第42話 天使の衣装と、策士のたくらみ
手芸用品店での、あの気まずくて甘酸っぱい買い出しから数日が経ち、俺たちのクラス、二年五組は、本格的な文化祭準備期間に突入していた。
放課後の教室は、トンカチの音、ペンキの匂い、そして生徒たちの笑い声が入り混じった、独特の熱気に包まれている。
教室の後ろ半分は、内装係が使う作業スペースになっていた。
俺、桜井駆は、健太と一緒に、カフェのカウンターになるであろう大きな木の板に、ヤスリをかけているところだった。
「うっし、こんなもんか。どうだ、駆? ツルツルになっただろ」
「……おう。上出来だな」
健太は、満足そうに自分の仕事ぶりを眺めている。
こういう、黙々と身体を動かす作業は嫌いじゃなかった。
むしろ、得意な方だ。何も考えずに、目の前の作業に没頭できる。
そう。余計なことを考えずに済む。
例えば、教室の前半分で繰り広げられている、あの、キラキラとした世界のことを。
教室の前半分は、衣装係の女子たちが占領していた。
その中心にいるのは、もちろん陽菜と舞だ。
ミシンがカタカタと軽快な音を立て、色とりどりの布やレースが、魔法のように、可愛らしい衣装へと姿を変えていく。
俺は、ヤスリをかける手を止め、そっとその光景を盗み見た。
陽菜が、白い布地に、フリルのレースを縫い付けている。その横顔は、真剣で、集中していて、そして信じられないくらい綺麗だった。
時々、舞と何か話して、楽しそうに笑う。
その笑顔を見るたびに、俺の心臓は、ぎゅっと締め付けられるような、甘い痛みを覚えた。
(……いいな)
あの中に入っていきたい、なんて、おこがましいことは思わない。
ただ、あの陽菜の笑顔を、もっと近くで見ていたい。
そう思っただけだ。
「……おい、駆。手ぇ止まってんぞ。見とれてんじゃねーよ」
健太が、俺の脇腹を肘で突いてくる。
「……見てねぇよ」
「嘘つけ。顔、真っ赤だぞ。……まあ、気持ちはわかるけどな。日高さん、ああいうことさせるとマジで輝いてんな」
「……知ってる」
俺がぽつりとそう答えると、健太はニヤリと笑った。
その時だった。
教室の後ろのドアが、また、ガラリと開いた。
「よぉ。準備進んでるか?」
現れたのは、神崎だった。
あいつ、また来やがった。
神崎は、俺たち内装係には目もくれず、一直線に、陽菜たちがいる衣装係の輪の中へと入っていく。
「日高すごいな。手先、器用なんだな」
「あ、神崎くん。……う、うん。まあ、これくらいなら」
「今度、俺のジャージのゼッケン付け直してくれよ。お前にやってもらったら速く走れそうな気がする」
「え、えぇ……?」
神崎の、その、あまりにも馴れ馴れしい口調に、陽菜は、困ったように曖昧に笑うことしかできない。
俺は、握りしめたヤスリが、ミシミシと音を立てているのに気づいた。
胸の奥で、黒くて、醜い炎が、メラメラと燃え上がっている。
なんで、あいつは、いつも、陽菜の隣に当たり前のように行くんだ。
なんで、俺は、ここで、黙って見ていることしかできないんだ。
◇
(……困ったな)
神崎くんが、また来た。
体育祭が終わってから、彼は、以前にも増して頻繁に私たちのクラスに顔を出すようになった。
彼が、私に好意を持ってくれているのは、なんとなくわかる。
でも、私は、その気持ちに応えることはできない。
私の心の中には、もう、カケルしかいないのだから。
「陽菜、すごいじゃん! 神崎くんといい感じ?」
隣で、舞がニヤニヤしながら私の耳元で囁いた。
「ち、違うってば! 私は、別に……」
「はいはい。わかってますよーだ。……でも、桜井くんも、そろそろ本気出さないと取られちゃうかもね?」
「……!」
舞の、その言葉に、私の心臓がチクリと痛んだ。
ちらりと、カケルの方を見る。
彼は、黙々と、ヤスリがけの作業を続けていた。
でも、その背中は、どこか怒っているように硬直している。
(……もしかして、ヤキモチ焼いてくれてるのかな)
そう思うと、少しだけ嬉しくなった。
でも、それと同時に不安にもなる。
このままじゃ、ダメだ。 私と、カケルの関係は、何も、変わらないまま時間だけが過ぎていってしまう。
何か、きっかけが必要だ。
彼が、私を、もっと意識してくれるような特別な何かが。
私が、そんなことを考えていると。 蓮くんが、私たちのグループに、ひょっこりと顔を出した。
「よぉ、天使たち。準備は順調かい?」
「蓮くん! うん、バッチリだよ! 見て、このエプロン、可愛いでしょ?」
「お、いいねぇ。陽菜が着たら、マジで天使降臨だな」
蓮くんの、そのキザなセリフに、周りの女子たちが、きゃー、と黄色い声を上げる。
私は、苦笑いするしかなかった。
「それで、男子の衣装の方も、頼むぜ、リーダーさん。……特に、俺のやつは、特別仕様でな」
「もう、蓮くんは」
私が、呆れたように、でも、少しだけ楽しんでそう言うと、蓮くんはニヤリと笑った。
そして、今度は舞の方に向き直る。
「……あ、そうだ。舞、ちょっといい?」
蓮くんはそう言って、舞の肩を叩き、少しだけ、輪の中から連れ出した。
二人は、教室の隅で、何やらこそこそと話し込んでいる。
その、悪戯を企んでいる子供のような二人の横顔を、私は不思議な気持ちで眺めていた。
◇
「……で? 作戦は、順調かよ、舞」
教室の隅で、蓮が、私にニヤリと笑いかけた。
「当たり前でしょ。こっちは、もう準備万端よ」
私、結城舞も、同じように、ニヤリと笑い返す。
私と蓮くんは、今、ある壮大な計画を、水面下で進めているのだ。
名付けて、『ヘタレな親友を、無理やり天使の隣に立たせてやろうぜ大作戦』。
「男子の、ホールスタッフ用のベスト、一着だけ、わざと小さいサイズで発注しといたから」
「いいねぇ。で、当日は、それを田中あたりに着せて、『あれ? サイズ合わねぇじゃん!』って、なると」
「そう。それで、『どうしよう! ホールスタッフが、一人足りない!』って、クラス中がパニックになるわけ」
「そこに、俺が、颯爽と登場。『それなら、俺たちの、秘密兵器を、投入するしかねぇな』って言う」
「秘密兵器?」
「桜井駆だよ。あいつのために陽菜が採寸した、あのシンデレラフィットの黒いベスト。あれを着せるんだよ」
「なるほど! キッチン係のはずの桜井くんを、緊急事態を理由にホールに引きずり出すわけね!」
「そういうこと。クラス委員長には、俺から、うまく言っとく。『駆は、ああ見えて、接客の才能秘めてるから』ってな」
「あんた、悪魔ね」
「褒め言葉だろ?」
私と蓮くんは、顔を見合わせて、くすくすと笑った。
ごめんね、陽菜、桜井くん。
でも、これも全部、あんたたち二人のためなんだから。
あんたたちの、じれったい恋を見ていると、こっちまでむず痒くなってくるんだよ。
◇
文化祭準備の最終日。
俺は健太は、教室の内装用の大きなパネルを運んでいた。
その時だった。
陽菜が、小さな箱を抱えて、俺たちの前を通り過ぎようとした。
その箱は、彼女の身体には、少し大きすぎたようだ。
前が見えづらいのか、彼女の足が、床に置いてあった工具箱につまずいた。
「うわっ!」
陽菜の小さな悲鳴。
彼女の身体が、ぐらりと、傾く。
俺は、持っていたパネルを放り出し、とっさに、彼女の身体を支えた。
「……大丈夫か、陽菜」
「う、うん。ごめん、ありがとう……」
俺の腕の中で、陽菜が、顔を真っ赤にして俯いている。
俺の、胸の中に、すっぽりと収まる小さな身体。
甘い匂い。
柔らかな感触。
俺の心臓が、また、大きく、跳ねた。
◇
(……また、だ)
カケルの腕の中に、いる。
彼の、硬い胸板の感触。
Tシャツ越しに伝わってくる熱い体温。
汗と制汗剤の匂いが混じった、カケルだけの匂い。
そのすべてが、私の思考を停止させる。
ラッキースケベなんて、そんな軽い言葉じゃ片付けられない。
ただ、彼の腕の中にいる、という事実だけで。
私の心は、安心感と、そして、どうしようもないくらいの幸福感でいっぱいになっていた。
怖い、なんて少しも思わない。
むしろ、ずっとこうしていたい。
守られてる。
大切にされてる。
その事実が、私の心を、幸せな気持ちでいっぱいにしてくれた。
◇
「……ったく。危ねぇだろ。一人で、無理すんなよ」
「……ごめん」
俺は、彼女から、そっと身体を離すと、彼女が持っていた箱を、ひょいと持ち上げた。
「これ、どこまで運ぶんだ?」
「あ、えっと……。ステージの脇まで……」
「おう。わかった」
俺は、箱を軽々と持ち上げ歩き出す。
陽菜は、その後ろを申し訳なさそうについてきた。
箱を、指定された場所に置くと、陽菜がぺこりと頭を下げた。
「……ありがとう、カケル。助かった」
「……別に。これくらい、どうってことねぇよ」
俺は、照れ隠しにそう言って、そっぽを向いた。
その時、陽菜が、何かを思い出したように、あ、と声を上げた。
「そうだ。……私、明日、カフェで出すクッキー、これからたくさん焼かなきゃいけないんだ」
「……へぇ、大変だな」
「うん。……だから、もし、よかったらなんだけど……。カケル専用の、特別なクッキーも、試作してみようかなって。……味見、してくれる?」
陽菜は、恥ずかしそうにそう言った。
手作りのクッキー。
俺専用の、特別な。
その言葉の、破壊力は凄まじかった。
俺の胸は、温かいものでいっぱいになる。
「……おう。……楽しみにしてる」
俺は、それだけ言うのが精一杯だった。
陽菜は、嬉しそうにはにかむと、ぱたぱたと自分の持ち場へと戻っていった。
俺は、その場に、立ち尽くしたまま、自分の熱くなった顔を、両手で覆った。




