第40話 「……触ってみる?」
体育祭の翌日。
俺、桜井駆は、全身を襲う、心地よい筋肉痛と共に目を覚ました。
特に、リレーで酷使した脚と腕が、悲鳴を上げている。
だが、その痛みすら、昨日の勝利の勲章のように感じられて、悪くはなかった。
昨日の打ち上げは、めちゃくちゃ盛り上がった。
ファミレスで、みんなで、今日の健闘を称え合い、馬鹿な話で笑い合った。
陽菜は、ずっと、俺の隣に座って、楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ているだけで、俺の心は、温かいもので、いっぱいになった。
もう、合宿の時のような不安や罪悪感はない。
俺は、陽菜のことが大切だ。 そして、陽菜も、きっと俺のことを、大切に思ってくれている。
その確信だけで、俺はどこまでも強くなれる気がした。
日曜日の午後。
俺は、陽菜と二人で、駅前の書店に来ていた。
参考書を買いに来た、というのは、ただの口実だ。
本当は、ただ二人で一緒にいたかっただけ。
そんな、ガキみたいな理由で、俺は、あいつをデートに誘ったのだ。
「カケル、見て。この問題集良さそうだよ」
陽菜が、棚から一冊の参考書を取り出し、俺に見せてくる。
その、何気ない仕草。
その、当たり前の日常。
そのすべてが、今の俺には、宝物のように輝いて見えた。
参考書を買い終え、俺たちは、帰り道を、ゆっくりと歩いていた。
夕日が、俺たちの影を、長く、長く、アスファルトの上に伸ばしている。
「……いてて……」
不意に、俺の口から呻き声が漏れた。
階段を降りた瞬間、背中と太ももの筋肉が、びきり、と、鋭く痛んだのだ。
「カケル、大丈夫? やっぱり、昨日のリレー、相当無理したんじゃない?」
陽菜が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……平気だ。これくらい、どうってことねぇよ」
俺は、強がってそう言った。
好きな女子の前で、体が痛いなんて、カッコ悪くて言えるか。
「でも、無理は禁物だよ。陸上部の練習に響いちゃったら、大変だもん」
「……わかってる」
陽菜のその優しい言葉が、俺の胸にじんわりと染みる。
そうだ。俺は陸上部員なんだ。
怪我だけは、絶対に避けなければならない。
『練習と同じくらい、身体のケアにも時間をかけろ。ストレッチだけじゃない。マッサージも有効だぞ。疲労を次の日に持ち越すな』
ふと、俺の頭の中に、大和部長の言葉が蘇った。
「……そういや、大和部長も言ってたな。マッサージが大事だって」
俺が、ぽつりとそう呟いた。
すると、陽菜は、ぴたりと足を止めた。
そして、くるりと俺の方を振り返る。
その大きな瞳が、何かを決意したようにキラリと光った。
「……ねぇ、カケル」
「……なんだよ」
「よかったら、……私がやってあげようか? マッサージ」
その、あまりにも予想外の提案に。
俺の思考は、完全にフリーズした。
◇
「……い、いや、でも! 悪いだろ! お前だって、疲れてるだろうし!」
俺の家の前で、俺は自分でも驚くほど、しどろもどろになっていた。
陽菜の「マッサージしてあげる」という提案を、俺は断りきれなかったのだ。
「大丈夫だよ! 私、部活で、よく舞とマッサージし合ってるから、慣れてるの!」
そう言って、屈託なく笑う陽菜に、俺は、頷くことしかできなかった。
そして、なぜか俺の家ではなく、陽菜の家に来ることになってしまった。
「お母さんたち、今日は二人とも町内会の集まりで遅くなるから誰もいないの。その方が、カケルも気楽でしょ?」
気楽なわけ、あるか。
むしろ、逆だ。
誰もいない、女の子の家に二人きり。
その状況が、俺のなけなしの理性を、崖っぷちまで追い詰めている。
そして、俺が案内されたのは、リビングではなく、陽菜の部屋だった。
「ベッドの方が、やりやすいでしょ? さあ、カケル。うつ伏せになって」
この前、あいつが風邪をひいた時に看病で入ったけど、あの時はそれどころじゃなかった。
こうして、ちゃんとした意識で陽菜の部屋に入るのは、本当に、小学生の時以来かもしれない。
白とピンクを基調とした、いかにも女の子らしい部屋。
勉強机の上には、可愛いキャラクターの文房具が並んでいる。
そして、部屋全体が、陽菜の甘い匂いに満ちていた。
心臓が、今にも、口から飛び出しそうだ。
俺は、言われるがままに、彼女のベッドの上に、おそるおそる、うつ伏せになった。
シーツの、柔らかな感触と、陽菜の匂いが、俺の思考をぐちゃぐちゃにする。
ドキドキしているのを悟られたくなくて、俺は、顔を、枕にぎゅっと押し付けた。
「じゃあ、始めるね。……ちょっと、Tシャツ、まくるよ?」
「……っ!」
陽菜の、小さな指先が、俺のTシャツの裾に触れ、ゆっくりと捲り上げていく。
クーラーに冷やされた、少しだけひんやりとした空気が、俺の汗ばんだ背中に直接触れた。
ぞくりとした、奇妙な感覚に、俺の身体がびくりと跳ねる。
「ご、ごめん! 冷たかった?」
「……いや、平気だ」
平気なわけ、ないだろ。
俺は、奥歯をギリリと噛み締めた。
そして。 陽菜の温かくて柔らかな手のひらが、俺の背中に、そっと置かれた。
◇
(……うわぁ……)
カケルの背中は、私が想像していたよりも、ずっと広くて硬かった。
Tシャツを捲り上げた、剥き出しの肌。
日に焼けた、褐色の肌の下で、鍛え上げられた筋肉が、生き物のように隆起している。
これが、男の子の、身体……。
(……すごい)
私は、ゴクリと、唾を呑んだ。
彼の背中は、ただの硬い板なんかじゃなかった。
温かい。
生きている。
彼の呼吸に合わせて、大きな背中が、ゆっくりと上下する。
その、力強い生命のリズムが、私の手のひらから、じかに伝わってくる。
なんだか、すごく恥ずかしい。。
しかも、ここは、私の部屋。私のベッドの上。
そんなプライベートな空間で。彼の、ほとんど裸みたいな身体に触れている。
その事実に、この顔に全身から血が集まってきているように思う。
(……ダメだ、私。ちゃんと、マッサージしなきゃ)
私は、深呼吸を一つして、意識を集中させた。
舞と、いつもやっているように。
彼の、肩甲骨の周りを、親指で、ぐっと押していく。
「……ん」
カケルが、小さく呻いた。
「……痛い?」
「……いや。……気持ち、いい」
彼の、くぐもった声が、枕を通して聞こえる。
その声を聞いただけで、私の心臓は、また、ドキドキと速くなった。
彼の背中に触れている、手のひらが、汗でじっとりと湿っていくのがわかる。
もっと、触れていたい。
でも、これ以上は、ダメだ。
私の心臓が、もたない。
私は、背中から、腰、そして、太ももへ。
ゆっくりとマッサージを続けていく。
彼の、引き締まった、脚の筋肉。
その圧倒的な熱量に、私の頭はクラクラしていた。
これが、毎日、あの、力強い走りを生み出している筋肉。
そう思うと、なんだか、すごく神聖なものに触れているような気がした。
◇
どれくらいの時間、経っただろうか。
陽菜の、丁寧なマッサージが終わる頃には、俺の身体は、すっかりほぐれていた。
体の痛みも、だいぶ和らいでいる。
「……サンキュ、陽菜。すげぇ楽になった」
俺は、上半身を起こしながら、そう言った。
「ほんと? よかった」
陽菜は、額に浮かんだ汗を、手の甲で拭いながら嬉しそうに笑った。
その顔は、少しだけ、赤くなっているように見えた。
「……でも、陽菜こそ、疲れただろ。俺、結構、身体ガチガチになってたし」
「ううん、平気だよ。……でも、ちょっとだけ、肩、凝っちゃったかな」
陽菜は、そう言って、自分の右肩をこきこきと回した。
その、何気ない仕草。
俺は、その時、何を思ったのか。
気づけば俺の口は、勝手に動いていた。
「……じゃあ、俺が、揉んでやろうか?」
言ってから、しまった、と思った。
俺が、陽菜の身体に触れる?
そんなこと、できるはずがない。
だが陽菜は、驚いたように目を見開くと、次の瞬間、嬉しそうにはにかんだ。
「……いいの?」
「……おう。まあ、お返し、ってことで」
俺は、心臓がバクバクと鳴っているのを、必死に隠しながら、陽菜の後ろに回り込んだ。
陽菜が、ベッドの縁に、ちょこんと座る。
俺も、その隣に、少しだけ距離を空けて座った。
そして、おそるおそる、彼女の小さな肩に手を置いた。
「……っ!」
柔らかい。
信じられないくらい、柔らかくて華奢だった。
俺の、ゴツゴツした手とは全く違う、女の子の身体。
Tシャツ一枚を隔てて、彼女の温かい体温が、じかに伝わってくる。
俺は、どうしていいか、わからなくなった。
ただ、その柔らかな感触に、頭の中が真っ白になる。
「……陽菜、なんで、こんなに、肩、凝ってんだ?」
俺は、なんとか言葉を絞り出した。
すると、陽菜は、少しだけいたずらっぽく笑った。
「んー、なんだろうね。……多分、ここの、重しのせい、かな?」
そう言って、彼女は、自分の胸を、ちらりと見下ろした。
その、仕草の意味を、俺が理解するのに数秒を要した。
そして、理解した瞬間。
俺の視線は、磁石に引き寄せられるように、彼女の豊かな胸に釘付けになった。
Tシャツの生地を、内側から強く押し上げる、二つの柔らかな膨らみ。
その、圧倒的な、存在感。
(……あ)
俺は、息を呑んだ。
顔が、燃えるように熱い。
俺が、固まっていると。
陽菜が、俺の方をくるりと振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
そして、俺の耳元で囁いた。
吐息がかかるほどの、至近距離で。
「……触ってみる?」
その悪魔のような一言に。
俺のなけなしの理性は、完全に、粉々に、砕け散った。
「ば、ばばば、バカ! な、何言ってんだよ、お前は!」
俺は、人生で一番、大きな声で叫んだ。
そして、ベッドから転げ落ちそうなくらいの勢いで後ずさる。
「あはははは! ご、ごめん! カケルの反応が、面白すぎて!」
陽菜は、腹を抱えて、涙を流しながら、ベッドの上で笑い転げている。
俺は、床にへたり込んだまま動けなかった。
顔が、熱い。
心臓が、痛い。
もうダメだ。
俺は、こいつには、一生、勝てない。
俺は、その場から逃げるように、半ば這いつくばりながら、陽菜の部屋を後にした。
背後で、まだ陽菜が笑っている声が聞こえる。
ちくしょう。覚えてろよ。
◇
カケルが、慌てて部屋から出て行った後も、私は、しばらく、笑いが止まらなかった。
(……あはは! なに、今の顔! 面白すぎる!)
いつも、ポーカーフェイスで、何を考えているかわからない彼が、あんなにわかりやすく動揺して。
その姿が、可愛くて、愛おしくて、たまらなかった。
私の勝ちだ。
そう、心の中で、小さくガッツポーズをした。
その夜。
自分の部屋のベッドの中。
私は、天井を眺めながら、今日の出来事を、思い出していた。
彼の、逞しい背中。
私の、肩に触れた、大きな手のひら。
そして、私の、あの、大胆な一言。
『……触ってみる?』
その言葉を、頭の中で、再生した瞬間。
私の、全身の血液が、顔に集中していくのがわかった。
熱い。
熱くて、死にそう。
さっきまで、カケルのことを笑っていたのに。
今度は、私が、茹でダコみたいに真っ赤になっている。
(……きゃあああああああっ!)
心の中で、私は絶叫した。
な、な、な、な、何言ってるの、私!?
バカ! アホ! 私の、バカ!
カケルの反応が面白くて、つい、調子に乗ってしまった。でも、冷静に考えたら、あんな、はしたないこと……!
私は、恥ずかしさに耐えきれず、近くにあった枕を、ぎゅっと抱きしめると、その中に顔を埋めた。
でも、それだけじゃ、なかった。
恥ずかしさと同じくらい、別の感情が、私の、身体の奥底から、湧き上がってくる。
カケルに、マッサージをしていた時の、あの感触。
日に焼けた、褐色の肌。
生き物のように、隆起する、硬い筋肉。
彼の、熱い、体温。
その、男の子の身体に、私は、確かに、触れたのだ。
(……あの身体に、もし、ぎゅっと、抱きしめられたら)
彼の、逞しい腕の中に、閉じ込められてしまったら。
私は、どうなってしまうんだろう。
想像しただけで、身体の芯が、じんと、熱くなる。
私は、枕に顔を埋めたまま、ばたばたと、足を、ベッドの上で、転がした。
もう、ダメだ。 眠れない。
カケルのことを、考え出すと、ドキドキが、止まらなくなってしまう。
彼の逞しい身体も。
私の小悪魔な一言に、真っ赤になって狼狽える可愛い顔も。
その全部が、愛おしくてたまらない。
私は、枕を、もう一度ぎゅっと抱きしめた。
◇
その頃、桜井家の二階。
俺は、自分の部屋のベッドの中で、天井を睨みつけていた。
眠れるわけが、なかった。
手のひらには、まだ、彼女の、柔らかな肩の感触が、生々しく残っている。
耳の奥では、彼女の、悪魔のような囁きが、何度も何度もリフレインする。
『……触ってみる?』
そのたびに、俺の身体は、勝手に、熱を帯びる。
心臓の鼓動の音がうるさいほど聞こえる。
全身の血が集まっているかのように、顔が、熱い。
あの時の、陽菜の顔が、頭から離れない。
俺を、からかうように、悪戯っぽく笑う、あの顔。
そして、俺の視線が、自分の胸に注がれていることに気づいた時の、あの少しだけ潤んだ瞳。
(……あいつ、わかってて、言ったのか?)
いや、違う。
きっと、違う。
あいつは、ただ、俺を、からかっただけだ。
深い意味なんて、ないはずだ。
そう、頭ではわかっている。
でも、身体は正直だった。
腹の底から、得体の知れない、熱い何かが込み上げてくる。
合宿の夜に、感じてしまった、あの感覚。
それが、今、俺の全身を、支配しようとしていた。
(……くそっ)
俺は、ベッドから起き上がると、机の上の、水の入ったグラスを一気に呷った。
冷たい水が、喉を通り過ぎていく。
でも、身体の熱は、少しも冷めてくれなかった。
窓の外は、静かな夜の闇に包まれている。
隣の家の、陽菜の部屋の窓は、もう、明かりが消えていた。
あいつは、もう、眠っているのだろうか。
俺みたいに、今日のことを、思い出して、ドキドキしたり、してないだろうか。
……するわけ、ないか。
俺は、自嘲するように、小さく笑った。
そして、再び、ベッドに、倒れ込む。
秋は夜長という。
俺の、眠れない夜は、なかなか、終わりそうになかった。
この第40話だけ、やたらと長くなりすぎました…。
体育祭編はここまでです。
次の章では、天使の陽菜をたくさんお届けします。
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