第45話 文化祭に侵入せよ
「……で、どうなのよ、航くん。今回の潜入調査の目的は、もちろん、あのヘタレお兄ちゃんが、ちゃんとお姉ちゃんをエスコートできているかの確認よね?」
俺、桜井航は、隣で腕を組みながら偉そうに言う日高莉子の言葉を、軽く聞き流した。
高校の文化祭。
校門をくぐった瞬間から、俺たちの知っている「学校」とは全く違う、カラフルで、騒がしくて、そして、どこか甘い匂いのする空気が、俺たちを包み込んでいた。
「目的は、偵察だ。兄貴たちが、ちゃんとやってるかのな。別に、デートの監視じゃねぇよ」
「同じことじゃない! いい? 私たちの完璧な作戦で、あの二人の距離は、夏休み前より、ぐっと縮まったはずなの。この文化祭は、その成果を確かめるための、大事な実地試験なんだから!」
莉子は、まるで教官のように、ビシッと指を立てて力説する。
まったく、こいつは、どこでそんな言葉を覚えてくるんだか。
俺たちは、招待客用のパンフレットを片手に、人でごった返す廊下を、進んでいく。
「それにしても、すごい人ね……。これが、高校の文化祭……」
「まあな。中学のとは、規模が違う」
廊下のあちこちで、お揃いのクラスTシャツを着た高校生たちが、楽しそうに笑い合っている。
壁には、素人とは思えないくらいクオリティの高い装飾が施され、どこからか、バンドの演奏や、甘い食べ物の匂いが漂ってくる。
これが、兄貴と陽菜姉ちゃんが、毎日を過ごしている世界。
俺たちの、ほんの数年先の、未来。
そう思うと、胸が、少しだけ、高鳴った。
「とりあえず、一通り、見て回るか。敵情視察も、兼ねてな」
「了解、隊長!」
俺たちは、まず、一階のクラス展示から見て回ることにした。
「なにあれ、『VRお化け屋敷』ですって! ハイテクね!」
「いや、VRって言っても、どうせ、アイマスクさせて、周りで脅かすだけだろ。幼稚だな」
「こっちは、『プラネタリウム』……。うわぁ、カップルしか入ってないじゃない! 不純よ!」
「まあ、文化祭なんて、そんなもんだろ」
俺たちは、辛口批評をしながら、廊下を進んでいく。
だが、その時だった。
俺たちの目の前で、信じられない光景が、繰り広げられた。
模擬店のベンチに座る、一組のカップル。
二人の間には、一つの、大きなクリームソーダ。
男子生徒が、女子生徒の耳元に何かを囁くと、彼女は、顔を真っ赤にして彼の肩を軽く叩いた。
そして二人は顔を寄せ合い、一本のグラスに刺さった、二本のストローに。同時に、口をつけた。
空気が、甘い。
甘すぎて、虫歯になりそうだ。
「……」
「……」
俺と莉子は、固まった。
なんだ、あれは。
あんな、少女漫画の中でしか、許されないような行為が。
この現実世界で、白昼堂々と行われているというのか。
◇
(……な、なんなの、あの人たち……)
私の頭の中は、完全にフリーズしていた。
間接キス。
とか、そういうレベルじゃない。
直接、同じグラスから同じタイミングで。
顔と顔が、くっついちゃいそうなくらい、近い距離で。
そこには私たちには見えない、キラキラとしたピンク色のフィルターがかかっているようだった。
いつも、私が少女漫画を読んで、キュンキュンしているあの世界が。
今、目の前で、現実の生身の人間によって繰り広げられている。
情報量が、多すぎる。
私の、中学二年生の脳みそでは処理しきれない。
◇
「……わ、航くん。……高校生って、いつも、あんな感じなの?」
莉子が、震える声で尋ねてきた。
「……さあな。……多分、突然変異種だろ」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。
俺たちの知っている恋愛は、もっとこう、プラトニックで純粋なもののはずだ。
手を繋ぐだけで、ドキドキして。
目が合うだけで、顔が赤くなって。
あんな、あんな、ふしだらな行為、断じて認められない。
俺たちが、カルチャーショックで呆然としていると、今度は、別のカップルが、俺たちの横を通り過ぎていった。
手を繋いでいる。
それだけじゃない。
男子の方が、女子の頭を、ぽん、と優しく撫でた。
女子は、顔を真っ赤にして、嬉しそうにはにかんでいる。
頭、ぽん。
天然記念物級の、頭ぽんだ。
「……」
「……」
俺と莉子は、もう、何も言えなかった。
すごい。
これが、高校生。
これが、リアルな高校生カップル。
俺たちが、今まで、兄貴と陽菜姉ちゃんに仕掛けてきた、数々の作戦。
それが、まるで、子供のおままごとのように、思えてきた。
俺たちは、まだお子様だったのだ。
「……よし、航くん。ちょっと、寄り道しましょう」
「……どこへだよ」
「あそこの、お化け屋敷よ。……今の、甘ったるい空気、あそこの冷気で、浄化しないとやってられないわ」
莉子はそう言って、さっき俺が「幼稚だ」と切り捨てた、お化け屋敷を指さした。
まあ、いいか。 俺も少し、頭を冷やしたかった。
◇
「きゃあああああああっ!」
お化け屋敷に入って、三十秒。
俺の腕には、さっきまでの威勢はどこへやら、蝉のようにしがみつく莉子の柔らかな感触があった。
「……おい、莉子。うるせぇぞ」
「だ、だって! 今、足元から、手が出てきたのよ! 見たでしょ!?」
「見てねぇよ。……つーか、お前、もしかして、怖いのか?」
「こ、怖くなんてないわよ! これは、その、驚いただけ! そう、サプライズよ!」
強がってはいるが、その声は、完全に震えている。
暗闇の中、時折光る、不気味な照明。
どこからか聞こえる、うめき声。
確かに、高校生が作ったにしては、よくできている。
「……もう、やだ、帰りたい……」
「はぁ……。ほら、行くぞ」
俺は、ため息をつきながら、莉子の手をぐいと引いた。
その手は、冷たくて、小刻みに震えていた。
こいつ、意外と、怖がりなんだな。
いつもは、陽菜姉ちゃんの前でも、俺の前でも、強気でお姉さんぶってるくせに。
そのギャップが、なんだか少しだけ。
可愛い……なんて、思ってしまった。
「……航くんの、バカ」
「なんでだよ」
「……なんでもない」
莉子は俯いたまま、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
その小さな手の、温もりに。
俺の心臓が、少しだけドキリと音を立てたのは、ここだけの秘密だ。
◇
お化け屋敷から、這うようにして脱出した俺たちは、ようやく本来の目的地へと、向かうことにした。
二年五組、「天使の癒しカフェ」。
兄貴と、陽菜姉ちゃんがいる、その場所へ。
「……ここか」
二年五組の教室の前には、信じられないくらいの、長蛇の列ができていた。
最後尾に並ぶと、前の客たちが、興奮した様子で話しているのが聞こえてくる。
「マジで、天使がいるらしいぜ」
「写真撮っても、いいのかな?」
「いや、撮影は禁止だって。でも、見るだけでも、価値あるって!」
(……天使?)
俺と莉子は、顔を見合わせた。
一体、中で、何が起こっているんだ。
三十分ほど待って、ようやく俺たちの番が来た。
教室の中に、一歩、足を踏み入れる。
その瞬間、俺たちは息を呑んだ。
そこは、俺たちの知っている無機質な教室ではなかった。
壁も、天井も、床も。
すべてが、ピンクと白で、可愛らしく飾り付けられている。
そして。
「いらっしゃいませ、天使の庭へようこそ!」
その声の主を見て。
俺は、固まった。
そこに立っていたのは、紛れもない、俺の、兄貴だった。
黒いベストに、白いシャツ、小さな羽を付けて。
いつも、猫背気味な背筋がぴんと伸びて、見違えるようにカッコいい。
そして、その隣には、天使の衣装に身を包んだ、陽菜姉ちゃんが立っていた。
フリルがたっぷりとあしらわれた、真っ白なエプロン。
淡いピンク色の、ふわりとしたワンピース。
頭には、天使の輪っか。
背中には、白い羽。
その姿は、反則的なまでに、可愛かった。
「……か、カケルお兄ちゃん!? お姉ちゃん!?」
莉子が、素っ頓狂な声を上げる。
俺たちの姿を認めた兄貴と陽菜姉ちゃんは、驚いたように目を見開いた。
「……航!? 莉子ちゃんも! なんで、ここに……」
「二人とも、来てくれたんだ! いらっしゃい!」
兄貴が、狼狽えているのとは対照的に、陽菜姉ちゃんは、嬉しそうに、ぱたぱたとこちらへ駆け寄ってきた。
「すごい! 二人とも、すごく、似合ってるよ!」
「えへへ、ありがとう」
「……うるせぇ」
莉子の素直な賞賛に、陽菜姉ちゃんは嬉しそうにはにかみ、兄貴は、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
その、わかりやすい反応に、俺は、少しだけ安心した。
よかった。
こいつは、まだ、俺の知っている、ヘタレな兄貴のままだ。
俺たちが席に案内されると、周りの女子生徒たちが、ひそひそと噂しているのが聞こえてきた。
「ねぇ、あの子たち、桜井くんと日高さんの、弟妹かな?」
「絶対そうだよ! めっちゃ、可愛い!」
その時だった。
俺たちのテーブルに、陽菜姉ちゃんの親友の、舞さんがやってきた。
「航くんと、莉子ちゃんだよね? こんにちは! 陽菜から、いつも話は聞いてるよ」
「あ、どうも」
「二人とも、すっごい可愛いね! お姉ちゃんたちに、そっくり!」
舞さんはそう言って、莉子の頭を優しく撫でた。
そして俺の頭も。
「……っ!」
俺と莉子は、同時に固まった。
なんだ、この人。
距離感が、近い。
それに、すごく、いい匂いがする。
「よかったら、これ、サービスしてあげる! 天使の、特製パフェ!」
舞さんはそう言って、メニューにはない豪華なパフェを、俺たちの前に置いてくれた。
俺たちは、もう、どう反応していいかわからなかった。
ただ、顔を真っ赤にして、俯くことしかできない。
俺たちが、いつも、兄貴と陽菜姉ちゃんにしていることを。
今、俺たちは、完全にやられている。
「……ほら、航くん、莉子ちゃん。食べなよ」
陽菜姉ちゃんが、楽しそうに笑っている。
その横で、兄貴も、少しだけ意地の悪い顔で笑っていた。
ちくしょう。 覚えてろよ。
俺は、心の中で、そう悪態をつきながら、目の前の甘くて美味しそうなパフェを、スプーンですくった。
高校の文化祭。
それは、俺たちが思っていたよりも、ずっと手強くて。
そして、どうしようもなく、魅力的な場所だった。
本日はもう一話公開予定です。




