、そう言った。
その、あまりにも分かりやすい反応に。
俺は、自分の失言に気づいた。
半分こ。
それは、恋人同士がする、特別な行為。
俺は、そんなことも、知らずに。
「……わ、悪かったな、気が利かなくて」
「う、ううん! 全然! 嬉しい! ……ううん、なんでもない!」
陽菜は、ぶんぶんと、首を横に振っている。
もう、ぐちゃぐちゃだ。
俺たちの、会話は、完全に迷子になっていた。
ちょっと気まずい空気の中、俺たちは、無言で焼きそばを食べ始めた。
ソースの、香ばしい匂い。
でも、味なんて、ほとんど、わからなかった。
「……あ」
不意に、陽菜が、小さな声を上げた。
「カケル、口の横、ソースついてるよ」
「え? あ、マジか」
俺が、慌てて、口元を拭おうとした、その時だった。
陽菜が、エプロンのポケットから、白いハンカチを取り出し、俺の、顔に、そっと、手を伸ばしてきた。
そして、俺の口の端を、優しく拭ってくれた。
ひんやりとしたハンカチの感触。
そして、陽菜の小さな指先が、俺の肌に、触れた。
「……っ!」
俺は、息を止めた。
時間が、止まったみたいだった。
目の前には、俺を心配そうに見上げる潤んだ瞳。
陽菜の顔が近い。
このまま、少しだけ顔を傾ければ、俺たちの唇は、きっと――。
「……うん。もう、取れたよ」
陽菜は、そう言って、パッと手を離し、はにかむように笑った。
そして、次の瞬間。
自分が、とんでもないことをしてしまったことに、気づいたのだろう。
その顔が、みるみるうちに、真っ赤に染まっていく。
「あ、あ、あ、ご、ごめん! なんか、いつも、莉子とかに、やってる癖で……!」
「……い、いや。……サンキュ」
俺は、そう答えるのが、精一杯だった。
心臓が、痛い。
嬉しくて、恥ずかしくて、そして、どうしようもないくらい、愛おしくて。
俺は、この、爆発しそうな感情を、どう処理すればいいのか、わからなかった。
◇
(……ちっ。イチャつきやがって)
俺、西園寺巧は、少し離れた場所から、桜井と日高の甘ったるいやり取りを、冷たい目で見つめていた。
さっきは、あの橘とかいう生意気なガキに邪魔されて、カフェには入れなかったが好都合だ。
獲物の方から、檻の外に出てきてくれた。
しめしめ、と思っていたら、今度は、あの桜井とかいう、目障りなガキと一緒か。
焼きそばを、半分こしたらよかった?
口についたソースを拭ってやる?
くだらない。
ガキのままごとだ。
だが、その無防備な姿は、俺の欲望を強く刺激した。
特に、日高陽菜。
あの、天使の衣装。
短いワンピースの裾から伸びる、白い脚。
男を、誘っているとしか思えない。
早く手に入れたい。
あの、小さな身体を、この腕でめちゃくちゃにしてやりたい。
桜井の、あのヘタレな顔が、苦痛に歪むのを見てみたい。
想像しただけで、身体の奥がうずいた。
(……まあ、焦るな)
祭りは、まだ、始まったばかりだ。
獲物は、ゆっくりと追い詰めるに限る。
俺は、口の端に、歪んだ笑みを浮かべると、その場を静かに立ち去った。
最高のデザートは、最後まで取っておくものだ。
◇
俺たちは、焼きそばを食べ終え、再び、文化祭の喧騒の中を歩き始めた。
会話はない。
でもその沈黙は、さっきまでの気まずいものではなかった。
甘くて温かくて、そして、少しだけ切ない特別な空気。
俺は、隣を歩く陽菜の小さな手を見た。
その手を握りたい。
そう思った。
でも、まだ、その勇気は、俺にはなかった。
今は、まだ、このむず痒い距離感を、楽しんでいてもいいのかもしれない。
そう思っていた。




