第49話 二人だけの時間
文化祭二日目の午後。
俺たちの「天使の癒しカフェ」は、オープンから数時間経った今も、その勢いが衰えることはなかった。
むしろ、口コミが口コミを呼び、二年五組の教室の前には、常に黒山の人だかりができている。
廊下を通り過ぎる生徒たちの会話が、厨房まで聞こえてくる。
「おい、聞いたか? 二年五組のカフェ、マジでヤバいらしいぞ」
「ああ、天使がいるってやつだろ? 後輩の女子が、さっき号泣しながら出てきたぜ。『尊すぎて、直視できない』とか言って」
「日高さんと結城さん、美人なのは知ってたけど、あの天使の衣装は反則だろ……。ワンピースの裾、めちゃくちゃ短いし」
「だよな! 時々、下のフワフワしたやつが見え隠れすんのが、マジでやばい……いや、神々しい!」
「執事天使の橘くんも、クソイケメンだしな。あと、もう一人、無口なイケメンもいるらしいぜ?」
そんな、男子たちの、ゲスい会話が聞こえてくるたびに。
俺、桜井駆は、厨房の隅で、顔を真っ赤にしながら、山のように積まれた皿を、黙々と洗っていた。
キッチン係。
俺が、自ら望んだ、この、地味で、目立たないポジション。
ここなら、誰とも、目を合わせずに済む。 特に、あいつと。
(……くそっ)
俺の頭の中には、一昨日の、陽菜の、悪魔のような囁きが、鮮明に、蘇っていた。
『……今日は、普通の下着だから。内緒だよ?』
『……この中、見てみたい?』
その言葉を思い出すだけで、身体中の血液が、沸騰しそうになる。
俺は、自分の顔が、また、熱くなるのを感じて、慌てて、皿洗いに、意識を戻した。
ホールでは、その噂の中心人物である、日高陽菜が、天使の笑顔を絶やすことなく、次から次へと客をさばいていく。
その姿は、キラキラと輝いていて、眩しくて。
俺は、ホールと厨房を行き来しながら、その姿を、何度も、何度も、盗み見ていた。
彼女の隣で、一緒に働ける。
その事実は、俺の心を、今まで感じたことのない、誇らしい気持ちで満たしてくれていた。
だが、それと同時に、俺の胸の中には、小さな棘のような不安が、ずっと刺さったままだった。
陽菜はすごい。
誰にでも平等に優しい。
客のどんな無茶な要望にも、嫌な顔一つせず笑顔で応える。
その、完璧な接客態度は、リーダーとして百点満点なのかもしれない。
でも、 俺は、そんな彼女の姿を見るたびに、胸の奥がチクリと痛んだ。
その笑顔は、俺だけに向けられた特別なものじゃない。
誰にでも向けられる営業用の笑顔だ。
そう思うと、どうしようもない独占欲が、俺の心を支配する。
俺だけが知っている、彼女の本当の笑顔を。
他の奴らに、見せたくない。
そんな、身勝手で子供じみた感情を、俺は持て余していた。
「……カケル、3番テーブルの、片付け、お願い」
「……おう」
蓮に声をかけられ、俺は、ハッと我に返った。
いかん、いかん。
また、陽菜のことばかり、考えていた。
俺は、空になった皿とカップを手に、バックヤードへと向かう。
その時、俺は気づいてしまった。
陽菜の、あの、完璧な笑顔が、ほんの少しだけ陰っていることに。
額には、玉のような汗が浮かび、その呼吸も心なしか少しだけ荒い。
(……あいつ、もしかして)
無理してるんじゃないか。
昨日から、ずっと立ちっぱなしで動きっぱなしだ。
どんなに体力がある奴だって疲れないはずがない。
でも、あいつは、絶対に弱音を吐かない。
そういう奴なのだ。
俺は、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるのを感じた。
何かしてやりたい。
でも、俺に何ができる?
「休めよ」なんて言ったところで、あいつは「大丈夫」と、笑って言うだけだろう。
俺が、どうすることもできずに、立ち尽くしていると。
俺の心の動きを、すべて見透かしたかのように。 蓮が、動いた。
◇
「はーい、みなさん、ご注目ー!」
蓮のよく通る声が、響き渡った。
クラスメイト全員の視線が、カウンターの前に立つ彼に集まる。
蓮は、まるで舞台役者のように、大げさに両手を広げた。
「本日、我が『天使の癒しカフェ』が大盛況なのは、ひとえに、ここにいる、二人の天使のおかげであります!」
蓮はそう言って、陽菜と舞の肩をポンと叩いた。
陽菜と舞は、きょとんとした顔で、顔を見合わせている。
「そして! そんな天使たちを、陰で支え続けた、我らが秘密兵器! 桜井駆くんにも、大きな拍手を!」
今度は、俺の方に、スポットライトが向けられる。
俺は、「は!?」と、間抜けな声を上げた。
教室中から、温かい拍手と、からかうような笑い声が起こる。
「……おい、蓮。何、言ってんだよ、お前」
「まあ、聞けって。……というわけで、だ。この、本日のMVPである、駆と、陽菜に! 俺たちから、ささやかな、ご褒美を、プレゼントしたいと思う!」
蓮は、そう言ってニヤリと笑った。
その、悪戯っぽい笑顔を見て、俺は嫌な予感がした。
こいつ、絶対に、何か企んでる。
「そのご褒美とは! ……ずばり! 『文化祭、満喫してこいや!』券だ!」
「「「ええええええっ!?」」」
蓮のその言葉に、一番、大きな声を上げたのは、俺と陽菜だった。
「な、何言ってんだよ、蓮! こんな、忙しい時に、抜けられるわけねぇだろ!」 「そ、そうだよ! 私たちがいなくなったら、お店、回らないよ!」
俺と陽菜が、必死に抗議する。
だが蓮は、涼しい顔でそれを一蹴した。
「大丈夫だって。あとは、俺たち、エリート部隊に、任せとけ。な、健太?」
「おうよ! 駆と陽菜は、ゆっくりしてこいって!」
健太まで、蓮の作戦に加担している。
完全に、外堀を埋められてしまった。
「それから、舞」
蓮は、今度は、舞の方を向いた。
「お前も、彼氏さん待たせてんだろ? ちょっとくらい、顔、見せてきてやれよ。俺からの、ささやかな気遣いだ」
「……蓮くん。……あんた、ほんと、そういうとこ、あるわよね」
舞は呆れたように、でも、少しだけ嬉しそうにはにかんだ。
そして、今度は俺たちの方を向くと、ビシッと指をさした。
「そういうわけだから、陽菜、桜井くん! あんたたち二人は、もう一人のリーダーである私からの業務命令として、一時間の休憩に行きなさい!」
「で、でも……」
俺たちが、まだ、口ごもっていると。
蓮は、俺と陽菜の背中を、ぐいっと力強く押した。
「いいから、行けって! 陽菜はリーダーなんだから、他のクラスの出し物、偵察してくるのも、大事な仕事だろ? ……それに」
蓮は、俺の耳元で囁いた。
他の誰にも、聞こえないくらいの小さな声で。
「……お前、陽菜ちゃんのこと、心配なんだろ? 少し、休ませてやれよ。……これは、お前のための、チャンスでもあるんだぜ?」
そのあまりにも的確な一言に。
俺は、もう、何も言い返せなかった。
◇
(……うそ、でしょ)
私は、カケルと二人で、教室から半ば強引に追い出されていた。
背後でガラリと閉まる教室のドア。
その向こう側から、蓮くんたちの、「あとは、任せとけー!」という、楽しそうな声が聞こえてくる。
後に残されたのは、文化祭の喧騒に満ちた廊下と、私と、そして、同じように、呆然と立ち尽くしている、カケルだけだった。
(……二人きり?)
あんな感じで送り出されちゃって。
文化祭二人きりで回れるなんて。
こんな、心の準備も、できていないのに。
どうしよう。
何を、話せばいい?
どんな顔を、すればいい?
いつもと違うこの雰囲気に呑まれてしまって。
私の頭の中は、完全に、パニックだった。
顔が、熱い。
心臓が、壊れそうなくらいに、ドキドキしている。
ちらりと、カケルの横顔を、盗み見る。
彼も、顔を真っ赤にして、気まずそうに、明後日の方向を見ていた。
その、あまりにも純情な反応に。私の緊張していた心が、少しだけ、ほぐれていくのがわかった。
よかった。 ドキドキしているのは、私だけじゃなかったんだ。
「……」
「……」
二人して沈黙。
でも、それは、嫌な沈黙じゃなかった。
甘くて、むず痒くて、そして、どこか、心地よい沈黙。
やがて、カケルが、意を決したように口を開いた。
「……せっかくだし。……どっか、見て、回るか」
その声は、少しだけ震えていた。
でも、その瞳は、真っ直ぐに私を見つめていた。
私は、その不器用な、でも、優しい誘いに。
心の底から嬉しくなって。
今までで、一番、大きな声で頷いた。
「……うん!」
私たちは、顔を見合わせて、少しだけ照れくさそうに笑い合った。
そして、どちらからともなく、ゆっくりと歩き出す。
文化祭の、喧騒の中へ。
二人だけの、特別な時間が、今、始まった。




