第44話 天使の庭と、秘密のクッキー
文化祭、当日。
朝のホームルームが終わると、二年五組の教室は、戦場のような熱気と、祭りの前の高揚感に包まれていた。
俺、桜井駆は、厨房エリアに割り当てられた教室の隅で、山のように積まれた紙皿とカップを並べながら、その喧騒をどこか遠くに感じていた。
キッチン係。
俺が自ら望んだ、この地味で目立たないポジション。
ここなら、誰とも目を合わせずに済む。
特に、あいつと。
「はーい、みんな! 衣装、着てみたよー!」
陽菜の弾むような声が教室に響き渡った。
その瞬間、準備を進めていたクラスメイトたちの動きが、ぴたりと止まる。
全員の視線が、教室の後ろ、カーテンで仕切られた即席の更衣室へと、一斉に注がれた。
最初に、カーテンの隙間から、ひょっこりと顔を出したのは、舞だった。
そして、少しだけ恥ずかしそうに、はにかみながら、陽菜がその隣に並ぶ。
次の瞬間、教室は、爆発した。
「「「うおおおおおおっ!」」」
「「「か、可愛いいいいいいいっ!」」」
男子たちの野太い雄叫びと、女子たちの甲高い悲鳴が入り混じる。
そこに立っていたのは、紛れもない二人の天使だった。
フリルがたっぷりとあしらわれた、真っ白なエプロン。
その下には、淡いピンク色の、ふわりとしたワンピース。
頭には、小さな天使の輪っか。
背中には、可愛らしい白い羽。
「やばい、やばいって! 日高さんと結城さん、マジで天使じゃん!」
「あのワンピース、ちょっと短すぎないか!? いや、最高です!」
「そして、時折、チラリとワンピースの裾から見える『フワフワパンツ』……! 企画した奴、天才かよ!」
男子たちの遠慮のない、だが、賞賛に満ちた声が飛び交う。
俺はその光景を、のれんの隙間から呆然と見つめていた。
昨夜、俺の理性を粉々に砕け散らせた、あの、反則的な衣装。
教室の明るい照明の下で、大勢の視線に晒されると、その破壊力はさらに増しているように見えた。
そして、俺の頭の中には、昨夜の陽菜の、小悪魔のような囁きが、鮮明に蘇っていた。
『……今日は、普通の下着だから。内緒だよ?』
『……この中、見てみたい?』
(……くそっ)
俺は、自分の顔がまた熱くなるのを感じて、慌てて皿洗いの準備に意識を戻した。
「お待たせ。俺様も、準備、完了だぜ?」
今度は、女子たちから、悲鳴に近い歓声が上がった。
見ると、そこには、黒いベストと、白いシャツという、執事のような格好をした、蓮が立っていた。背中に小さな羽が取り付けられている。
長い手足に、その衣装は、腹が立つくらい似合っていた。
「よぉ、駆。サボってんじゃねーぞ」
蓮が、俺の隣に来て、肩をポンと叩いた。
「……サボってねぇよ」
「ふーん? 陽菜ちゃんのこと、見てただろ」
「……見てねぇ」
「はいはい。まあ、気持ちはわかるけどな。あれは、マジで、ヤバい。俺の彼女に、内緒にしとかねぇと」
蓮は、そう言って、楽しそうに笑った。
こいつには、何もかも、お見通しだ。
やがて、開店時間を告げるチャイムが鳴り響く。
カフェの入り口に、続々と、客が押し寄せてきた。
「「いらっしゃいませ、天使の庭へようこそ!」」
陽菜たちの、明るくて可愛らしい声が、ホールに響き渡る。
俺は、厨房の喧騒の中で、その声を遠くに聞きながら、ひたすらに皿を洗い続けた。
時々、のれんの隙間から、ホールの様子を盗み見る。
陽菜は、天使の笑顔で客の注文を取り、料理を運んでいた。
その、生き生きとした姿。
楽しそうな、横顔。
それを見ているだけで、俺の、ささくれ立っていた心も、少しだけ、癒される気がした。
「うわ、マジだ! 二年五組のカフェ、天使がいるって、マジだったぜ!」
「やべぇ、レベル高すぎ……!」
廊下から、そんな声が聞こえてくる。
どうやら、俺たちのカフェの評判は、すでに、広まっているらしい。
と、その時だった。
見慣れた、そして、見たくもない顔が、客として入ってきた。
神崎だった。
あいつは、数人の取り巻きを連れて、堂々と席に着くと、大きな声で陽菜を呼びつけた。
「日高! 注文、いいか?」
「あ、はい! ただいま!」
陽菜が、慌てて神崎のテーブルへと向かう。
神崎は、メニューも見ずに、陽菜の顔を、じっと見つめて言った。
「俺は、お前が淹れてくれた、愛情たっぷりの紅茶が飲みたいな」
その、あまりにも、キザで、馴れ馴れしいセリフに。
俺は、握りしめていたスポンジを、ミシミシと音を立ててしまった。
体育祭の時とは、違う。
もっと、じっとりとした、不快な感情。
あいつの、陽菜を見る目は、ただの好意じゃない。
まるで、珍しいトロフィーでも眺めるような、自分のものにしたいっていう、いやらしい所有欲に満ちた目だ。そのことに、俺は、気づいていた。
◇
(……困ったな)
神崎くんの、熱っぽい視線に、私は、どう反応していいか、わからなかった。
彼の、好意は、嬉しい。
でも、私は、その気持ちに、応えることはできない。
私の心の中には、もう、カケルしかいないのだから。
「……紅茶ですね。かしこまりました」
私は、営業スマイルを、顔に貼り付けて、そう答えるのが精一杯だった。
ちらりと、厨房の方を見る。
のれんの隙間から、カケルの、険しい顔が、覗いていた。
その顔は、どこか怒っているように見える。
(……また、ヤキモチ、焼いてくれてるのかな)
そう思うと、少しだけ、嬉しくなった。
私が、そんなことを考えていると。
ふと、蓮くんと舞が顔を見合わせて、ニヤリと笑ったのが見えた。
その、悪戯を企んでいる子供のような二人の横顔を、私は、不思議な気持ちで眺めていた。
◇
神崎が、紅茶を飲み終えて、ようやく帰っていった頃。
カフェの入り口が、また、騒がしくなった。
「よぉ。噂の、天使カフェってのは、ここか?」
その下品な声に、俺は、びくりと肩を震わせた。
西園寺先輩だった。
神崎と同様に、数人のチャラついた仲間を連れて、彼は、そこに立っていた。
その獣のような視線が、ホールで働く陽菜の姿を捉える。
「へぇ。こりゃ、たいした天使だな」
先輩が、下卑た笑みを浮かべたその瞬間。
すっと、その前に、一人の男が立ちはだかった。
蓮だった。
「いらっしゃいませ。……と、言いたいところですが、あいにく、満席でして」
蓮は、完璧な営業スマイルを、顔に貼り付けていた。
だが、その目は全く笑っていない。
「あ? 満席? いくつか、空いてる席、あんだろ」
「いえ、すべて、予約で埋まっておりまして。申し訳ありませんが、お引き取り願えますか、先輩」
蓮の、その丁寧な、だが、有無を言わせない口調に、西園寺先輩の顔が、みるみるうちに険しくなっていく。
「……なんだよ、その口の利き方は。客だぞ、俺は」
「お客様は神様ですか? ……残念ですが、うちは、天使のカフェなんで。神様より天使の方が偉いんですよ。……それに」
蓮は、一歩、前に出た。
そして、先輩の耳元で囁いた。
その声は、俺には、聞こえなかった。
だが、その言葉を聞いた、西園寺先輩の顔が、一瞬で、青ざめたのが、わかった。
彼は、何か、悪態をつくと、仲間たちと共に、すごすごとその場を立ち去っていった。
蓮は、その背中を、冷たい目で見送ると、何事もなかったかのように、いつもの、爽やかな笑顔に戻った。
俺は、その一部始終を、のれんの陰から呆然と見つめていた。
あいつ、一体、何者なんだ……。
◇
カフェが、一番のピークタイムを迎えた昼過ぎ。 事件は起こった。
「あれ!? 田中、そのベスト、小さくねぇか!?」
健太の大きな声が、バックヤードに響き渡る。
見ると、ホールスタッフの一人である、サッカー部の田中が、パツパツのどう見てもサイズの合っていないベストを着て、途方に暮れていた。
「だよな!? これ、絶対、サイズ間違ってるって!」
「どうしよう! ホールスタッフが、一人足りない!」
クラス委員長が、青い顔で、叫ぶ。
その、あまりにも、わざとらしい展開に、俺は、既視感を覚えた。
これは、まさか。
「しょーがねぇな。……それなら、俺たちの、秘密兵器を、投入するしかねぇな」
蓮が、待ってましたとばかりに、そう言った。
そして、その、ニヤリと笑う顔が、俺の方を、向いた。
「……は?」
俺が、間抜けな声を上げるのと。
蓮と、健太が、俺の両腕を、がっしりと掴んだのは、ほぼ、同時だった。
「おい、待て! 何するんだよ!」
「いいから、来いって、駆!」
「お前には、秘められた、接客の才能があんだよ!」
俺は、なすすべもなく、バックヤードから、引きずり出されていく。
そして、目の前に、一枚の、黒いベストが、差し出された。
それは、この前、陽菜が、俺の身体を、採寸して、作っていた、あの、衣装だった。
「さあ、着てみろよ、駆。お前のための、シンデレラフィットの、衣装だぜ?」
蓮が、悪魔のように、微笑む。
俺は、観念して、その衣装に、袖を通した。
ぴったりだった。
まるで、俺の身体のために、作られたかのように。
ちくしょう。 完全に、ハメられた。
◇
「……え?」
バックヤードから、カケルが出てきた。
黒いベストに、白いシャツ。小さな羽を付けて。
いつも、猫背気味な彼の背筋が、ぴんと伸びて、見違えるようにカッコいい。
その姿を見た瞬間、私の心臓は、大きく跳ねた。
「……か、カケル? なんで……」
「……色々、あったんだよ」
カケルは、顔を真っ赤にして、気まずそうに目を逸らした。
その、照れたような仕草が、可愛くて、愛おしくて。
私は、思わず、吹き出してしまった。
「ふふっ。……すごく、似合ってるよ」
「……うるせぇ」
彼が、私の、隣にいる。
同じ、ホールで、同じ仕事をする。
そのことが、嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。
◇
「あの、すみませーん!」
女子生徒の、グループが、俺を手招きしている。
俺は、びくりとして身体をこわばらせた。
無理だ。
女子と、話せない。
俺が固まっていると、陽菜が、俺の背中を、ぽんと優しく押してくれた。
「大丈夫だよ。私がついてるから」
その、一言で。
俺の、心の中の恐怖が、すうっと消えていくのがわかった。
俺たちは、二人で、客席へと向かった。
それから、数時間が夢のように過ぎていった。
最初は、ぎこちなかった俺も、陽菜のサポートのおげで、少しずつ接客に慣れていった。
陽菜と、二人で働く。
声を掛け合う。
時々、手が触れ合う。
その一つひとつが、俺にとって新鮮で刺激的で、そして、どうしようもなく幸せな時間だった。
やがて客足が少しだけ途絶えた午後の時間。
陽菜が俺の袖を、くいっと引いた。
「カケル、ちょっと来て」
彼女はそう言って、俺をバックヤードの隅へと連れて行った。
そこは、ホールからの光が届かない、少しだけ薄暗い空間だった。
「……どうしたんだよ」
◇
私の、エプロンのポケットの中。
そこには、小さな、秘密が隠されている。
カフェで出しているクッキーは、みんなで、レシピ通りに、たくさん焼いたもの。
でも、この、小袋の中身は、違う。
昨日の夜、みんなが帰った後、一人でこっそり焼いた特別なクッキー。
形が、少しだけいびつなハート型。
バターも、お砂糖も、ほんの少しだけ多めに入れた。
そして、一番大切な、秘密の材料。
私の、「美味しくなあれ」っていう、おまじないと、「カケルに、喜んでもらえますように」っていう、たくさんのたくさんの私の気持ち。
それが、このクッキーを「特別」にしているのだ。
「……うん。……これ、あげようと思って」
私は、そう言って、エプロンのポケットから、小さな、可愛らしいラッピングをしたクッキーを取り出した。
「……これ?」
「うん。お店で出してるのとは、ちょっとだけ、違うの。……カケル専用の、特別なクッキー。……昨日の夜、頑張って、作ったの。……いつも、準備、手伝ってくれてる、お礼」
◇
手作りの、クッキー。
俺専用の、特別な。
その言葉の、破壊力は、凄まじかった。
俺の、胸は、温かいもので、いっぱいになる。
「……サンキュ。……後で、食う」
「うん。……あ、でも、よかったら、今、一個、食べてみない? 感想、聞きたいな」
「……え?」
俺が戸惑っていると。 陽菜は、小袋の中から一枚のクッキーを取り出し。
そして、悪戯っぽく微笑んだ。
その顔は、昨夜、俺の理性を、粉々に砕け散らせた、あの、小悪魔の顔だった。
「はい、カケル。……あーん」
そのあまりにも破壊力の高い一言に。
俺の思考は、完全にフリーズした。
バックヤードの、薄暗い二人だけの空間で。
俺は茹でダコみたいに真っ赤になって固まることしかできなかった。
陽菜の潤んだ瞳が、俺の答えを待っている。
俺は意を決して、ゆっくりと口を開けた。
甘いバターの香りが、俺たちの間に漂っていた。




