第48話 この恋を、走り続けようと思うよ
「うわー、すごい行列! 『天使カフェ』、マジで大人気じゃん!」
私、中村沙織は、二年五組の教室の前にできた長蛇の列を見て、感心したように声を上げた。
隣に立つ親友、小野寺楓は、その光景に少しだけ気圧されたように、私の腕をぎゅっと掴んでいる。
「……私たちも、並ぶの?」
「当たり前でしょ! この日のために、楓はどれだけ頑張ってきたと思ってるのよ! 偵察に行かなくて、どうすんの!」
私がそう言って楓の背中を叩くと、彼女は「う、うん」と小さく頷いた。
夏合宿での、あの朝練。
夏の大会での、勇気を出したドリンクの手渡し。
体育祭で、落馬した彼に真っ先に駆け寄ったあの行動力。
私の親友は、この数ヶ月で、驚くほど強くなった。
引っ込み思案で、いつも私の後ろに隠れていた、あの頃の楓はもういない。
恋は、女の子を強くする。
私は、そんな親友の姿を誇らしく、そして、少しだけ眩しく思いながら、行列の最後尾に並んだ。
私たちの前後に並ぶ客たちは、皆、興奮した様子で、カフェの話をしている。
「日高さんと結城さん、マジで天使らしいよ」
「いや、それだけじゃないんだって。桜井くんの、執事姿が、ヤバいらしい」
「え、マジ!? あの、無愛想な桜井くんが!?」
その会話を聞いて、楓の肩が、びくりと震えたのがわかった。
大丈夫。
わかってる。
今日のこの偵察は、彼女にとって甘いだけじゃない。
きっと、苦くて痛いものになる。
でも、それから目を逸らしていたら、この恋は一歩も前に進めない。
私は何も言わずに、楓の手をそっと握りしめた。
三十分ほど待って、ようやく、私たちの番が来た。
教室の中に、一歩、足を踏み入れる。
その瞬間、私たちは息を呑んだ。
そこは、私たちの知っている、無機質な教室ではなかった。
壁も、天井も、床も。
すべてが、ピンクと白で、可愛らしく飾り付けられている。
そして。
「いらっしゃいませ、天使の庭へようこそ!」
そこに立っていたのは、天使の衣装に身を包んだ、日高陽菜さんと、結城舞さん。
そして、黒いベスト姿の、桜井駆くんだった。
噂は、本当だった。
いや、噂以上だった。
日高さんと結城さんの可愛さは、もちろん反則級だけど。
それ以上に、桜井くんの、あの破壊力はなんなんだ。
いつも、猫背気味な背筋が、ぴんと伸びて、見違えるようにカッコいい。
そのギャップに、私の心臓ですら、少しだけドキリと音を立てた。
隣にいる、楓の顔なんて、もう見れなかった。
「あ、中村さんに、小野寺さん! 来てくれたんですね!」
日高さんが、私たちの姿に気づき、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
その笑顔は、一点の曇りもない太陽みたいな笑顔。
強い。
この子は、本当に強い。
恋敵であるはずの楓にすら、こんな、無防備な笑顔を向けられるなんて。
私は、少しだけ、日高さんのことが羨ましくなった。
「桜井くん、こっちの席、空いてるから、案内してあげて」
「……おう」
桜井くんが、私たちを、席へと案内してくれる。
その、ぎこちない動き。
私たちと、目を合わせようとしない、その態度。
全部、全部、楓が恋に落ちた、いつもの桜井くんだった。
でも、その隣に、日高さんが立つだけで。
彼の纏う空気が、少しだけ和らぐのがわかる。
二人が視線を交わし、小さく笑い合う。
そこには、他の誰も入り込めない、特別な空気が流れていた。
◇
席に着いて、メニューを開く。
でも、文字なんて、一つも頭に入ってこなかった。
私の目は、ホールで働く二人の姿に釘付けになっていた。
桜井くんと、日高さん。
二人は、まるで、長年連れ添った、夫婦のように息がぴったりだった。
桜井くんが戸惑っていると、日高さんが、そっとフォローに入る。
日高さんが困っていると、桜井くんが、黙ってそれを助ける。
言葉なんていらない。
ただ、視線を交わすだけで、お互いの考えていることがわかってしまうような。
そんな、絶対的な信頼関係。
(……すごい)
これが幼馴染。
これが、ずっと隣で生きてきた二人にしか作れない空気。
その、あまりにも眩しい光景に。
私の胸は、ぎゅうっと締め付けられた。
痛い。
苦しい。
息が、うまくできない。
(……私、やっぱり、ダメなのかな)
心のどこかで期待していたのかもしれない。
合宿での、あの出来事。
もしかしたら、ほんの少しだけでも、私の入る隙間が、あるんじゃないかって。
でも、やっぱり違うのかもしれない。
彼の、本当の特別な笑顔は。 日高さんの隣にある時だけ咲く花なんだ。
その残酷な事実を、私は、今、ままざと見せつけられていた。
「……楓、大丈夫?」
隣で、沙織が、心配そうに私の顔を覗き込む。
「……うん。……大丈夫」
私はそう言って、無理やり笑顔を作った。
でも、その笑顔は、きっと、ひどく歪んでいたと思う。
涙が、こぼれ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
ここで、泣いたらダメだ。
それは、私のプライドが許さなかった。
◇
楓は、大丈夫なんて言ってるけど。
その顔は、今にも泣き出しそうだった。
当たり前だ。
あんな、見せつけられて。
平気なわけない。
私は何も言わずに、テーブルの下で、楓の冷たくなった手を、ぎゅっと握りしめた。
腹が立つ。
桜井くんにも、日高さんにも。
ううん、違う。
一番、腹が立つのは、何もできない自分自身だ。
親友が、こんなに傷ついているのに。
私は、ただ、隣にいることしかできない。
やがて、注文したパンケーキが、運ばれてきた。
運んできてくれたのは、桜井くんだった。
「……お待たせ」
彼は、気まずそうに、私たちのテーブルに皿を置く。
その視線は、楓と私を交互に見て彷徨っていた。
彼も、わかっているのだ。
自分たちが、楓を傷つけていることに。
でも、どうすることもできない。
不器用で優しい、彼らしい反応だった。
楓は、何も言わずに、パンケーキを一口食べた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……おいしい」
その声は、震えていた。
でも、その瞳には、さっきまでの迷いの色はもうなかった。
ただ真っ直ぐに、前を見つめていた。
◇
パンケーキは、すごく甘かった。
でもそれ以上に、優しい味がした。
きっと、これを作った人たちの、たくさんの想いが詰まっているんだろう。
私は、もう一度、桜井くんと日高さんの姿を見た。
二人は、楽しそうに笑い合っている。
やっぱり、お似合いだ。
悔しいくらいに。
でも。
(……それでも)
合宿の朝に二人でストレッチをしたあの時間...。
そして、彼が私の胸に触れたあの瞬間に感じた熱。
夏の大会で、タオルとスポーツドリンクを受け取ってくれたときに感じた安心感。
体育祭で、彼が、騎馬から落ちてしまったときに感じた不安と焦燥感。
そして、今、この美味しいパンケーキを作ってくれた、彼と、彼の仲間たちに感じる温かい気持ち。
こうした気持ちが混ざり合って、私の彼への想いは、どんどん大きくなっていく。
この恋は、叶わないのかもしれない。
わかってる。 でも、それでも、いい。
私は、桜井駆という、一人の男の子を、好きになった。
その事実に、誇りを、持ちたい。
この、苦しくて、でも、キラキラした宝物みたいな気持ちを。
私は、最後まで、大切に抱きしめていよう。
私は、顔を上げた。
そして、親友の温かい手を、ぎゅっと握り返した。
「……沙織、ありがとう。……私、もう、大丈夫」
私は、心からの笑顔でそう言った。
沙織は、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに、いつもの太陽みたいな笑顔で頷いてくれた。
「……そっか。……なら、よかった」
私たちは、顔を見合わせて笑い合った。
沙織……。
私は、私なりに、この恋を、走り続けようと思うよ。




