第46話 葵のメロディ、健太の誓い
「いらっしゃいませー! 天使の特製パンケーキ、いかがですかー!」
クラスの女子たちの、甲高い声が飛び交う。
俺たちの「天使の癒しカフェ」は、昼時を過ぎても、客足が途絶えることはなかった。
むしろ、噂が噂を呼び、廊下には、さっきよりも長い行列ができている。
俺、佐藤健太は、ホールと厨房を行き来しながら、額の汗をぐいっと拭った。
忙しい。
めちゃくちゃ、忙しい。
でも、それ以上に楽しかった。
クラスの奴らと、一つの目標に向かって馬鹿みたいに汗をかく。
こういうの、嫌いじゃない。
ちらりと、ホールで働く親友の姿を見る。
俺の親友、桜井駆は、最初は石みたいに固まっていたくせに、今では幼馴染の日高陽菜さんのサポートもあってか、なんとかウェイターの仕事をこなしていた。
女子客から「あの執事天使さん、カッコいい……」なんて、ひそひそ言われているのを聞いて、俺は、少しだけ、鼻が高い気持ちになった。
日高さんも、楽しそうだ。
天使の衣装は、反則的なまでに似合っているし、何より駆が隣にいるのが嬉しいのだろう。
その笑顔は、いつもより何倍も輝いて見えた。
(……よかったな、お前ら)
俺は、親友たちの不器用な恋の行方を、心の中で応援した。
と、その時だった。
俺は、壁にかかった時計を見て、はっとした。
やばい。
もう、こんな時間か。
「わりぃ、みんな! 俺、ちょっとだけ抜けるわ!」
「え、健太? どこ行くんだよ?」
駆が、不思議そうな顔で、俺に尋ねる。
「野暮用だよ、野暮用! すぐに戻ってくるから、あとは頼んだぞ!」
俺はそう言って、クラスの奴らにぺこりと頭を下げると、カフェのエプロンを外し、教室を飛び出した。
向かう先は、体育館だ。
これから、俺の世界で一番大切な人の、晴れ舞台が始まるのだから。
◇
体育館の中は人でごった返していた。
吹奏楽部の文化祭コンサート。
ステージの上では、部員たちが最後の音合わせをしている。
俺は、人混みをかき分け、一番前の席へと向かった。
いた。
ステージの中央やや左。
クラリネットを手に、真剣な顔で、楽譜を見つめている俺の彼女。
星野葵だ。
ステージの上の葵は、いつも俺といる時とは、全く違う顔をしていた。
俺と二人きりの時、彼女は甘えて、俺の腕にそっと寄り添ってきたりする。
その小動物みたいな仕草がたまらなく可愛い。
でも、今、ステージの上にいる彼女は、凛としていて、美しくて、そして少しだけ遠い存在のように感じられた。
長い黒髪をきゅっと結び、真剣な眼差しでクラリネットを構える姿。
あの日、俺が告白した、ただの可愛い女の子じゃない。
自分の夢に向かって、ひたむきに努力を続ける、一人の誇り高い演奏家だ。
俺は、葵のことが本当に大好きで、そして心の底から尊敬していた。
だが、問題があった。
俺たちは、付き合ってもうすぐ一年になるというのに、まだ、キスすらしたことがないのだ。
手を繋ぐのは当たり前になった。
デートの帰り道、二人きりになった公園で、抱きしめたこともある。
でも、その先へ進めない。
俺が、少しでもいい雰囲気になって、顔を近づけようとすると、彼女はびくりと身体をこわばらせてしまうのだ。
その、怯えたような顔を見ると、俺はそれ以上、何もできなくなる。
彼女を、怖がらせたくない。
彼女に、嫌われたくない。
その臆病な気持ちが、俺の、一歩を踏みとどまらせる。
要するに、俺もヘタレなのだ。
駆のことを、とやかく言える立場じゃない。
体育祭の後、蓮に相談した時のことを思い出す。
『女はな、そういう、小さな積み重ねで安心するんだよ』
蓮の、あの大人びたアドバイス。
あれから俺は、少しだけ変わろうと努力した。
焦らない。
でも、自分の気持ちはちゃんと言葉にして伝える。
「可愛い」って、思った時は、素直にそう言う。
「好きだ」って、思った時は、照れずにそう伝える。
葵はそのたびに顔を真っ赤にして、嬉しそうにはにかんでくれる。
その笑顔を見るだけで、俺は幸せだった。
キスなんて、まだできなくても。 この、プラトニックで純粋な時間が永遠に続けばいいと本気で思っていた。
やがて、ステージの照明が、ふっと暗くなる。
そして、指揮者の合図と共に、壮大な、一曲目の演奏が始まった。
葵がクラリネットを構える。
その横顔は、俺が、今まで見た中で一番美しかった。
真剣な眼差し。
白い指が、キーの上を滑るように踊る。
彼女の唇から紡ぎ出される、澄んだ美しいメロディ。
その音色が、体育館全体に響き渡る。
俺は息をすることすら忘れて、その姿に見惚れていた。
葵はすごい。
毎日、毎日、朝練も、放課後の練習も、一度も休まずに続けてきた。
俺が、陸上の練習で、クタクタになっている時も。
彼女は、黙々と、基礎練習を繰り返していた。
そのひたむきな努力を、俺は知っている。
だからこそ、今、この瞬間、ステージの上で輝いている彼女の姿が、誇らしくて、愛おしくて、たまらなかった。
(……俺、葵のこと、幸せにできるかな)
ふと、そんな不安が胸をよぎる。
俺は、ただ走るのが速いだけの馬鹿な男だ。
こんな繊細で、美しいものを奏でる彼女に、俺は、釣り合っているのだろうか。
キスすらできないヘタレな俺が。
彼女を、本当に幸せにできるのだろうか。
演奏が終わる。
割れんばかりの拍手。
俺も、夢中で手を叩いた。
葵が、客席に一礼する。
その時、彼女の視線が、客席を彷徨い。
そして、俺の姿を見つけた。
彼女は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、次の瞬間。
今まで見た中で、一番嬉しそうな、最高の笑顔で、ふわりと微笑んでくれた。
その笑顔を見た瞬間。
俺の、心の中のすべての不安が、すうっと消えていくのがわかった。
バカだな、俺は。
釣り合うとか、釣り合わないとか。
そんなことどうでもいい。
俺は、葵が好きだ。
葵のあの笑顔を守りたい。
そのためなら、俺は、なんだってできる。
焦らなくていい。
俺たちのペースで、ゆっくりと進んでいけばいいんだ。
いつか彼女が、本当に心を開いてくれる、その日まで。
俺は、彼女の一番近くで、彼女を支え続ける。
そう心に誓った。
コンサートが終わり、俺は、体育館の出口で、葵が出てくるのを待っていた。
手には、さっき、自販機で買った彼女の好きなミルクティー。
「健太!」
やがて、人混みの中から、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
葵だった。
その顔は、達成感と、少しの興奮で、キラキラと輝いている。
「……見てて、くれたんだ」
「……おう。最高だったぜ」
俺が、ミルクティーを差し出すと、彼女は「ありがとう」と嬉しそうにそれを受け取った。
「……なあ、葵」
「ん?」
「……今日の演奏、本当にカッコよかった。……俺、葵のこと、世界で一番尊敬してる」
俺のその不器用な、でも、真っ直ぐな言葉に。
葵は、一瞬だけきょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間。 顔を耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
「……あり……がと」
か細い声で、そう呟く彼女の姿が、どうしようもなく愛おしくて、 俺は、自分の心臓が温かいものでいっぱいになるのを感じていた。
2話連続で、ちょっと横道でごめんなさい。
次は、カケルくんと陽菜ちゃんの視点に戻ります。




